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京都陰陽師・真琴の怪異譚  作者: KASANE
大学生編

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第4話 やりなおしの問題集(後編)

たったひと言で、止まった時間を巻き戻す。


 その夜、わたしは家庭教師の帰り道で、私服の刑事さんに電話をかけた。


 坂の下のコンビニの灯りの前で、白い息を吐きながら。ふつうのバイトのはずだったのに、結局こうして夜にこそこそ電話をかけている自分が、すこしおかしかった。


「橘さんって家の、評判だけ調べてほしいんです。事件性はないと思います。たぶん、わたしのバイト先なので」


「……君、ふつうのバイト始めたて聞いたばっかりやけど」


「始めました。始めたら、これですわ。……これです」


 わたしは舌打ちして、言い直した。電話の向こうで、刑事さんが小さく笑ったのが息づかいでわかった。


 刑事さんの調べは、翌々日に返ってきた。


 橘香澄さん。事件性なし。ただ近所での評判がひとつ――毎晩、子ども部屋の電気が、明け方まで点いている。


 受験の追い込みですね、と近所の人は言うらしい。熱心なお母さんね、と。



 次の授業の前に、わたしは香澄さんに、少しだけ無理を言った。


 前の週にやったページを、もう一度だけ見せてほしい。みのりさんが寝たあと、夜のうちに。


 香澄さんは、いやな顔をしなかった。それどころか、わたしを夜の子ども部屋に通して自分も隣に座った。待っていた、とでもいうみたいに、迷いがなかった。


 みのりさんはとなりの部屋で眠っている。壁ごしに、子どもの寝息が、かすかに聞こえた。


 机のスタンドだけを点けると、問題集の上の二本の緒が、闇の中ではっきり見えた。


 昼に見たときより、ずっと濃い。夜は、念がよく育つ。


 一本は、となりの部屋から伸びてくる。みのりさんの緒だ。細くて、応えるように、何度も問題集のほうへ伸びては答えを書こうとする。書いて、ほめられたがっている、子どもの緒。


 もう一本は――すぐ隣から伸びていた。


 香澄さんの、指先からだった。


 その緒は、書かれた答えに触れるたび、それをそっとなでて消していく。みのりさんの字を、丸を、花丸を。なかったことにして、まっさらに戻す。ていねいに、やさしく、根気よく。


 香澄さんは、自分が消していることに、気づいていなかった。


 目を開けたまま、ただ机を見ていた。瞬きもせずに、何かのつづきを待つみたいに。


「香澄さん」


 わたしは小さく言った。


「毎晩ここで、消しているんですね。みのりさんの、やったぶんを」


 香澄さんの肩が、揺れた。


「……だって、あの子。わたしの知らないやり方で、解くから」


 声が、震えていた。


「教わったとおりにやれば、まちがえない。なのにあの子、勝手な近道を見つけてきて、それで合っちゃう。わたしの知らない道で。……わたしが教えられないところに、どんどん行っちゃう」


 ぽつり、ぽつりと、こぼれるみたいに。


「だから夜、消すんです。朝になったら、また、わたしが教えたとおりに、最初からやらせる。そうすれば、まだ、わたしの手の中に……」


 その手の中に、という言葉のところで、香澄さんの指がきゅっと閉じた。何かをこぼさないように。


 わたしは、ことばを選ぶのをやめた。選んだら、たぶん、噓になる。


「正しいやり方、ですか」


 わたしの声は、自分でも驚くくらい冷たかった。


「正しさはひとつだと、お決めになったのはどなたです」


 香澄さんは、答えなかった。


 わたしは、それ以上は言わなかった。


 言ってしまえば、わたしはこの人を論破できる。言い負かせる。あなたは子どものためと言いながら、子どもがこわいだけだときれいに並べてあげられる。


 でも、わたしにそんな資格はない。


 わたしだって、親の敷いた道をまるごと降りて、家を出てきた人間だ。降りた側のことしか、わたしにはわからない。降ろされる側の気持ちは、視えても、わからない。


 手放したくない、という気持ちのかたちだけは、わたしより香澄さんのほうが、ずっとよく知っている。


「……これは」


 わたしは、二本の緒の結び目に、桃木剣の先をそっと当てた。木の先が触れると、結び目がびくりと震えた。


「祓えません。生きている人の念ですから。どちらも、生きているから」


 香澄さんが、顔を上げた。


「ほどくのは、わたしの仕事じゃないんです。結んだのは、あなたですから」



 香澄さんは、その夜、消すのをやめた。


 ただ、それだけのことだった。手をひざの上に置いて、もう問題集に伸ばさなかった。それだけで、緒は引っぱり合うのをやめ、するりとほどけて、朝の光のほうへ消えていった。


 あっけないくらい、静かだった。怪異というのは、たいてい人間の心がほどけた瞬間に、いちばんあっけなく消える。


 問題集の答えは、もう消えなくなった。みのりさんの花丸は、花丸のまま、残るようになった。


 めでたし、と言えるのかどうかは、わたしにはわからない。


 香澄さんがほんとうに手を放せたのか、それとも、放したふりがうまくなっただけなのか。みのりさんが、これから自分の道で正解していけるのか、それとも、いつか母親の知っている道に、自分から戻ってしまうのか。


 視えなかった。視える目を持っていても、人の心の、いちばん先のほうは、いつも靄がかかっている。



 最後の授業の日、片づけのときに、わたしは問題集のいちばん後ろのページを、なんとなくめくった。


 白紙の余白の隅に、みのりさんの小さな字で、消えかけた一行があった。


 わざと書いた、まちがいの答えだった。


 正しい答えを知っているのに、わざとひとつだけ、ちがう数字を書いてある。何度も書いて、何度も消した跡が紙に薄くへこんで残っていた。


 わたしには、すぐにわかった。


 まちがえた夜だけ、お母さんが隣に座って、一緒に直してくれるからだ。


 みのりさんは、消されるために書いていた。お母さんと過ごせる、たったひとつの時間のために。正解してしまったら、ひとりになる。だからこの子は、わざとひとつだけ、まちがえる。


 わたしは、その一行を、香澄さんには言わなかった。


 みのりさんにも、言わなかった。


 言ったほうがいいのか、黙っているのが正しいのか――それだけは、頭のいいはずのわたしにも、最後まで視えなかった。



 帰り道、坂を自転車で下りながら、わたしは思った。


 ふつうのアルバイトが、してみたかっただけなのに。


 どうしてわたしは、こう、人の心のいちばん面倒なところばかり、視えてしまうのだろう。


 風が、肌に冷たかった。寝不足は、肌に出る。


 明日もまた、知らない番号から、電話がかかってくるのだろう。そうしたら、わたしはまたため息をついて、出るのだ。


「生きてる」。止まった時間が、動き出しました。

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