第4話 やりなおしの問題集(後編)
たったひと言で、止まった時間を巻き戻す。
その夜、わたしは家庭教師の帰り道で、私服の刑事さんに電話をかけた。
坂の下のコンビニの灯りの前で、白い息を吐きながら。ふつうのバイトのはずだったのに、結局こうして夜にこそこそ電話をかけている自分が、すこしおかしかった。
「橘さんって家の、評判だけ調べてほしいんです。事件性はないと思います。たぶん、わたしのバイト先なので」
「……君、ふつうのバイト始めたて聞いたばっかりやけど」
「始めました。始めたら、これですわ。……これです」
わたしは舌打ちして、言い直した。電話の向こうで、刑事さんが小さく笑ったのが息づかいでわかった。
刑事さんの調べは、翌々日に返ってきた。
橘香澄さん。事件性なし。ただ近所での評判がひとつ――毎晩、子ども部屋の電気が、明け方まで点いている。
受験の追い込みですね、と近所の人は言うらしい。熱心なお母さんね、と。
◆
次の授業の前に、わたしは香澄さんに、少しだけ無理を言った。
前の週にやったページを、もう一度だけ見せてほしい。みのりさんが寝たあと、夜のうちに。
香澄さんは、いやな顔をしなかった。それどころか、わたしを夜の子ども部屋に通して自分も隣に座った。待っていた、とでもいうみたいに、迷いがなかった。
みのりさんはとなりの部屋で眠っている。壁ごしに、子どもの寝息が、かすかに聞こえた。
机のスタンドだけを点けると、問題集の上の二本の緒が、闇の中ではっきり見えた。
昼に見たときより、ずっと濃い。夜は、念がよく育つ。
一本は、となりの部屋から伸びてくる。みのりさんの緒だ。細くて、応えるように、何度も問題集のほうへ伸びては答えを書こうとする。書いて、ほめられたがっている、子どもの緒。
もう一本は――すぐ隣から伸びていた。
香澄さんの、指先からだった。
その緒は、書かれた答えに触れるたび、それをそっとなでて消していく。みのりさんの字を、丸を、花丸を。なかったことにして、まっさらに戻す。ていねいに、やさしく、根気よく。
香澄さんは、自分が消していることに、気づいていなかった。
目を開けたまま、ただ机を見ていた。瞬きもせずに、何かのつづきを待つみたいに。
「香澄さん」
わたしは小さく言った。
「毎晩ここで、消しているんですね。みのりさんの、やったぶんを」
香澄さんの肩が、揺れた。
「……だって、あの子。わたしの知らないやり方で、解くから」
声が、震えていた。
「教わったとおりにやれば、まちがえない。なのにあの子、勝手な近道を見つけてきて、それで合っちゃう。わたしの知らない道で。……わたしが教えられないところに、どんどん行っちゃう」
ぽつり、ぽつりと、こぼれるみたいに。
「だから夜、消すんです。朝になったら、また、わたしが教えたとおりに、最初からやらせる。そうすれば、まだ、わたしの手の中に……」
その手の中に、という言葉のところで、香澄さんの指がきゅっと閉じた。何かをこぼさないように。
わたしは、ことばを選ぶのをやめた。選んだら、たぶん、噓になる。
「正しいやり方、ですか」
わたしの声は、自分でも驚くくらい冷たかった。
「正しさはひとつだと、お決めになったのはどなたです」
香澄さんは、答えなかった。
わたしは、それ以上は言わなかった。
言ってしまえば、わたしはこの人を論破できる。言い負かせる。あなたは子どものためと言いながら、子どもがこわいだけだときれいに並べてあげられる。
でも、わたしにそんな資格はない。
わたしだって、親の敷いた道をまるごと降りて、家を出てきた人間だ。降りた側のことしか、わたしにはわからない。降ろされる側の気持ちは、視えても、わからない。
手放したくない、という気持ちのかたちだけは、わたしより香澄さんのほうが、ずっとよく知っている。
「……これは」
わたしは、二本の緒の結び目に、桃木剣の先をそっと当てた。木の先が触れると、結び目がびくりと震えた。
「祓えません。生きている人の念ですから。どちらも、生きているから」
香澄さんが、顔を上げた。
「ほどくのは、わたしの仕事じゃないんです。結んだのは、あなたですから」
◆
香澄さんは、その夜、消すのをやめた。
ただ、それだけのことだった。手をひざの上に置いて、もう問題集に伸ばさなかった。それだけで、緒は引っぱり合うのをやめ、するりとほどけて、朝の光のほうへ消えていった。
あっけないくらい、静かだった。怪異というのは、たいてい人間の心がほどけた瞬間に、いちばんあっけなく消える。
問題集の答えは、もう消えなくなった。みのりさんの花丸は、花丸のまま、残るようになった。
めでたし、と言えるのかどうかは、わたしにはわからない。
香澄さんがほんとうに手を放せたのか、それとも、放したふりがうまくなっただけなのか。みのりさんが、これから自分の道で正解していけるのか、それとも、いつか母親の知っている道に、自分から戻ってしまうのか。
視えなかった。視える目を持っていても、人の心の、いちばん先のほうは、いつも靄がかかっている。
◆
最後の授業の日、片づけのときに、わたしは問題集のいちばん後ろのページを、なんとなくめくった。
白紙の余白の隅に、みのりさんの小さな字で、消えかけた一行があった。
わざと書いた、まちがいの答えだった。
正しい答えを知っているのに、わざとひとつだけ、ちがう数字を書いてある。何度も書いて、何度も消した跡が紙に薄くへこんで残っていた。
わたしには、すぐにわかった。
まちがえた夜だけ、お母さんが隣に座って、一緒に直してくれるからだ。
みのりさんは、消されるために書いていた。お母さんと過ごせる、たったひとつの時間のために。正解してしまったら、ひとりになる。だからこの子は、わざとひとつだけ、まちがえる。
わたしは、その一行を、香澄さんには言わなかった。
みのりさんにも、言わなかった。
言ったほうがいいのか、黙っているのが正しいのか――それだけは、頭のいいはずのわたしにも、最後まで視えなかった。
◆
帰り道、坂を自転車で下りながら、わたしは思った。
ふつうのアルバイトが、してみたかっただけなのに。
どうしてわたしは、こう、人の心のいちばん面倒なところばかり、視えてしまうのだろう。
風が、肌に冷たかった。寝不足は、肌に出る。
明日もまた、知らない番号から、電話がかかってくるのだろう。そうしたら、わたしはまたため息をついて、出るのだ。
「生きてる」。止まった時間が、動き出しました。
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