第6話 卒業写真(前編)
帰り道。同じ海が、朝とは違う色をしていました
待ち合わせは、また夜の大学だった。
講義棟はとっくに灯りを落としていて、構内を歩く人影もない。
図書館の通用口の前に、見覚えのあるくたびれたコートが立っていた。
先月も小銭仕事を回してきた、私服の刑事さんだ。
街灯の下で見ると、コートの肩がいっそう草臥れて見える。
「悪いね。閉館後やないと、見せられへんもんでな」
「報酬は出るんですよね。……出ますよね」
わたしは念のため二度訊いた。
すれているわけではない。今月も家賃が、わたしの預金残高を冷たい目で見つめているだけだ。
「出る出る。同窓会の積立から、まあ、こっそりとな」
同窓会の積立。
つまり今回も、警察の正式な案件ではないわけだ。
表に出せない、誰かの私的な困りごと。
(――またですわね)
わたしは胸の内でだけ、小さくため息をついた。
◆
地下の書庫は、本の背表紙より先に、紙の匂いがした。
古い紙は年を取ると、こういう匂いになる。
甘いような、埃っぽいような――誰かの卒業した後の匂いだ。
天井の低い部屋に、スチールの棚が壁いっぱいに並んでいる。
奥のほうは灯りが届かず、背表紙の列が藍色の闇に溶けていた。
その手前の長机に、分厚いアルバムが一冊、開いて置かれている。
横では四十がらみの男の人が、両手を膝に置いて座っていた。
「田所です。……お忙しいところ、すみません」
声が、紙より乾いていた。
眠れていない人の声だ。
下心ではなく、疲れの匂いがする。
目の下のくまが、蛍光灯の白さでよけいに濃く見えた。
「この、集合写真なんですが」
田所さんが指したのは、見開きの右ページだった。
桜の下に二十人ほどが三列で並んだ、よくある卒業記念の一枚。
色はもう、すこし褪せかけている。
「数えてみてください」
わたしは数えた。
前列、中列、後列。
二十一人いた。
「名簿は二十人なんです。なのに毎年、見るたびに増えていて」
いちばん端。
後列の右、半分だけ桜の枝にかかった位置に、ひとりだけ、ほかの誰とも目を合わせていない人が立っていた。
ピントが、その人のところだけ、わずかに甘い。
わたしは手袋を嵌めてから、その顔に指先を寄せた。
――ぞわり。
指の腹から、何かが昇ってくる。
冷たくはない。むしろ、ぬるい。
長いあいだ誰かの手のひらで撫でられ続けた紙の、人肌のようなぬるさだった。
わたしは念の底を探った。
……違う。
錆びた水の匂いが、しない。
「この人は、死んでいませんね」
田所さんがぱっと顔を上げた。
刑事さんも半歩こちらへ寄る。
二人とも、てっきり死んだ卒業生の幽霊だと思っていたらしい。
「生きてる人が、写真に増えるんですか」
「ええ。生きた人の想いが紙に焼きついたんです。……生霊の、類ですわ」
わたしはすこし得意げに言った。
誰かがこの人を強く想っている。
その想いがここまで濃く写り込むほどに。
(――簡単な話ですわね。緒を辿れば、想っている本人がすぐ知れます)
内心でわたしは胸を張った。
あとから思えば、このときのわたしは、いちばん大事なところを見落としていたのだけれど。
「先週は、もっと端でした」
田所さんの指が震えていた。
「先々週は後ろのほうで、顔もぼやけていて。それが毎週、こっちへ寄ってくるんです」
書庫の蛍光灯が、ひとつ、ちりっと鳴った。
奥の闇がほんのすこし、こちらへにじり寄った気がした。
(――気のせいですわ。気のせい)
わたしは無表情のまま、写真の端の人物の手元を見た。
半分だけ写った右手が、何かを軽く握っている。
筒のような、紙のような、細いもの。
(――いま、こっちを見ましたわね)
いえ。
見ていない。
……見ていない、と思いたい。
朝は銀、夕は金。同じ海が、真琴の一日を映していました。
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