第5話 定期券(後編)
血のつながりを知らないまま、助け合っていた二人。
結城七海さんじゃない。
そう言うと、刑事さんは眉を寄せた。
「ほな、誰やねん」
「それを、これから視ます」
◆
その夜、わたしは霞ヶ原の改札の前に立った。
終電が出たあとの駅は、しんと冷えていた。
蛍光灯は半分落ちて、自動改札の青いランプだけが、規則正しく光っている。
わたしは式盤を据えて、定期券をその中央に置いた。
式神を一体、放つ。念の緒を辿らせるのだ。
糸電話の糸のようなものだ。
生きた人の生霊なら、その糸はかならず、本体まで繋がっている。
緒は改札から立ち上がって、線路の上を西へ伸びた。
わたしはてっきり、隣の県へ向かうと思っていた。中退した七海さんのほうへ。
違った。
緒は途中で折れて、駅前のほうへ曲がった。
古い住宅街の、一軒の家。その二階の窓に、糸の先は吸い込まれていった。
そこで、ひとりの女の人が眠っていた。
五十がらみの、痩せた人だ。
七海さんでは、ない。
でも、顔のつくりが、よく似ていた。
――お母さん。
◆
次の日、わたしは、その家を訪ねた。
結城さんは、思っていたよりずっと穏やかな人だった。
玄関先に、洗濯物がきれいに干してある。几帳面な家だ、と思った。
「七海の、定期のことですか」
わたしが用件を言うと、結城さんはすこし困ったように笑った。
「あの子ったら、何度言っても、落としてくるんですよ」
わたしは黙っていた。
落としているのは、七海さんではない。
「あの……立ち入ったことを、訊きます」
わたしは、つとめて平らな声で言った。
「毎朝、その定期で電車に乗っていらっしゃいますね。霞ヶ原から、洛都大学前まで」
結城さんの穏やかな笑みが、止まった。
◆
長い沈黙だった。
「……いけませんか」
やがて、結城さんは小さく言った。
「あの子が毎朝、乗っていた電車です。七時十二分の。あの子の座っていた席に座ると……行ってきます、って声が、聞こえる気がして」
毎朝、結城さんは、娘の定期で電車に乗る。
洛都大学前で降りて、門のところまで歩いて、それから引き返してくる。
娘が半年前まで毎朝していたことを、そっくりそのまま、なぞって。
わたしは、ようやくわかった。
あの定期に憑いていたのは、七海さんの念じゃない。
結城さん自身の念だ。
娘に通ってほしかった、という願いが、本人も気づかないまま、娘の道に焼きついていた。
生きている人の、生霊だった。
◆
「いい大学でした」
結城さんは、写真立てを撫でながら言った。
「あの子、頑張って受かったんです。わたしがずっと、行きなさいって。いい大学に行けば、いい人生が待ってるからって」
「でも、半年で辞めてしまって」
そこだけ、声がすこし硬くなった。
「もったいない。せっかく、あんなにいい大学に入れたのに」
いい大学。
その言葉を、結城さんは何度も繰り返した。
わたしはめったに腹を立てない。
怪異には動じないし、人の事情も、最初から勘定に入れて生きている。
でも、このときは、すこしだけ声が低くなった。
「結城さん。その道は」
わたしは、券面の『洛都大学前』を指でさした。
「七海さんが、通いたかった道ですか。それとも、あなたが、通わせたかった道ですか」
結城さんは口を開けた。
何か言いかけて、けれど言葉は出てこなかった。
ずいぶん経ってから、絞り出すようにその人は言った。
「……あの子の人生だってことは、頭では、わかってるんです」
頭では。
その二文字に、この人の二十年がぜんぶ詰まっている気がした。
◆
わたしは、毎朝の記録の紙を机に置いた。
几帳面に並んだ、同じ時刻の列。その中に、ひと月にいちどだけまじった、寄り道。
「汐見駅。海の見える、ふたつ手前の駅です」
わたしは、その一行を指でさした。
「七海さんは月にいちど、ここで降りていました。大学とは反対方向に、すこし戻って。たぶん、誰にも言わずに」
結城さんが、その駅名を見つめた。
「……知りません。そんな駅で、降りてたなんて」
「ええ。あなたの知らない、七海さんの時間です」
几帳面に大学へ通うふりをしながら、あの子は月にいちどだけ、海を見に行っていた。
親の敷いた一本道から、すこしだけ、はみ出して。
それが、あの子のほんとうの息継ぎだったのかもしれない。
◆
わたしは、桃木の剣も護符も出さなかった。
散らそうと思えば、散らせる。結城さんの生霊をほどいて、定期券をただのカードに戻すことは、たぶんできる。
でも、それは、この人の「娘に通ってほしい」を、無理やり剥がすことだ。
生きた人の念を散らせば、本体に障る。
それは、やってはいけない類のことだった。
「あれを、どうするかは」
わたしは定期券を、結城さんの手のひらにそっと戻した。
「わたしの仕事じゃ、ありません。決めるのは、あなたです」
気づかせるところまでが、視て、読んで、納める家の娘の役目だ。
その先の一歩は、いつだって、本人にしか踏めない。
◆
数日して、刑事さんが、報酬の封筒と一緒に、短い報告をくれた。
結城七海の定期券は、もう落とし物で届かなくなったという。
改札の記録も、増えていない。
結城さんが毎朝の電車をやめたのか。
娘の道を手放せたのか、それとも、ただ視られるのが怖くなっただけなのか。
それは刑事さんも教えてくれなかったし、わたしも訊かなかった。
七海さんが隣の県で、いま幸せにやっているのかもわからない。
月にいちど、まだ海を見に行っているのかも。
視える目で、いちばん見えないのは、いつだって、その先だ。
◆
帰り道、わたしは汐見駅でいちど電車を降りてみた。
改札を出ると、潮の匂いがした。
坂を下りた先に、灰色の海がのっぺりと広がっている。
べつに、きれいな海じゃない。
だけど、ここで降りた七海さんの気持ちは、わたしにもすこしだけ、わかる気がした。
親の敷いた線路の、ふたつ手前。
誰にも言わずに降りる駅がひとつあるだけで、人はたぶん、息ができる。
わたしには、それがなかった。
だから、まるごと、線路から降りた。
……ちがう道だっただけ、ですわ。
……いえ。ちがう道だっただけ、だ。
わたしは券売機で、洛都大学前までの切符を買った。
帰って、レポートの続きをしなければならない。
その締切も、たぶん、もう過ぎている。
相談屋は、静かに去ります。
( ゜Д゜)ノ 近親相姦かい!
少し難しめの“お仕事もの”は、noteにまとめてあります。よかったらどうぞ。
〈働く人間の物語〉→ https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e




