第7話 白衣の戻る部屋(後編)
ひとりの念じゃない。
そう言うと、刑事さんは顔をしかめた。
「ほな、なんやねん。二人おるんか」
「ひとりは、亡くなった人。もうひとりは……これから視ます」
◆
その夜、わたしは、ロッカー室にひとりで残った。
研究棟の夜は、しんと冷えていた。
廊下の蛍光灯は半分落ちて、非常口の緑のランプだけが、ぼんやり光っている。
わたしは床に式盤を据えて、白衣をその中央に広げた。
式神を一体、放つ。念の緒を辿らせるのだ。
糸電話の糸のようなものだ。
生きた人の生霊なら、糸はかならず本体まで繋がっている。死んだ人の念なら――糸は途中で切れている。還る先が、もうないからだ。
緒は、二本あった。
一本は、白衣の襟から立ち上がって、すぐにふつりと切れた。
行き先のない、宙ぶらりんの糸。これが水原さんの念だ。亡くなった人の、置き去りの念。
もう一本は、白衣の袖口から伸びて、廊下のほうへするすると這っていった。
わたしは、それを追いかけた。
糸は研究棟を出て、隣の棟の、明かりの点いた一室へ吸い込まれていった。
夜中の研究室。机に向かって、ひとりの男の人が舟を漕いでいた。
白髪まじりの、痩せた人だ。
胸に名札を下げている。沢渡、と読めた。
◆
次の日、わたしは、その研究室を訪ねた。
沢渡さんは、思っていたより穏やかな人だった。
ただ、ひどく疲れて見えた。目の下の隈が、墨を刷いたみたいに濃い。
「水原の、白衣のことですか」
わたしが用件を言うと、沢渡さんは、すこし困ったように笑った。
「あの白衣が汚れてるのは、忍びなくてね。だから、クリーニングに」
わたしは、黙っていた。
クリーニングの伝票なら、夜の記録に残っているはずだ。けれど、どこにもなかった。
「あの……立ち入ったことを、訊きます」
わたしは、つとめて平らな声で言った。
「沢渡さんは、水原さんが亡くなったこと、ご自分のせいだと思っていらっしゃいますね」
沢渡さんの、穏やかな笑みが止まった。
◆
長い沈黙だった。
「……あの子は」
やがて、沢渡さんは、絞り出すように言った。
「優秀でした。だから、伸ばしてやりたくて。実験が再現しないたび、わたしはもっと厳しくした。詰めれば応える子だったから」
もっと、もっと、と。
夜中まで実験をやり直す念。ごめんなさい、という消え入りそうな念。
あれは、この人に向けられていたのだ。
「半年前の朝、あの子は、来ませんでした」
沢渡さんは、それきり言葉を切った。
その先を、わたしも訊かなかった。
◆
わたしは、ロッカーのほうへ目をやった。
「白衣を、毎週洗っていらっしゃいますね」
「……ええ」
「でも、洗っているのは、白衣ですか」
わたしは、いちど言葉を切った。
「それとも、ご自分ですか」
沢渡さんが、わたしを見た。
殴られたみたいな顔だった。
わたしはめったに、人にこういうことを言わない。
怪異には動じないし、人の事情も、最初から勘定に入れて生きている。
でも、糊のきいたまっさらな白衣を見ていると、すこしだけ声が低くなった。
あの白さは、水原さんのためじゃない。汚れたままにしておくと、自分があの子を死なせたことを、毎週思い出してしまうからだ。
まっさらにしておけば、まだ間に合う気がする。まだ、あの子がそこにいる気がする。
白衣を洗っているのは、贖罪じゃない。
忘れるための、儀式だった。
◆
沢渡さんは、しばらくうつむいていた。
「……片づけたら」
やがて、その人は言った。
「あの子が、いなかったことになる気がして」
頭では、わかっているのだ。
もう戻らないことも。白衣を洗っても、何も間に合わないことも。
頭では。
その二文字に、この人の半年が、ぜんぶ詰まっている気がした。
◆
わたしは、内ポケットの切り抜きを机に置いた。
パン屋の、アルバイト募集の広告。やわらかくなるまで、何度も畳まれた紙。
「これが、白衣の内ポケットに入っていました」
沢渡さんが、それを手に取って、目を見開いた。
「……パン屋」
「ええ。水原さんは、研究の合間に、これを見ていたのかもしれません。誰にも言わずに」
もしかしたら、あの子は、もう降りたかったのかもしれない。
ピペットを置いて、朝に焼きたてのパンの匂いがする、小さな店で働きたかったのかもしれない。
あるいは、ただの息抜きだったのかもしれない。つらいときに、別の人生をちょっとだけ覗いていただけ。
それは、わたしにも視えなかった。
「わたしは、知らなかった」
沢渡さんが、震える声で言った。
「あの子が、そんなことを考えてたなんて」
「ええ。あなたの知らない、水原さんの時間です」
◆
わたしは、桃木の剣も護符も出さなかった。
散らそうと思えば、散らせる。白衣に絡んだ念をほどいて、ただの一着に戻すことは、たぶんできる。
でも、その念は二本だった。死んだ水原さんの念と、生きている沢渡さんの念が、白衣の上で固く結ばれている。
生きた人の念を無理に散らせば、本体に障る。
沢渡さんの結んだ糸を断つことは、この人から、悔やむ場所を奪うことでもあった。
「あの白衣を、どうするかは」
わたしは、立ち上がった。
「わたしの仕事じゃ、ありません。決めるのは、あなたです」
気づかせるところまでが、視て、読んで、納める家の娘の役目だ。
送るのか、まだ掛けておくのか。その一歩は、いつだって本人にしか踏めない。
◆
数日して、刑事さんが、報酬の封筒と一緒に、短い報告をくれた。
水原さんの白衣は、もう洗われなくなったという。
ロッカーの名札も、剥がされていた。
沢渡さんが、あの子を送ることにしたのか。
それとも、ただ視られるのが怖くなって、片づけただけなのか。
それは刑事さんも教えてくれなかったし、わたしも訊かなかった。
水原さんが、ほんとうに研究を降りたかったのか。
パンの焼ける店で笑っていたかったのか。それとも、最後まで応えたかったのか。
それも、もう、誰にもわからない。
視える目で、いちばん見えないのは、いつだって、その先だ。
◆
帰り道、わたしは、大学の正門の前で、いちど立ち止まった。
白衣を着た学生が、何人か、笑いながら棟へ入っていく。
あの中の誰かも、いつか夜中まで同じ実験をやり直して、ごめんなさい、とつぶやく日が来るのかもしれない。
続けることと、続けさせられること。
そのふたつは、よく似ていて、ぜんぜん違う。
わたしには、視る目があって、それを降りることはできない。
降りられないからこそ、ときどき、降りたい人の気持ちが、すこしだけわかる。
……べつに、同情ですわ、とかじゃ、ありませんけど。
……いえ。同情とかじゃ、ない。
わたしは、自転車置き場のほうへ歩き出した。
帰って、レポートの続きをしなければならない。
その締切も、たぶん、もう過ぎている。




