表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京都陰陽師・真琴の怪異譚  作者: K3
大学生編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/40

第7話 白衣の戻る部屋(後編)


 ひとりの念じゃない。

 そう言うと、刑事さんは顔をしかめた。


「ほな、なんやねん。二人おるんか」


「ひとりは、亡くなった人。もうひとりは……これから視ます」



 その夜、わたしは、ロッカー室にひとりで残った。


 研究棟の夜は、しんと冷えていた。

 廊下の蛍光灯は半分落ちて、非常口の緑のランプだけが、ぼんやり光っている。


 わたしは床に式盤を据えて、白衣をその中央に広げた。

 式神を一体、放つ。念の緒を辿らせるのだ。


 糸電話の糸のようなものだ。

 生きた人の生霊なら、糸はかならず本体まで繋がっている。死んだ人の念なら――糸は途中で切れている。還る先が、もうないからだ。


 緒は、二本あった。


 一本は、白衣の襟から立ち上がって、すぐにふつりと切れた。

 行き先のない、宙ぶらりんの糸。これが水原さんの念だ。亡くなった人の、置き去りの念。


 もう一本は、白衣の袖口から伸びて、廊下のほうへするすると這っていった。

 わたしは、それを追いかけた。


 糸は研究棟を出て、隣の棟の、明かりの点いた一室へ吸い込まれていった。

 夜中の研究室。机に向かって、ひとりの男の人が舟を漕いでいた。


 白髪まじりの、痩せた人だ。

 胸に名札を下げている。沢渡、と読めた。



 次の日、わたしは、その研究室を訪ねた。


 沢渡さんは、思っていたより穏やかな人だった。

 ただ、ひどく疲れて見えた。目の下の隈が、墨を刷いたみたいに濃い。


「水原の、白衣のことですか」


 わたしが用件を言うと、沢渡さんは、すこし困ったように笑った。


「あの白衣が汚れてるのは、忍びなくてね。だから、クリーニングに」


 わたしは、黙っていた。

 クリーニングの伝票なら、夜の記録に残っているはずだ。けれど、どこにもなかった。


「あの……立ち入ったことを、訊きます」


 わたしは、つとめて平らな声で言った。


「沢渡さんは、水原さんが亡くなったこと、ご自分のせいだと思っていらっしゃいますね」


 沢渡さんの、穏やかな笑みが止まった。



 長い沈黙だった。


「……あの子は」


 やがて、沢渡さんは、絞り出すように言った。


「優秀でした。だから、伸ばしてやりたくて。実験が再現しないたび、わたしはもっと厳しくした。詰めれば応える子だったから」


 もっと、もっと、と。

 夜中まで実験をやり直す念。ごめんなさい、という消え入りそうな念。

 あれは、この人に向けられていたのだ。


「半年前の朝、あの子は、来ませんでした」


 沢渡さんは、それきり言葉を切った。

 その先を、わたしも訊かなかった。



 わたしは、ロッカーのほうへ目をやった。


「白衣を、毎週洗っていらっしゃいますね」


「……ええ」


「でも、洗っているのは、白衣ですか」


 わたしは、いちど言葉を切った。


「それとも、ご自分ですか」


 沢渡さんが、わたしを見た。

 殴られたみたいな顔だった。


 わたしはめったに、人にこういうことを言わない。

 怪異には動じないし、人の事情も、最初から勘定に入れて生きている。


 でも、糊のきいたまっさらな白衣を見ていると、すこしだけ声が低くなった。

 あの白さは、水原さんのためじゃない。汚れたままにしておくと、自分があの子を死なせたことを、毎週思い出してしまうからだ。


 まっさらにしておけば、まだ間に合う気がする。まだ、あの子がそこにいる気がする。


 白衣を洗っているのは、贖罪じゃない。

 忘れるための、儀式だった。



 沢渡さんは、しばらくうつむいていた。


「……片づけたら」


 やがて、その人は言った。


「あの子が、いなかったことになる気がして」


 頭では、わかっているのだ。

 もう戻らないことも。白衣を洗っても、何も間に合わないことも。


 頭では。

 その二文字に、この人の半年が、ぜんぶ詰まっている気がした。



 わたしは、内ポケットの切り抜きを机に置いた。

 パン屋の、アルバイト募集の広告。やわらかくなるまで、何度も畳まれた紙。


「これが、白衣の内ポケットに入っていました」


 沢渡さんが、それを手に取って、目を見開いた。


「……パン屋」


「ええ。水原さんは、研究の合間に、これを見ていたのかもしれません。誰にも言わずに」


 もしかしたら、あの子は、もう降りたかったのかもしれない。

 ピペットを置いて、朝に焼きたてのパンの匂いがする、小さな店で働きたかったのかもしれない。


 あるいは、ただの息抜きだったのかもしれない。つらいときに、別の人生をちょっとだけ覗いていただけ。


 それは、わたしにも視えなかった。


「わたしは、知らなかった」


 沢渡さんが、震える声で言った。


「あの子が、そんなことを考えてたなんて」


「ええ。あなたの知らない、水原さんの時間です」



 わたしは、桃木の剣も護符も出さなかった。


 散らそうと思えば、散らせる。白衣に絡んだ念をほどいて、ただの一着に戻すことは、たぶんできる。

 でも、その念は二本だった。死んだ水原さんの念と、生きている沢渡さんの念が、白衣の上で固く結ばれている。


 生きた人の念を無理に散らせば、本体に障る。

 沢渡さんの結んだ糸を断つことは、この人から、悔やむ場所を奪うことでもあった。


「あの白衣を、どうするかは」


 わたしは、立ち上がった。


「わたしの仕事じゃ、ありません。決めるのは、あなたです」


 気づかせるところまでが、視て、読んで、納める家の娘の役目だ。

 送るのか、まだ掛けておくのか。その一歩は、いつだって本人にしか踏めない。



 数日して、刑事さんが、報酬の封筒と一緒に、短い報告をくれた。


 水原さんの白衣は、もう洗われなくなったという。

 ロッカーの名札も、剥がされていた。


 沢渡さんが、あの子を送ることにしたのか。

 それとも、ただ視られるのが怖くなって、片づけただけなのか。

 それは刑事さんも教えてくれなかったし、わたしも訊かなかった。


 水原さんが、ほんとうに研究を降りたかったのか。

 パンの焼ける店で笑っていたかったのか。それとも、最後まで応えたかったのか。

 それも、もう、誰にもわからない。


 視える目で、いちばん見えないのは、いつだって、その先だ。



 帰り道、わたしは、大学の正門の前で、いちど立ち止まった。


 白衣を着た学生が、何人か、笑いながら棟へ入っていく。

 あの中の誰かも、いつか夜中まで同じ実験をやり直して、ごめんなさい、とつぶやく日が来るのかもしれない。


 続けることと、続けさせられること。

 そのふたつは、よく似ていて、ぜんぜん違う。


 わたしには、視る目があって、それを降りることはできない。

 降りられないからこそ、ときどき、降りたい人の気持ちが、すこしだけわかる。


 ……べつに、同情ですわ、とかじゃ、ありませんけど。

 ……いえ。同情とかじゃ、ない。


 わたしは、自転車置き場のほうへ歩き出した。

 帰って、レポートの続きをしなければならない。


 その締切も、たぶん、もう過ぎている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ