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京都陰陽師・真琴の怪異譚  作者: K3
大学生編

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第7話 白衣の戻る部屋(前編)


 その日の仕事は、夕方からだった。


 わたしとしては、ありがたい時間だ。一限の実験で半分溶けた頭が、夕方にはどうにか固まっている。

 それに、報酬がその場で出る仕事は、時間帯を選んでいる余裕がない。月末のわたしには、なおさら。


 待ち合わせは、大学のいちばん奥まった研究棟の前だった。

 洛都大学。わたしの通う大学だ。けれど理系の棟には、めったに足を踏み入れない。

 文系の校舎とは、空気からして違う。廊下のどこか奥で、低く機械の唸る音がしている。


 夕陽で赤くなった硝子の前に、見覚えのあるくたびれたコートが立っていた。

 何度か小銭仕事を回してきた、私服の刑事さんだ。


「悪いね、こんな時間に」


「報酬は、出ますのよね。……出ますよね」


 わたしは小さく舌打ちして、言い直した。

 すれているわけではない。今月の食費が、わたしの財布の底で乾いた音を立てているだけだ。


「出る出る。ここの研究室の、教授の口利きでな」


 研究室の、口利き。

 つまり今回も、警察の正式な仕事ではない。



 通されたのは、白い廊下の奥の、小さな部屋だった。


 スチールのロッカーが、壁いっぱいに並んでいる。古い、銀色のロッカーだ。

 研究室の人たちが、白衣に着替えるための部屋らしい。

 窓のない部屋で、蛍光灯の白い光だけが、扉の銀色に冷たく跳ね返っている。


 薬品の、つんとした匂いがうっすら残っている。

 その匂いの底に、もうひとつ。わたしにしかわからない匂いが混じっていた。


 錆びた水の匂い。

 ――死の匂いだ。


 わたしは奥歯を、そっと噛んだ。

 こういう匂いのする部屋に、刑事さんは平気な顔で立っている。視えない人は、しあわせだ。


 刑事さんが、ひとつのロッカーの前で止まった。

 ほかのロッカーに名札はない。そのひとつだけ、テープに手書きの名前が貼ってある。


『水原』


 角の丸い、几帳面な字だった。

 刑事さんが、扉を開けた。


 中に、白衣が一着、掛かっていた。

 しわひとつなく、糊のきいた、おろしたてのように白い一着だ。


 窓のない部屋の薄明かりの中で、その白だけが、やけに浮いて見えた。

 まるで、ついさっき誰かが袖を通して、たったいま脱いだばかりみたいに。


「これがな」


 刑事さんが、声を落とした。


「毎週、月曜の朝に来ると、洗いたてになっとる。畳んだあとが、ぴしっと付いてな」



 わたしは手袋を嵌めてから、白衣の袖に指先を触れた。


 ――ぞわり。


 念が、昇ってくる。

 まじめで、不器用な手つきの念だった。

 ピペットを握る指。目盛りを睨む横顔。夜中まで点いている蛍光灯。何度も同じ実験をやり直す、根の詰めた念。


 数字が、合わない。また合わない。

 うまくいかない、という焦り。指先の、細かな震え。

 それから――ごめんなさい、という、消え入りそうな念。誰に謝っているのかも、わからないまま。


 その底に、はっきりと、死の匂いがあった。

 冷えて、湿った、錆びた水の匂い。指の腹から、すうっと手首まで這い上がってくる。


 この白衣の持ち主は、もう生きていない。


(ふつうの幽霊なら、まだ楽ですわ)


 胸の内でだけ、わたしはつぶやいた。

 表情は動かさない。動かさないけれど、背筋のあたりは、さっきから細かく粟立っている。


 死んだ人の念が物に残るのは、よくあることだ。送ってあげれば、たいていは収まる。


 でも、この白衣は、それだけじゃなかった。

 死の匂いの上に、もうひとつ別の念が、薄く重なっていた。


 あたたかい、生きた人の念だ。

 死んだ人の冷たさと生きた人のぬくもりが、一枚の布の上で、ぴったりと寄り添っている。


(……気持ちが、わるい)


 わたしは、心のなかでだけ正直に言った。



 わたしは、まず、いちばん単純な線から潰すことにした。


 誰かが夜のあいだに洗って、戻している。

 研究室の誰かの悪戯か、それとも、誰かのやさしさか。


 刑事さんに頼んで、夜の記録を当ててもらった。

 研究棟は、夜は施錠される。誰が入退室したか、ぜんぶカードに残る。


 水原さんが亡くなってからの半年、このロッカー室に、夜、入った人はいなかった。

 廊下の防犯カメラにも、白衣を持ち出した人は映っていない。


 なのに毎週、白衣は洗われて戻る。糊まで、きいて。


 ――誰の手も、通っていない。


 誰も入らない部屋で、誰かが毎週ていねいに、白衣を畳んでいる。

 その畳み目のぴしりとした角を思い出して、わたしはもう一度だけ、背筋を冷やした。



 わたしは、白衣をもう一度よく見た。


 糊のきいた、まっさらな白。けれど、内ポケットのあたりが、すこしだけふくらんでいた。


 指を入れると、紙が一枚、折り畳まれて入っていた。

 小さく、何度も畳まれて、やわらかくなった紙だ。

 角が、毛羽立っている。何度も広げては、また畳んだのだろう。


 広げると、新聞の切り抜きだった。

 町のパン屋の、アルバイト募集の広告。


 白衣の持ち主が、研究の合間に、誰にも言わずに見ていたのかもしれない。

 ピペットを置いた指で、こっそりと。

 パンの焼ける、小さな店の求人を。


 わたしは、その切り抜きを、しばらく見ていた。


「……刑事さん」


 わたしは、つとめて平らな声を出した。


「この白衣を着ていた人は、もう亡くなっています。――でも、この白衣に憑いているのは、その人ひとりの念じゃ、ありません」


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