第9話 八月の教室(前編)
夏は、わたしのいちばん嫌いな季節だ。
暑いし、汗をかくし、肌に悪い。冷房をつければ電気代が悲鳴をあげて、つけなければわたしの理性のほうが先に溶ける。どちらに転んでも、月末の財布には厳しい季節だった。
窓の外では、夜なのに、まだ蝉が一匹だけ鳴いていた。鳴きそびれた蝉だ。世の中には、終わる時を逃したまま鳴き続けているものが、けっこういる。
その電話がかかってきたのも、そんな寝苦しい夜のことだった。
「夜分にすまんね。……母校の、いうやつでな」
先月も小銭仕事を回してきた、私服の刑事さんだ。声が、いつもより歯切れが悪い。
「実習に来とる学生さんが、ちょっと参っとるらしいんや。学校が、こっそり視てくれる人を探しとって」
「報酬は、出ますの。……出ますよね」
わたしは舌打ちして、念のため二度訊いた。すれているわけではない。今月の電気代が、わたしの預金を冷たい目で見ているだけだ。
「出る出る。学校の後援会の積立から、こっそりとな」
学校の、後援会の積立。つまり今回も、表に出せない私的な困りごとというわけだ。
わたしは、ため息をひとつ、布団に落とした。
◆
その小学校は、坂をのぼった先の、古い校舎だった。
夏休みの学校というのは、世界でいちばん静かな場所のひとつだと思う。子どもの声が抜けたあとの廊下は、やけに広くて、やけに暗い。昼のあいだ詰まっていたはずの音が、まるごと持ち去られたみたいだった。
昇降口で、教頭先生が待っていた。眠れていない人の、乾いた顔をしている。プールのほうから、ろ過装置の低い唸りだけが、ずっと聞こえていた。誰も泳いでいない水を、機械だけが律儀に回し続けている。
「夜にお呼びして、すみません。……日中は、職員もいるものですから」
わたしは、借り物の上履きに履き替えた。つま先が、かすかに冷たい。
通されたのは、三階のいちばん奥の教室だった。
窓の外は、もう夜だ。校庭の桜が、街灯に照らされて、黒い塊になっている。教室には、子どもの机が、定規で引いたみたいにきちんと並んでいた。誰も座っていないのに整いすぎていて、かえって落ち着かない。空っぽの椅子が三十も、こちらを向いて待っている。
黒板の前に、ひとりの若い人が立っていた。
「瀬川です。……教育実習で、お世話になっている、瀬川と、いいます」
まじめそうな人だった。困っている人の頭の下げ方を、よく知っている。たぶん、ふだんからたくさん謝って生きてきた人だ。謝り慣れた人の背中は、すこし丸い。
わたしは、その黒板を見た。
白いチョークで、隅のほうに、小さな字が書いてある。
『むいてない』
『やめておけ』
角の取れた、やわらかい字だった。子どもに読み聞かせるみたいなやさしい字で、いちばんやさしくないことが書いてある。
「毎朝、来ると、これが書いてあるんです」
瀬川さんの声は、震えていた。
「ぼくの字なんです。ぼくが書いた覚えは、ないのに。……消しても、消しても、次の朝には、また」
◆
わたしは手袋を嵌めてから、黒板に指先を寄せた。
――ぞわり。
念が、昇ってくる。
チョークを握る指。子どもの名前をひとつ残らず覚えようとする念。夜中まで指導案を書き直す念。授業のあとにひとり教室へ残って、自分の声を録って聞き返す念。
まじめで、不器用で、いっしょうけんめいな念だった。
そして、その底に、低く流れている、ひとつの声があった。
どうせ。どうせ、ぼくなんか。
まじめな念のいちばん下を、その声が地下水みたいに流れている。表のいっしょうけんめいが濃いぶん、底の冷たさが、よけいにこたえた。
わたしは、念の底を探った。
……錆びた水の匂いは、しない。
死んだ人の念ではない。生きている人の、生霊の類だ。なんだ、と思いかけて、わたしはもう一度、教室を見渡した。
瀬川さんの、すこし後ろ。
誰もいないはずのその場所に、たしかに、ひとり立っていた。
瀬川さんによく似た人だった。けれど瀬川さんより少しだけ背中が丸く、少しだけ目を伏せていて、何も言わずに、ただ黒板を見ていた。輪郭が、夜の水にすこし滲んでいる。
まるで、瀬川さんの影だけを椅子から立たせたみたいだった。
(……出た)
わたしは、顔には出さなかった。こういうとき表情を動かすと、相手に気づかれる。気づかれると、ややこしくなる。
平気な顔で、わたしは教室のいちばん後ろまで歩いた。背中の影が、ついてくる気配はない。よかった。来られたら、たぶん、わたしのほうまで丸くなる。
わたしは、その影から伸びる念の緒を探した。
生きた人の念なら、緒はかならず本体まで繋がっている。たどれば、誰の念かが知れる。簡単な話だ。
(――この影を生んだ誰かを、引きずり出してやりますわ)
内心で、わたしはすこし胸を張った。あとから思えば、このときのわたしは、肝心の向きを読み違えていたのだけれど。
緒は、影の胸から伸びて、ゆっくりと床を這った。
わたしは、その先を目で追った。外へ。廊下へ。きっと、この影を生んだ誰かのところへ。
違った。
緒は、教室をぐるりと一周して、戻ってきた。
そして、瀬川さん本人の背中に、吸い込まれていった。
出たところへ、還っていく。どこにも行かず、自分のまわりを一周して、自分に帰る。輪になって、閉じている。
(……これは)
わたしは、ひとつ、息を呑んだ。背すじを、冷たいものがゆっくり昇ってきた。怪異の冷たさじゃない。もっと、身に覚えのある冷たさだ。
「瀬川さん」
わたしは、できるだけ平らな声で言った。
「これを書いているのは、誰でもありません。――あなた自身です」




