第10話 よるの望遠鏡(前編)
その子は、講義のあとの廊下で、わたしを待ち伏せていた。
十二月の、よく晴れた昼下がりだった。廊下の窓から差す光は、もう色を失いかけている。古い建物の蛍光灯は半分だけ点いていて、その消えたほうの暗がりに、その子は立っていた。わたしが通りかかるのを、ずっと待っていたみたいに。
「あの……大津さん、ですよね。視える、っていう」
わたしは、足を止めた。
学内で、その噂が回っているのは知っていた。視える子。気味の悪い子。便利な子。呼ばれ方は、いろいろある。
どれも、たぶん当たっている。だから、わざわざ訂正する気にもならない。
ただ、こうして面と向かって言われると、すこしだけ、息がつまる。ふつうの大学生が廊下で名前を覚えられるのは、もっと別の理由のはずだ。
「人ちがいです」
「天文部の、北川といいます。三年で、いまは部長で。お願いします、一回だけでいいんです」
北川さんは、深く頭を下げた。まじめそうな、いい子だった。困っている人の頭の下げ方を、よく知っていた。そういう子だ。
わたしは、その下げられた頭の、つむじのあたりを見ていた。
ほんとうに困っている人はたいてい、自分でも気づいていない理由で困っている。この子もたぶん、そうだ。
「報酬は」
「……学食、おごります。日替わりの、いちばん高いやつでも」
わたしは、ため息をついた。
ふつうの大学生なら、こういうとき、断る理由を探すのだろう。わたしは、いちばん高い日替わりの値段を頭の中で数えていた。
今月も、家賃のほうが、わたしの誇りより先に来る。
わたしは、その子のあとについて歩きだした。
断れないのは、お金のせいだ。すれているわけではない。本当にただ、お金がないだけだ。
◆
天文部の部室は、古い部室棟の、いちばん奥にあった。
廊下は冷えきっていて、歩くたびに、足音がやけに大きく響いた。両側の部室は、昼なのにほとんど灯りが消えている。いちばん奥のドアにだけ、すりガラスごしに、ぼんやりと光が見えた。
なかに入ると、古い紙とほこりの匂いがした。星と、それに憧れた人たちの、長い時間の匂い。
星の図鑑と、ほこりをかぶった機材。狭いけれど、居心地のいい場所だった。誰かにとっては、家より家らしい場所。
壁には、何年ぶんもの合宿の写真が画びょうで留めてあった。色のあせた笑顔が何十人ぶんも、こちらを見ている。みんな、いつかはここからいなくなった人たちだ。
その写真の、すこし古いものに、背の高い男の人が何枚も写っていた。いつもいちばん後ろで、すこし困ったように笑っている。
名札の主だ、とすぐにわかった。写真のなかの彼は、まだちゃんとここにいた。
どの写真でも、彼はみんなの輪の、すこしだけ外にいた。笑っているのに、ひとりだけ、写真に入りそびれているみたいに見えた。
壁に、白い在室ボードがかかっていた。
部員の名前が、マグネットの名札で並んでいる。それぞれが「在室」と「不在」の欄を、行ったり来たりするようになっていた。
ほとんどの名札は、いまは「不在」のほうに寄っている。昼間で、みんな講義に出ているからだ。
「これなんです」
北川さんが指したのは、いちばん上の名札だった。
逢坂、と書いてある。
「逢坂さん。前の部長で、四年の人で……半年前から、一度も来てないんです。なのに」
その名札だけが、「在室」の欄に、ぴたりと貼りついていた。
ほかの名札が「不在」に並ぶなかで、そこだけ、ひとつ灯りがともっているみたいに見えた。
「毎朝、来ると、在室になってるんです。夜のうちに、誰かが動かしたみたいに。鍵は、おれしか持ってないのに」
北川さんの声には、こわがっている響きと、もうひとつ、別のものが混じっていた。それが何かは、まだわからなかった。
わたしは、手袋を嵌めた。
名札に、指先を近づける。
とたんに、鼻の奥に、においが届いた。
冷たい。土の、底のほうのにおい。線香の、消えたあとのにおい。
まちがえようがない。これは、死のにおいだ。
(……亡くなって、いる?)
わたしは、ほかの名札にも指を近づけてみた。
ほかは、何もにおわない。ただのマグネットだ。死のにおいは、逢坂さんの名札のところだけ、そこからこぼれていた。
まるで、その小さな名札の裏に、誰かがひとり分の冬を、しまいこんでいるみたいだった。
わたしは、ひとつ、息を呑んだ。顔には出さない。出すと、ややこしくなる。
部屋の隅で、三脚に載った望遠鏡が、こちらを見ていた。
古い機械だ。けれどレンズだけは、毎日だれかが拭いているみたいに、よく澄んでいた。
その筒先は、窓のほうへ――まだ昼なのに、夜空を探すみたいに、すこし上を向いていた。
誰も、触っていないのに。
わたしは、その向きを、しばらく見ていた。
昼の空に、何があるというのだろう。半年も、観つづけたいものが。




