第9話 八月の教室(後編)
「ぼく、なんですか」
瀬川さんは、殴られたみたいな顔をした。
「でも、ぼくは、書いてなんか」
「手では、ね」
わたしは、まず、いちばん単純な線から潰すことにした。
本人が眠ったまま無意識に書いている。夢遊病のようなものだ。じゅうぶんありえる。
けれど教頭先生が宿直の記録を出してくれて、その線は消えた。黒板に字が増えた何日かは、瀬川さんは家に帰っていて学校にいなかった。本人がいない夜にも字は増えていた。
それに、と、わたしは黒板の字をもう一度見た。
筆圧が、瀬川さんの字よりずっと弱い。同じ字なのに、書いた人の元気だけが抜け落ちている。気力の抜けた手で、それでも毎晩、律儀に書きにくる。
「あなたが書いたんじゃ、ありません。あなたの中にいる、もうひとりのあなたが、書いたんです」
◆
その夜、わたしは誰もいない教室にもう一度残った。
夜のほうが、念はよく見える。
影は、まだそこにいた。昼よりも輪郭がくっきりしている。瀬川さんによく似た、背中の丸い人。黒板に向かって、見えないチョークを動かしていた。
むいてない。やめておけ。どうせ。
書いては消し、消しては書く。誰に見せるでもなく、ただ自分に言い聞かせるみたいに。瞬きを、一度もしなかった。
「瀬川さん」
わたしは、本物のほうに声をかけた。
「その声――いちばん最初に、それを言ったのは、誰ですか」
瀬川さんの肩が、揺れた。
「……片桐先生、です。指導してくださっている、ベテランの」
ぽつり、ぽつりと、こぼれるみたいに。
「授業を見てもらうたびに、言われるんです。きみのやり方は甘い。理想ばっかりだ。きみは、たぶん、向いてないよ、って」
わたしは、片桐という先生に、昼間いちど会っていた。穏やかな、いい先生に見えた。瀬川さんのことを悪く言うつもりなんて、たぶんこれっぽっちもないのだろう。
自分が言った言葉を、覚えてさえいないはずだ。
言ったほうは忘れて、言われたほうが毎晩それを書き写す。一秒の言葉が、半年かけて、ひとりの人の形になる。
わたしは、めったに腹を立てない。怪異には動じないし、人の言葉も最初から半分に値切って聞いている。
でも、このときばかりは、すこし声が低くなった。
「便利なものですわね。『向いてない』というのは」
(しまった、また出た)
舌打ちして、わたしは言い直した。
「……便利な言葉です。言うほうは、一秒で忘れられる。言われたほうは、一生、消せない」
◆
わたしは、桃木剣を出さなかった。式札も、護符も。
「祓えません」
わたしは言った。
「これは、あなたの念です。生きている人の念は、わたしには切れない。――あなたを責めているのも、あなた。それを止められるのも、あなただけです」
「ぼく、には」
「ええ。あなたが、いちばん、自分にきびしい」
影は、まだ黒板を撫でていた。
「ひとつだけ、訊きます。その声は、あなたの声に、似ていますか」
瀬川さんは、長いあいだ黙っていた。
それから、影の口の動きをじっと見て、小さく首を振った。
「……ちがいます。あれは、ぼくの声じゃ、ない」
その瞬間、影の輪郭がすうっと薄くなった。
瀬川さんが自分でそれに気づいただけで、緒の輪はもうほどけはじめていた。怪異というのは、たいてい、人の心がほどけた瞬間に、いちばんあっけなく消える。
わたしは、桃木剣の先を、その輪にそっと当てた。閉じていた輪が、一か所だけ、ほどけて開く。
「また結ぶか、結ばないかは、あなた次第です。……わたしには、そこまでは、できません」
◆
影が消えたあと、黒板には、書きかけの『むいて』だけが、途中で止まって残っていた。
わたしは、それを消そうとして――手を止めた。
黒板のいちばん隅。否定の言葉とは、別のところ。
ごく小さな字で、もうひとつ書いてあった。
『こどもたちは、せんせいのこと、すきだったよ』
同じ、瀬川さんの字だった。筆圧の弱い、あの影の字だ。
自分を責める念のいちばん下に、自分をいたわる念もちゃんといた。むいてない、と書きながら、同じ手で、こっそりそう書いていた。
わたしは、その一行を、瀬川さんには言わなかった。
言ったほうがいいのか、黙っているのが正しいのか――それだけは、頭のいいはずのわたしにも、最後まで視えなかった。
いつか本人が、自分で見つければいい。自分を責めるのと同じ手で、自分をいたわっていたことに。
◆
帰り道、夜の坂を自転車で下りながら、わたしは思った。
わたしも長いこと、ひとつの声を、自分の声だと思って生きてきた。
お前の力は、家のものだ。
あれは父の声で、家の声で、けっして、わたしの声ではなかった。気づくのに、家を出るところまでいってしまった。
遠くで、プールのろ過装置が、まだ低く唸っていた。夏の夜は、なかなか冷めない。誰も泳がない水を、それでも回し続けている音だ。
寝不足は、肌に出る。
明日もきっと、知らない番号から電話がかかってくる。
わたしは、レポートの締切のことを思い出した。それも、たぶん、もう過ぎている。




