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京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怪異より先に、人の事情が視えてしまう~  作者: KASANE
大学生編

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第9話 八月の教室(後編)


「ぼく、なんですか」


 瀬川さんは、殴られたみたいな顔をした。


「でも、ぼくは、書いてなんか」


「手では、ね」


 わたしは、まず、いちばん単純な線から潰すことにした。


 本人が眠ったまま無意識に書いている。夢遊病のようなものだ。じゅうぶんありえる。


 けれど教頭先生が宿直の記録を出してくれて、その線は消えた。黒板に字が増えた何日かは、瀬川さんは家に帰っていて学校にいなかった。本人がいない夜にも字は増えていた。


 それに、と、わたしは黒板の字をもう一度見た。


 筆圧が、瀬川さんの字よりずっと弱い。同じ字なのに、書いた人の元気だけが抜け落ちている。気力の抜けた手で、それでも毎晩、律儀に書きにくる。


「あなたが書いたんじゃ、ありません。あなたの中にいる、もうひとりのあなたが、書いたんです」



 その夜、わたしは誰もいない教室にもう一度残った。


 夜のほうが、念はよく見える。


 影は、まだそこにいた。昼よりも輪郭がくっきりしている。瀬川さんによく似た、背中の丸い人。黒板に向かって、見えないチョークを動かしていた。


 むいてない。やめておけ。どうせ。


 書いては消し、消しては書く。誰に見せるでもなく、ただ自分に言い聞かせるみたいに。瞬きを、一度もしなかった。


「瀬川さん」


 わたしは、本物のほうに声をかけた。


「その声――いちばん最初に、それを言ったのは、誰ですか」


 瀬川さんの肩が、揺れた。


「……片桐先生、です。指導してくださっている、ベテランの」


 ぽつり、ぽつりと、こぼれるみたいに。


「授業を見てもらうたびに、言われるんです。きみのやり方は甘い。理想ばっかりだ。きみは、たぶん、向いてないよ、って」


 わたしは、片桐という先生に、昼間いちど会っていた。穏やかな、いい先生に見えた。瀬川さんのことを悪く言うつもりなんて、たぶんこれっぽっちもないのだろう。


 自分が言った言葉を、覚えてさえいないはずだ。


 言ったほうは忘れて、言われたほうが毎晩それを書き写す。一秒の言葉が、半年かけて、ひとりの人の形になる。


 わたしは、めったに腹を立てない。怪異には動じないし、人の言葉も最初から半分に値切って聞いている。


 でも、このときばかりは、すこし声が低くなった。


「便利なものですわね。『向いてない』というのは」


(しまった、また出た)


 舌打ちして、わたしは言い直した。


「……便利な言葉です。言うほうは、一秒で忘れられる。言われたほうは、一生、消せない」



 わたしは、桃木剣を出さなかった。式札も、護符も。


「祓えません」


 わたしは言った。


「これは、あなたの念です。生きている人の念は、わたしには切れない。――あなたを責めているのも、あなた。それを止められるのも、あなただけです」


「ぼく、には」


「ええ。あなたが、いちばん、自分にきびしい」


 影は、まだ黒板を撫でていた。


「ひとつだけ、訊きます。その声は、あなたの声に、似ていますか」


 瀬川さんは、長いあいだ黙っていた。


 それから、影の口の動きをじっと見て、小さく首を振った。


「……ちがいます。あれは、ぼくの声じゃ、ない」


 その瞬間、影の輪郭がすうっと薄くなった。


 瀬川さんが自分でそれに気づいただけで、緒の輪はもうほどけはじめていた。怪異というのは、たいてい、人の心がほどけた瞬間に、いちばんあっけなく消える。


 わたしは、桃木剣の先を、その輪にそっと当てた。閉じていた輪が、一か所だけ、ほどけて開く。


「また結ぶか、結ばないかは、あなた次第です。……わたしには、そこまでは、できません」



 影が消えたあと、黒板には、書きかけの『むいて』だけが、途中で止まって残っていた。


 わたしは、それを消そうとして――手を止めた。


 黒板のいちばん隅。否定の言葉とは、別のところ。


 ごく小さな字で、もうひとつ書いてあった。


『こどもたちは、せんせいのこと、すきだったよ』


 同じ、瀬川さんの字だった。筆圧の弱い、あの影の字だ。


 自分を責める念のいちばん下に、自分をいたわる念もちゃんといた。むいてない、と書きながら、同じ手で、こっそりそう書いていた。


 わたしは、その一行を、瀬川さんには言わなかった。


 言ったほうがいいのか、黙っているのが正しいのか――それだけは、頭のいいはずのわたしにも、最後まで視えなかった。


 いつか本人が、自分で見つければいい。自分を責めるのと同じ手で、自分をいたわっていたことに。



 帰り道、夜の坂を自転車で下りながら、わたしは思った。


 わたしも長いこと、ひとつの声を、自分の声だと思って生きてきた。


 お前の力は、家のものだ。


 あれは父の声で、家の声で、けっして、わたしの声ではなかった。気づくのに、家を出るところまでいってしまった。


 遠くで、プールのろ過装置が、まだ低く唸っていた。夏の夜は、なかなか冷めない。誰も泳がない水を、それでも回し続けている音だ。


 寝不足は、肌に出る。


 明日もきっと、知らない番号から電話がかかってくる。


 わたしは、レポートの締切のことを思い出した。それも、たぶん、もう過ぎている。


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