第8話 となりの優等生(前編)
その晩の電話は、めずらしく刑事さんの声が困っていた。
「視てもらいたい家があんねん。事件性は、たぶん、ない。ただ……気味が悪うてな」
わたしは布団の中で漫画アプリを閉じた。窓の外は、もう冬の匂いがする。
布団から出るのが、世界でいちばんつらい季節になっていた。それでも、知らない番号は、季節を選んでくれない。
「気味が悪い、というのは」
「母親が、いもせん子どもに毎日話しかけとる。ごはんも、ふたりぶん作る。塾の送り迎えも、いない子のぶんまで車のドアを開けてやるんや」
近所では、気を病んだとも変な宗教だとも言われているらしい。
「子どもは、ひとりだけや。ちゃんと生きとる。なのに母親は、もうひとりおる、いう顔して暮らしとる」
わたしは起き上がった。
……ふつうのアルバイトが、してみたかった。けれど今月も、家賃のほうがわたしの理想より先にやってくる。
「報酬は」
「出す出す。今度はちゃんと、出るほうの財布から」
わたしは、ため息をついた。
ふつうの女子大生は、こんな時間に、墓みたいな話で起こされたりしない。カフェのバイトの面接にでも行くのだろう。
わたしには、その面接の順番は、たぶん一生まわってこない。
◆
真壁さんの家は、坂をのぼった先の、ごく普通の一戸建てだった。
表札の字はていねいだった。庭の植木も、きれいに刈り込まれている。どこから見ても、ちゃんとした家だ。
ただ、二階の窓に、カーテンの引かれたままの部屋がひとつあった。昼なのに、そこだけ夜のままみたいに見えた。
使われていない部屋というのは、家のなかでいちばん念がたまる。わたしは、なんとなく、その窓から目をそらした。
玄関には、子ども靴が二足あった。同じ大きさのものが、きちんとそろえて並べてある。
わたしは、その二足をしばらく見た。
片方には、うっすらと土ぼこりがついていた。もう片方は、買ったばかりみたいにきれいなままだった。
誰も履かない靴は、いつまでも汚れない。
わたしは、その新しいほうの靴を、もう一度見た。サイズは、土のついた靴とまったく同じだった。同じ大きさの足の子が、この家にふたりいることに、なっていた。
母親の律子さんは、にこやかな人だった。お茶を出して、座布団をすすめて、それから当たり前みたいに、わたしの隣にもうひとつ座布団を整えた。
四角く、きちんと、誰かのために。
「すず。先生がいらしたわよ。ごあいさつは」
律子さんが声をかけたのは、テーブルの向こうの、誰も座っていない座布団だった。
その斜め後ろに、本物のすずさんがいた。
小学六年生の女の子。うつむいて、自分の膝を見ている。お母さんに名前を呼ばれても、顔を上げなかった。
呼ばれたのは自分ではないと、もう知っているみたいだった。
わたしは手袋を嵌めた。
冷たくはない。死のにおいもしない。けれど、空っぽの座布団の上に、たしかに何かが座っていた。
念の像だ。
すずさんによく似た女の子。けれど、すずさんより少しだけ背すじが伸びていて、少しだけ髪が整っていて、こちらを見て、ちょうどいい角度で微笑んでいた。
誰かが「こうあってほしい」と願った形に、寸分たがわず作られた、子どもだった。
(……出た)
わたしは、顔には出さなかった。こういうとき表情を動かすと、相手に気づかれる。気づかれると、ややこしくなる。
平気な顔で、お茶をひとくち飲んだ。よく出た、いいお茶だった。
◆
お茶を飲みながら、律子さんはたくさん話した。
「うちのすずは、ほんとうに、よくできた子なんです。模試もいつも上のほうで、先生にもほめられて。ね、すず」
律子さんは、像のほうに笑いかけた。像が、こくりとうなずいた。
本物のすずさんは、畳の上で、自分の指を握っていた。爪が白くなるくらい、強く。
テーブルには、湯のみが三つ出ていた。わたしのと、律子さんのと、もうひとつ。
誰も座っていない座布団の前の湯のみだけ、湯気がまっすぐ立っていた。口をつける者がいないから、いつまでも冷めない。
わたしは、その指先を見た。
細い念の緒が、一本のびている。生きている子の、生霊の緒だ。
その緒は、お母さんのほうへ伸びようとしていた。何度も、何度も。
けれど律子さんの目はいつも像のほうを向いていて、すずさんの緒は、お母さんに届く手前で行き場をなくし、ふわりとほどけてしまう。
宛先に届かない手紙みたいに。
「すずさん」
わたしは、本物のほうに声をかけた。
すずさんが、はっと顔を上げた。自分の名前で呼ばれたことに、驚いたみたいだった。
「となりの席の子は、いつからいます?」
すずさんの唇が、震えた。
「……二年生の、おわりごろ。わたしがはじめてテストで、悪い点を取った日から」




