第7話 白衣の戻る部屋(前編)
その日の仕事は、夕方からだった。
わたしとしては、ありがたい時間だ。一限の実験で半分溶けた頭が、夕方にはどうにか固まっている。
それに、報酬がその場で出る仕事は、時間帯を選んでいる余裕がない。月末のわたしには、なおさら。
待ち合わせは、大学のいちばん奥まった研究棟の前だった。
洛都大学。わたしの通う大学だ。けれど理系の棟には、めったに足を踏み入れない。
文系の校舎とは、空気からして違う。廊下のどこか奥で、低く機械の唸る音がしている。
夕陽で赤くなった硝子の前に、見覚えのあるくたびれたコートが立っていた。
何度か小銭仕事を回してきた、私服の刑事さんだ。
「悪いね、こんな時間に」
「報酬は、出ますのよね。……出ますよね」
わたしは小さく舌打ちして、言い直した。
すれているわけではない。今月の食費が、わたしの財布の底で乾いた音を立てているだけだ。
「出る出る。ここの研究室の、教授の口利きでな」
研究室の、口利き。
つまり今回も、警察の正式な仕事ではない。
◆
通されたのは、白い廊下の奥の、小さな部屋だった。
スチールのロッカーが、壁いっぱいに並んでいる。古い、銀色のロッカーだ。
研究室の人たちが、白衣に着替えるための部屋らしい。
窓のない部屋で、蛍光灯の白い光だけが、扉の銀色に冷たく跳ね返っている。
薬品の、つんとした匂いがうっすら残っている。
その匂いの底に、もうひとつ。わたしにしかわからない匂いが混じっていた。
錆びた水の匂い。
――死の匂いだ。
わたしは奥歯を、そっと噛んだ。
こういう匂いのする部屋に、刑事さんは平気な顔で立っている。視えない人は、しあわせだ。
刑事さんが、ひとつのロッカーの前で止まった。
ほかのロッカーに名札はない。そのひとつだけ、テープに手書きの名前が貼ってある。
『水原』
角の丸い、几帳面な字だった。
刑事さんが、扉を開けた。
中に、白衣が一着、掛かっていた。
しわひとつなく、糊のきいた、おろしたてのように白い一着だ。
窓のない部屋の薄明かりの中で、その白だけが、やけに浮いて見えた。
まるで、ついさっき誰かが袖を通して、たったいま脱いだばかりみたいに。
「これがな」
刑事さんが、声を落とした。
「毎週、月曜の朝に来ると、洗いたてになっとる。畳んだあとが、ぴしっと付いてな」
◆
わたしは手袋を嵌めてから、白衣の袖に指先を触れた。
――ぞわり。
念が、昇ってくる。
まじめで、不器用な手つきの念だった。
ピペットを握る指。目盛りを睨む横顔。夜中まで点いている蛍光灯。何度も同じ実験をやり直す、根の詰めた念。
数字が、合わない。また合わない。
うまくいかない、という焦り。指先の、細かな震え。
それから――ごめんなさい、という、消え入りそうな念。誰に謝っているのかも、わからないまま。
その底に、はっきりと、死の匂いがあった。
冷えて、湿った、錆びた水の匂い。指の腹から、すうっと手首まで這い上がってくる。
この白衣の持ち主は、もう生きていない。
(ふつうの幽霊なら、まだ楽ですわ)
胸の内でだけ、わたしはつぶやいた。
表情は動かさない。動かさないけれど、背筋のあたりは、さっきから細かく粟立っている。
死んだ人の念が物に残るのは、よくあることだ。送ってあげれば、たいていは収まる。
でも、この白衣は、それだけじゃなかった。
死の匂いの上に、もうひとつ別の念が、薄く重なっていた。
あたたかい、生きた人の念だ。
死んだ人の冷たさと生きた人のぬくもりが、一枚の布の上で、ぴったりと寄り添っている。
(……気持ちが、わるい)
わたしは、心のなかでだけ正直に言った。
◆
わたしは、まず、いちばん単純な線から潰すことにした。
誰かが夜のあいだに洗って、戻している。
研究室の誰かの悪戯か、それとも、誰かのやさしさか。
刑事さんに頼んで、夜の記録を当ててもらった。
研究棟は、夜は施錠される。誰が入退室したか、ぜんぶカードに残る。
水原さんが亡くなってからの半年、このロッカー室に、夜、入った人はいなかった。
廊下の防犯カメラにも、白衣を持ち出した人は映っていない。
なのに毎週、白衣は洗われて戻る。糊まで、きいて。
――誰の手も、通っていない。
誰も入らない部屋で、誰かが毎週ていねいに、白衣を畳んでいる。
その畳み目のぴしりとした角を思い出して、わたしはもう一度だけ、背筋を冷やした。
◆
わたしは、白衣をもう一度よく見た。
糊のきいた、まっさらな白。けれど、内ポケットのあたりが、すこしだけふくらんでいた。
指を入れると、紙が一枚、折り畳まれて入っていた。
小さく、何度も畳まれて、やわらかくなった紙だ。
角が、毛羽立っている。何度も広げては、また畳んだのだろう。
広げると、新聞の切り抜きだった。
町のパン屋の、アルバイト募集の広告。
白衣の持ち主が、研究の合間に、誰にも言わずに見ていたのかもしれない。
ピペットを置いた指で、こっそりと。
パンの焼ける、小さな店の求人を。
わたしは、その切り抜きを、しばらく見ていた。
「……刑事さん」
わたしは、つとめて平らな声を出した。
「この白衣を着ていた人は、もう亡くなっています。――でも、この白衣に憑いているのは、その人ひとりの念じゃ、ありません」




