第4話 やりなおしの問題集(前編)
すべてが終わったあとで。相談屋が、真琴にかけた言葉。
ふつうのアルバイトが、してみたかった。
カフェとか、本屋さんとか。エプロンをして、レジを打って、決まった時給で、月末にきちんと同じ額が振り込まれる。そういうの。
同じ時間に始まって、同じ時間に終わる。終われば、自分の時間に戻れる。世の中の女子大生というのは、たぶんそういうふうに生きている。
わたしのアルバイトは、ちがう。
夜中に知らない番号から電話がかかってきて、講義の帰りに墓みたいな場所へ呼び出されて、報酬は「研究室の自腹」だの「気持ちだけ」だのと言われる。出来高で、不定期で、肌に悪い。
しかも、終わっても自分の時間には戻れない。視てしまったものは、まぶたの裏についてくる。
だから生協の掲示板であの貼り紙を見たとき、わたしは年甲斐もなくときめいてしまった。
家庭教師募集。小学六年、中学受験、週に一度。『しっかりした女子学生の先生を希望します』。
(しっかりした女子学生)
わたしのことだ。たぶん。
成績の出し方は知っている。教えるのは得意だ。なにしろ頭はいい。
……今月の食費のことは、いったん忘れる。財布の中で小銭がさみしい音を立てているのも、忘れる。
そういうわけでわたしは、人生で初めて、怪異のにおいのしないアルバイトを手に入れた――はずだった。
◆
橘さんの家は、坂の上の新しいマンションの七階にあった。
エレベーターはやわらかい音で上がっていって、扉が開くと廊下までいい匂いがした。柔軟剤と、掃除のあとの、すこし鼻の奥がつんとする匂い。
通された子ども部屋は、見たことがないくらい片づいていた。
参考書は背の順、鉛筆は削りたてが五本、消しゴムは新品。壁にはカレンダーが貼ってあって、模試の日付が赤い丸で囲ってある。その丸が、月の半分を埋めていた。
子どもの部屋というより、よくできた標本箱みたいだった。物が多いのに、生活のにおいがしない。
生徒の名前は、橘みのりさんといった。
小さくて、おとなしくて、わたしと目が合うとすぐ机のほうを見た。視線の逃がし方が、十一歳にしては慣れすぎていた。
「よろしくお願いします」
みのりさんは、おとなみたいなお辞儀をした。
お母さんの香澄さんが、麦茶とお皿に乗せたお菓子を運んできて、それから廊下のほうに立ったまましばらく動かなかった。
「この子、のみこみは早いんです。早いんですけど、すぐ我流に走っちゃって。先生、ちゃんと、教わったとおりにやらせてくださいね」
「……はい」
わたしは麦茶をひとくち飲んだ。冷たくて、よく冷えていて、おいしかった。
香澄さんはやさしい人に見えた。声もやわらかいし、爪も髪もきれいに整っている。子どものためによくしてあげているお母さん。だれが見ても、そう言うだろう。
ただ、お皿のお菓子が定規で測ったみたいに等間隔に並べてあるのが、少しだけ気になった。
三枚のクッキーの、間と間が、寸分たがわず同じだった。
◆
授業は、拍子抜けするほど順調だった。
みのりさんは賢かった。香澄さんの言ったとおり、教えればすぐにのみこむ。それどころか、わたしが教えるより先に自分の手で答えにたどり着いてしまうことがあった。
しかもその解き方が、教科書には載っていない近道だったりする。鉛筆の先が、迷いなく誰も教えていない道をすうっと走っていく。
「これ、どこで習ったんですか」
「……ううん。なんとなく、こうかなって」
みのりさんは、ほめられると思っていなかったみたいに、目をぱちぱちさせた。
ほめられ慣れていない子の顔だ、と思った。正解には慣れているのに。
わたしはその回、問題集の同じ単元を二十ページぶん、みのりさんと一緒に解いた。赤いペンでぜんぶに丸をつけた。大きな花丸も、三つ。
みのりさんは、その花丸を指でそっとなぞって、笑った。指の腹でインクの乾いた手ざわりを確かめるみたいに、なんどもなぞった。
いい子だ、と思った。お金のためでなく、わたしはそう思った。教えるのって、わるくない。終わったあとにまぶたの裏に何も残らない。
◆
異変に気づいたのは、次の週だった。
前回やったところの確認から始めようとして、問題集を開いて――わたしは、手を止めた。
白紙だった。
二十ページぶん、わたしが丸をつけたはずのページが、ぜんぶ白紙に戻っている。
答えも、わたしの赤い丸も、花丸も、消えていた。鉛筆で書いて消したのとは違う。消しゴムのかすも、紙のへこみも、何もない。最初から、誰も書いていなかったみたいに。
(……は?)
わたしは表情を変えずに、ページをめくった。心臓は、わりと正直にひとつ大きく鳴っていた。
その先も、その先も。先週やったところは、ぜんぶ白紙。やっていないところは、印刷のまま。きれいに、先週の境目で分かれていた。
ここまではやった、ここからはまだと、誰かが指で線を引いたみたいに。
「みのりさん。これ、新しい問題集に買い替えました?」
「ううん。ずっと、それ」
みのりさんは、わたしの顔を見なかった。問題集のほうも、見なかった。
膝の上で、自分の指をもう片方の手でぎゅっと握っていた。爪が白くなるくらい、強く。
その指先から、うっすらと――糸のようなものが、立ちのぼっていた。
わたしにしか見えない、念の緒だ。
冷たくはない。死のにおいはしない。腐った水のにおいも、土のにおいもしない。生きている人間の、生霊の緒。
なんだ、と思いかけて、わたしはもう一度目を凝らした。
その緒は、一本ではなかった。
問題集の上で、もう一本の緒と、きつく結ばれていた。
二本とも、生きている人間のものだ。そして二本は、たがいに逆を向いて、引っぱり合っていた。片方が書こうとし、片方が消そうとする。結び目が、ぎちぎちと軋んでいる。
わたしは手袋を嵌めた指を、そっと問題集の表紙に置いた。
(誰と、誰が)
部屋のドアの外で、廊下の床が、小さく軋んだ。
立ち聞きの気配は、すっと遠ざかっていった。スリッパの音さえ、立てずに。
「立派な陰陽師です」。修行中の真琴に、大きな言葉。
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