第5話 定期券(前編)
その朝、わたしは珍しく、約束より早く家を出ていた。
理由は単純で、財布の中身が心細かったからだ。
朝いちばんの仕事は、報酬がその場で、現金で出る。月末のわたしには、それがすべてだった。
待ち合わせは、私鉄の小さな駅だった。
霞ヶ原。郊外の、各駅停車しか止まらない駅だ。
改札の脇に、見覚えのあるくたびれたコートが立っていた。
先月も小銭仕事を回してきた、私服の刑事さんだ。
「悪いね、朝早うに」
「報酬は、出ますの。……出ますよね」
わたしは舌打ちして言い直し、念のため、二度訊いた。
すれているわけではない。今月の家賃が、わたしの預金を冷たい目で見ているだけだ。
「出る出る。駅の落とし物係の、知り合いの口利きでな」
駅の落とし物係。
つまり今回も、警察の正式な仕事ではない。
◆
通されたのは、改札の裏手の、狭い事務室だった。
古い棚に、傘や手袋や、持ち主に忘れられた物が並んでいる。
その一角の小さなトレイに、定期券が一枚だけ置かれていた。
ICの、よくある通学定期だ。
券面に、名前が刷ってある。
『結城 七海』
区間は、ここ霞ヶ原から、洛都大学前まで。
わたしの通う大学だ。
「これがな」
刑事さんが声を落とした。
「先月から、もう四回も落とし物で届いとる。誰かが拾うて、係が持ち主に連絡する。けど――」
「持ち主が、受け取りに来ない」
「ちゃう。受け取りに来るんや。ちゃんと、結城さん本人が。なのに何日かしたら、また落とし物で届く」
わたしは手袋を嵌めてから、定期券に指先を触れた。
――ぞわり。
念が昇ってくる。
几帳面で、まじめな手つきだ。
毎朝、同じ電車に乗る念。同じ吊り革、同じ窓、同じ景色。
行かなきゃ、という、急かされるような念だった。
でも、その底に、死の匂いはなかった。
錆びた水の匂いがしない。
この定期の持ち主は、生きている。
◆
「もうひとつ、妙なことがあってな」
刑事さんが、一枚の紙を出した。改札の、入出場の記録だ。
結城七海の定期券は、先月、解約されていた。
もう使えないはずのカードだ。
なのに記録は、毎朝、増えていた。
霞ヶ原、七時十二分入場。洛都大学前、七時四十八分出場。
判で押したように、同じ時刻。一日も欠かさず。
「解約したカードで、改札は通れへん。通れへんはずのカードが、毎朝きっちり記録を残しとる。改札のカメラには――」
「誰も、映っていない」
(――気色が悪いのは、わたしじゃなくて、こっちの現象のほうですわ)
胸の内でだけ、わたしは言い返した。表情は、動かさない。
「……あんた、ほんまに肝が据わっとるな」
刑事さんは、半分本気で、そう言った。
◆
わたしは、まず、いちばん単純な線から潰すことにした。
本人が解約したと嘘をついて、こっそり使っている。
あるいは、誰かが拾った定期で、毎朝通っている。
刑事さんに頼んで、結城七海の今を当ててもらった。
彼女は、隣の県にいた。
半年前に洛都大学を中退して、いまは地元の専門学校に通っている。
毎朝七時には、隣県の駅で、別の電車に乗っていた。
改札の記録が増える、その時刻。
彼女は確かに、県境の向こうにいた。
――本人ではない。線を、一本消す。
それに、改札のカメラには誰も映らない。
生身の人間が毎朝通っている痕跡は、どこにもなかった。
◆
わたしは、もう一度、記録の紙を眺めた。
毎朝、霞ヶ原から洛都大学前まで。同じ時刻の列が、几帳面に並んでいる。
あの定期の念と、同じ手つきだった。
けれど、ひとつだけ。
ひと月にいちど、その記録は、途中の駅で途切れていた。
汐見駅。
海の見える、ふたつ手前の駅だ。
そこで一度だけ、改札を出た記録がまじっている。
几帳面な毎朝の中に、ひと月にいちどだけ紛れた、寄り道。
わたしは、その一行を、しばらく見ていた。
「……刑事さん」
わたしは、つとめて平らな声を出した。
「この定期で毎朝通っているのは、たぶん、結城七海さんじゃ、ありません」




