↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怖がりな女子大生陰陽師は、怪異より先に人間を調べる~  作者: K3/KASANE
大学生編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/144

第7話 白衣の戻る部屋(前編)


 その日の仕事は、夕方からだった。


 わたしとしては、ありがたい時間だ。一限の実験で半分溶けた頭が、夕方にはどうにか固まっている。

 それに、報酬がその場で出る仕事は、時間帯を選んでいる余裕がない。月末のわたしには、なおさら。


 待ち合わせは、大学のいちばん奥まった研究棟の前だった。

 洛都大学。わたしの通う大学だ。けれど理系の棟には、めったに足を踏み入れない。

 文系の校舎とは、空気からして違う。廊下のどこか奥で、低く機械の唸る音がしている。


 夕陽で赤くなった硝子の前に、見覚えのあるくたびれたコートが立っていた。

 何度か小銭仕事を回してきた、私服の刑事さんだ。


「悪いね、こんな時間に」


「報酬は、出ますのよね。……出ますよね」


 わたしは小さく舌打ちして、言い直した。

 すれているわけではない。今月の食費が、わたしの財布の底で乾いた音を立てているだけだ。


「出る出る。ここの研究室の、教授の口利きでな」


 研究室の、口利き。

 つまり今回も、警察の正式な仕事ではない。


◆


 通されたのは、白い廊下の奥の、小さな部屋だった。


 スチールのロッカーが、壁いっぱいに並んでいる。古い、銀色のロッカーだ。

 研究室の人たちが、白衣に着替えるための部屋らしい。

 窓のない部屋で、蛍光灯の白い光だけが、扉の銀色に冷たく跳ね返っている。


 薬品の、つんとした匂いがうっすら残っている。

 その匂いの底に、もうひとつ。わたしにしかわからない匂いが混じっていた。


 錆びた水の匂い。

 ――死の匂いだ。


 わたしは奥歯を、そっと噛んだ。

 こういう匂いのする部屋に、刑事さんは平気な顔で立っている。視えない人は、しあわせだ。


 刑事さんが、ひとつのロッカーの前で止まった。

 ほかのロッカーに名札はない。そのひとつだけ、テープに手書きの名前が貼ってある。


『水原』


 角の丸い、几帳面な字だった。

 刑事さんが、扉を開けた。


 中に、白衣が一着、掛かっていた。

 しわひとつなく、糊のきいた、おろしたてのように白い一着だ。


 窓のない部屋の薄明かりの中で、その白だけが、やけに浮いて見えた。

 まるで、ついさっき誰かが袖を通して、たったいま脱いだばかりみたいに。


「これがな」


 刑事さんが、声を落とした。


「毎週、月曜の朝に来ると、洗いたてになっとる。畳んだあとが、ぴしっと付いてな」


◆


 わたしは手袋を嵌めてから、白衣の袖に指先を触れた。


 ――ぞわり。


 念が、昇ってくる。

 まじめで、不器用な手つきの念だった。

 ピペットを握る指。目盛りを睨む横顔。夜中まで点いている蛍光灯。何度も同じ実験をやり直す、根の詰めた念。


 数字が、合わない。また合わない。

 うまくいかない、という焦り。指先の、細かな震え。

 それから――ごめんなさい、という、消え入りそうな念。誰に謝っているのかも、わからないまま。


 その底に、はっきりと、死の匂いがあった。

 冷えて、湿った、錆びた水の匂い。指の腹から、すうっと手首まで這い上がってくる。


 この白衣の持ち主は、もう生きていない。


(ふつうの幽霊なら、まだ楽ですわ)


 胸の内でだけ、わたしはつぶやいた。

 表情は動かさない。動かさないけれど、背筋のあたりは、さっきから細かく粟立っている。


 死んだ人の念が物に残るのは、よくあることだ。送ってあげれば、たいていは収まる。


 でも、この白衣は、それだけじゃなかった。

 死の匂いの上に、もうひとつ別の念が、薄く重なっていた。


 あたたかい、生きた人の念だ。

 死んだ人の冷たさと生きた人のぬくもりが、一枚の布の上で、ぴったりと寄り添っている。


(……気持ちが、わるい)


 わたしは、心のなかでだけ正直に言った。


◆


 わたしは、まず、いちばん単純な線から潰すことにした。


 誰かが夜のあいだに洗って、戻している。

 研究室の誰かの悪戯か、それとも、誰かのやさしさか。


 刑事さんに頼んで、夜の記録を当ててもらった。

 研究棟は、夜は施錠される。誰が入退室したか、ぜんぶカードに残る。


 水原さんが亡くなってからの半年、このロッカー室に、夜、入った人はいなかった。

 廊下の防犯カメラにも、白衣を持ち出した人は映っていない。


 なのに毎週、白衣は洗われて戻る。糊まで、きいて。


 ――誰の手も、通っていない。


 誰も入らない部屋で、誰かが毎週ていねいに、白衣を畳んでいる。

 その畳み目のぴしりとした角を思い出して、わたしはもう一度だけ、背筋を冷やした。


◆


 わたしは、白衣をもう一度よく見た。


 糊のきいた、まっさらな白。けれど、内ポケットのあたりが、すこしだけふくらんでいた。


 指を入れると、紙が一枚、折り畳まれて入っていた。

 小さく、何度も畳まれて、やわらかくなった紙だ。

 角が、毛羽立っている。何度も広げては、また畳んだのだろう。


 広げると、新聞の切り抜きだった。

 町のパン屋の、アルバイト募集の広告。


 白衣の持ち主が、研究の合間に、誰にも言わずに見ていたのかもしれない。

 ピペットを置いた指で、こっそりと。

 パンの焼ける、小さな店の求人を。


 わたしは、その切り抜きを、しばらく見ていた。


「……刑事さん」


 わたしは、つとめて平らな声を出した。


「この白衣を着ていた人は、もう亡くなっています。――でも、この白衣に憑いているのは、その人ひとりの念じゃ、ありません」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。