第3話 推薦状(後編)
二色の目をした相談屋が、廃村の真ん中に立ちます。祈りの時間です
ずっと前に、この枠から外された誰か。
そう言ったとき、須藤教授の柔らかい笑みが、はじめて消えた。
心当たりのある人間の、顔だった。
◆
念を確かめる前に、潰しておく線がある。
当てずっぽうで札を切るほど、わたしの護符は安くない。
いちばん単純な線。学生の誰かが、夜中にこっそり書き換えている。
けれど、鍵は教授しか持たず、窓は嵌め殺し、廊下のカメラには誰も映らない。
生身が毎晩通った痕跡は、どこにもなかった。
――線を、一本消す。
残ったのは、紙に染みついた、あの古い念だ。
わたしは、刑事さんに頼んで、古い名簿を当ててもらった。
数年前。同じ研究室から、同じ給費留学枠に推された、ひとりの学生。
三宅、という名だった。
成績は文句なし。指導教員も本人に「君で決まりだ」と言っていた。書類は、ほとんど通っていた。
なのに、締切の三日前。推薦は、別の学生に差し替えられた。
大口の寄付をしている家の、息子に。
三宅さんは、何も言わなかったらしい。「わかりました」と頭を下げて、それきり研究の道から、静かに降りた。
今は隣の県で、ふつうに働いている。生きて、結婚して、子どももいるという。
もう、留学のことなんて、思い出しもしないだろう。
――そこが、いちばんこたえた。
◆
その夜、わたしは式盤を据えて、式神を放った。あの念の、緒を辿らせる。
いつか似た念の緒を辿ったときは、緒は西へ伸びて、眠っている本人のところまで、まっすぐ繋がっていた。
今度は、違った。
緒は、机から立ち上がって、すぐにぷつりと切れていた。
どこにも繋がっていない。本体に、還る先がない。
……ああ。
本人は、とっくに手放しているのだ。
悔しさも未練も、当の三宅さんは、もう畳んでしまった。
ただ、当時あんまり強く願ったものだから、その願いの一片だけが、この紙に置き去りにされた。
持ち主に忘れられた念が、たった独りで、何年も、あの席に座っている。
◆
けれど、それだけでは、説明のつかないことがある。
念は、気まぐれなものだ。機嫌で現れて、気分で消える。
なのに、あの推薦状は、毎朝きっちりと書き換わり、毎昼きっちりと篠原の名に戻る。
判で押したように。
念ひとりに、そんな律儀な真似はできない。
誰かが毎日、おなじ拍子を刻んでいる。念は、それをなぞっているだけだ。
毎昼、篠原の名に戻しているのは――生身の手。
鍵を持っている、ただ一人の人。
わたしは、ようやく、いちばん大事なことに気づいた。
この紙を毎日いちばん書き換えているのは、怪異じゃない。
◆
「須藤先生」
わたしは、研究室で、教授に向き直った。
「毎昼、篠原さんの名前に書き戻しているのは、先生ですよね」
教授の、撫でつけた白髪が、わずかに揺れた。
「……ええ。戻しても、朝には、また今村君に変わっている。気味が悪くて、何度も、何度も」
認めた。
この紙を書き換えていた手の半分は、この人自身だ。
「あの席にいるのは、ずっと前にここから外された人の、置き去りの念です」
わたしは、机の上の推薦状を見た。
「でも、念は、きっかけがないと動けません」
教授は、答えなかった。
「毎晩、先生が迷っている。その迷いを……たぶん、なぞっているんだと思います」
わたしは、少し息を継いだ。
「だから、わたしが念を散らしても、たぶん無駄です。先生が迷うかぎり、念はまた、それをなぞります。何度でも」
ここから先は、踏み込めなかった。
わたしは、人の人生を決められるような、大人じゃない。
家を出て、自分の人生ひとつ、まだ持て余している。
だから、ひとつだけ、そっと置くように言った。
「先生は……もう、決めているように、見えます」
舌打ちしたい気分を、こらえた。
「だから、書き換わるんじゃ、ないでしょうか」
長い沈黙だった。空調の低い音だけが続いている。
やがて、教授は、ひどく小さな声で言った。
「……今村君だと、思っているんです。ほんとうは。最初から」
白髪の老人は、自分の手の甲を見つめていた。
「篠原君のお父さまには、ずいぶん世話になっている。だから、篠原君にしなければと……」
そう言って、教授は、口をつぐんだ。
「そう書くたびに、朝になると、今村に戻っている」
戻っている、とこの人は言った。篠原が正しくて、今村に「戻る」のだと。――いや、逆だ。
この人の手は、ほんとうは毎晩、今村と書きたかった。
書けないから、昼に、篠原と上書きする。
夜のあいだに、置き去りの念が、この人の言えない本心を、代わりになぞって書く。
綱引きをしていたのは、怪異と教授じゃない。
この人の打算と、この人の良心だ。
念は、ただ、良心のほうに、そっと肩を貸していただけ。
「決めるのは」
わたしは、桃木の剣も、護符も、出さなかった。
「わたしじゃ、ありません。……いえ。わたしには、できません」
気づかせるところまでが、視て、読んで、納める家の娘の役目だ。
その先の一歩は、いつだって、本人にしか踏めない。
◆
数日して、刑事さんが、報酬の封筒と一緒に、短い報告をくれた。
推薦状は、もう書き換わらないという。
一晩おいても、昼を過ぎても、宛名はひとつのまま。
須藤教授が最後にどちらの名を書いたのかは、刑事さんも教えてくれなかった。わたしも、訊かなかった。
訊いて、どうなるものでもない。
ただ、ひとつだけ。
古い推薦状の書式――何年も使い回されてきた、あの台紙の、いちばん下の隅に。
薄い鉛筆で、几帳面な丸い字が、残っていたそうだ。
日付がひとつ。数年前の春。そのとなりに、四文字。
『ありがとうございました』
まだ、外される前に。自分で決まりだと信じて、礼だけ先に書いておいたのだ。
その律儀さだけが、何年も、あの紙に貼りついていた。
◆
わたしは、もやしを茹でながら――またしても、もやしだ――ぼんやり考える。
選ばれたのが今村さんだとして、その先で幸せになるかは、わたしには視えない。
選ばれなかったほうが、それで終わるのかどうかも。
三宅さんが、ぜんぶ忘れて暮らしているのが、救いなのか、諦めなのかも。
視える目で、いちばん見えないのは、いつだって、その先だ。
……「ありません」と言って家を出たわたしが、これでよかったのかも、まだ視えていない。
思って、それから、首を振った。ですわ、と漏れかけた語尾を、飲み込む。
窓の外が、白みはじめていた。
今朝の名前は、もう書き換わらない。誰かが一人、やっと、自分で選んだからだ。
それが正しい一人だったかどうかは――まだ、誰にも、わからない。
悪霊を斬るのではなく、労って還す。慈恩のお仕事が、はじめて明かされた回でした。胸に残るものがあれば、★での評価を。
もう少し読み応えのある“働く人間”の物語がお好きな方は、
noteの無料マガジン〈働く人間の物語 ―名を呼ばれない人たちへ―〉もどうぞ。
→ https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e




