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京都陰陽師・真琴の怪異譚  作者: K3
大学生編

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第8話 となりの優等生(後編)


 その夜、わたしは律子さんに無理を言って、もう一度だけ家に上げてもらった。


 すずさんが寝たあとの、暗いリビング。


 昼に三つ出ていた湯のみは、ふたつだけ洗って伏せてあった。誰も飲まなかったひとつは、流しのなかで冷たくなっていた。


 像は、まだそこにいた。夜のほうが、念はよく見える。


 像の輪郭は昼よりもくっきりしていて、よくできた優等生の顔で、暗がりの中でも、ちゃんと微笑んでいた。


 夜の念は、遠慮がない。昼は半分すきとおっていた子が、いまは、生きた子とほとんど見分けがつかなかった。


 ただ、瞬きを、一度もしなかった。


「あの子は」


 律子さんが、像を見ながら言った。


「手のかからない、いい子なんです。聞き分けがよくて、まちがえなくて。あの子といると、わたし、ちゃんとしたお母さんでいられる」


 わたしは、像の背中に目を凝らした。


 像から伸びているはずの緒を探した。


 生きた人間なら、念の緒は必ず本体へ還っていく。死んだ人間なら、緒は切れて、死のにおいがする。


 けれど、その像には、どちらもなかった。


 緒は像の背中から伸びて――宙で、ぷつりと終わっていた。還る先がない。死のにおいもない。


 生きてもいない。死んでもいない。


 この子は、もとから、どこにもいない。


 律子さんの指先から、一本の緒が、像へ向かってのびていた。


 毎日、「この子がこうだったら」と願うたびに、その念が少しずつ、像のかたちをはっきりさせていく。


 怪異が勝手に、子どもを作ったわけではない。


 作っているのは、律子さんだ。毎日、自分の手で。


 いちばん怖いのは、幽霊ではない。生きている人が、生きたまま、誰かをいないことにしてしまう。そういう念のほうが、よほど濃い。


「律子さん」


 わたしは、できるだけ静かに言った。


「あなたが今、頭をなでているのは、どなたですか」


 律子さんの手が、止まった。


 その手は、像の髪をなでていた。本物のすずさんの部屋は、廊下のいちばん奥で、灯りも消えている。


「……だって」


 律子さんの声が、細くなった。


「この子なら。この子なら、わたしを、がっかりさせないから」


 ぽつりと、それは落ちた。


 わたしは、ことばを探すのをやめた。


 言ってしまえば、わたしはこの人を責められる。実の娘を見ていない、と。隣でずっと、自分の名前を取られたまま、うつむいている子がいる、と。


 でも、それを言う資格が自分にあるのか、わからなかった。


 わたしも、親の理想の中にいた子どもだ。「視える子」で、「うちの自慢」で、家のための娘だった。


 理想に応えているあいだは、たしかに、愛されていた。


 だからわかってしまう。理想の子でいるのは、ほんとうは、とても楽なのだ。がっかりされないというのは、こんなにもあたたかい。


 わたしは、その楽な場所を自分で降りて、家を出た。


 降りた側のことしか、やっぱり、わたしにはわからない。


「祓えません」


 わたしは言った。


「これは、あなたの念です。生きている人の念は、わたしには切れない。消せるのは、あなただけです」


 律子さんが、わたしを見た。


「廊下の奥に、すずさんがいます。ほんとうの。一度だけ、像のいないほうを見てあげてください」



 律子さんは、長いあいだ動かなかった。


 それからゆっくり立ち上がって、像に背を向けた。暗い廊下のいちばん奥のドアを、見た。


「……すず」


 その声は、さっきまでとちがっていた。像を呼ぶときの、なめらかな声ではなかった。


 ざらざらした、ためらいの混じった、はじめて娘の名を呼ぶみたいな声だった。


 廊下の奥で、ドアが細く開いた。


 すずさんが、顔を半分だけ出して、こちらをうかがっていた。


 その瞬間、隣の座布団の上で、像がふっと薄くなった。


 律子さんがそちらを見ていないだけで、像はもう、かたちを保てなくなっていた。


 輪郭がにじみ、優等生の微笑みがほどけて、夜の空気に溶けて、消えた。


 あっけないくらい、静かだった。



 帰り際、玄関で靴を履いていると、すずさんが小さな声で言った。


「あの子、いなくなっちゃった」


 責めるふうでも、ほっとしたふうでもなかった。ただ、寂しそうだった。


 わたしは、うまく答えられなかった。


 あの像は、すずさんからお母さんを奪っていた子だ。けれど同時に、すずさんにとっては、たったひとつの希望でもあったのかもしれない。


 あの子みたいになれば、お母さんは笑ってくれる。比べる相手がいるあいだは、まだ追いつける気がしていた。


 その相手が、消えてしまった。


 これから律子さんが、本物のすずさんをちゃんと見るようになるのか。それとも、また新しい理想を、暗がりに作りはじめるのか。


 すずさんが、自分の名前を、自分のものとして取り戻せるのか。


 視えなかった。


 わたしの目は、念は視えても、人の明日までは視せてくれない。



 帰り道、冬のはじめの風が、首すじに冷たかった。


 ふつうのアルバイトが、してみたかっただけなのに。


 わたしは、理想の子でいるのをやめて、家を出た。


 あの座布団の上にいた子は、たぶん、わたしが降りてこなかったら、なっていたかもしれない、わたしだ。


 寝不足は、肌に出る。


 明日もきっと、知らない番号から電話がかかってくる。


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