第3話 推薦状(前編)
学費の納入期限は、いつだって容赦がない。
わたしは掲示板の前で、さっきから同じ紙を睨んでいた。
後期分の振込用紙。桁をひとつ見間違えたいのに、何度数えても、桁は減ってくれない。
そのすぐ隣に、もう一枚、貼ってある。
『大学院 給費留学 推薦者募集』。
研究室ごとに、毎年ひとりだけ。
選ばれれば、渡航費も、向こうの学費も、大学持ちだという。
……はは。
わたしには、推薦してくれる家も、振り込んでくれる親も、ない。
あるのは、冷蔵庫のもやしと、来月の家賃の不安だけだ。
くるりと背を向けたところで、鞄のなかでスマホが鳴った。
登録していない番号――ではない。例の、私服の刑事さんだ。
「悪いね、こんな時間に」
「短時間で終わるなら、お受けしますわ。……いえ、受けます」
わたしは小さく舌打ちして、言い直した。
「ちょうど、お金の話をしていたところなので」
「相変わらずやな」
刑事さんは、ふっと笑って、それからすぐ声を落とした。
「大学のなかでな。先生の部屋で、妙なことが起きとる」
大学のなか。
それを言われると、断りにくい。
同じ構内で起きていることに背を向けられる性分なら、とっくにこの目は捨てている。
「……場所だけ、教えてください」
◆
須藤教授の部屋は、本館のいちばん奥にあった。
扉が、やたらと重い。
中は革張りの椅子と、年代物の本棚と、その値段だけで学生が何人か暮らせそうな調度で埋まっていた。
ここの主は、長いあいだ選ぶ側にいる人だ。部屋が、そう言っていた。
「須藤です」
迎えたのは、白髪をきれいに撫でつけた、恰幅のいい老教授だった。
声は柔らかい。柔らかすぎて、どこにも引っかからない。何十年も、人前で喋ってきた声だ。
「お若いのに、その筋では名の知れた家の方だとか。いや、頼もしい」
世辞。わたしは、世辞を信じない。
信じるとあとで高くつくと、家を出てから三日で学んだ。
「これなんです」
須藤教授が、机の上の一枚を、指で示した。
上等な紙だった。万年筆の青みの濃いインク。
文面は、あの『給費留学』の推薦状だ。
宛名の欄に、ひとりの学生の名が書いてある。
『篠原 直人 君を推薦する』
「昨日の夜、私が書いて、鍵をかけて帰りました。今朝、来てみると――」
教授は、言葉を切った。
「名前が、変わっていた」
わたしは手袋を嵌めてから、紙に指先を近づけた。
宛名の『篠原』の上に、うっすらと別の字がにじんでいる。乾いて、また内側から浮かんできた跡だ。
『今村 蓮 君を推薦する』
「今朝は、これでした。慌てて、篠原君の名に戻しました。……そうしたら、昼にはまた、今村君に戻っている」
篠原。今村。
二つの名前が、毎朝、入れ替わる。誰かが、決めかねているみたいに。
「鍵は?」
「私しか持っていません。窓は嵌め殺し。廊下にもカメラがある。誰も、入っていない」
わたしは、紙に、指の腹を触れた。
――ぞわり。
念が、昇ってくる。
几帳面な、それでいて、ひどく古い手つきだ。
須藤教授のものではない。あの二人の学生のものでも、ない。
もっと前。何年も前に、この同じ書式の、同じ欄に、繰り返し触れた誰かの念だ。
死の匂いは――しない。
なのに、生きた人がいまここで書いている気配も、ない。
……またですの。
……いえ。また、これだ。いちばん、苦手なやつ。
姿のあるものより、こういう「気配だけ古いもの」のほうが、わたしはずっと怖い。
◆
部屋を出ると、廊下の長椅子に、二人の学生が間を空けて座っていた。
ひとりは、仕立てのいいシャツを着た、姿勢のいい青年。
膝の上で、分厚いファイルをきちんと揃えている。
たぶん、篠原直人。育ちのよさが、座り方に出ていた。
もうひとり。窓際で、すり切れたリュックを抱えて、爪の先を見ている男子学生。
頬がこけている。眠れていないか、食べていないか、その両方か。
わたしには、後者の顔に、見覚えがあった。
鏡で、毎朝、見ている顔だ。
「……今村さん?」
名を呼ぶと、彼は、びくりと顔を上げた。
「推薦、もう、決まりました?」
声が掠れていた。
問うているというより、刑の宣告を待っているような声だった。
「まだ、らしいですよ」
「そう、ですか」
彼は、また爪に目を落とした。
それから誰に言うでもなく、ぽつりと零した。
「取れなかったら、親に、もう帰ってくるなって、言われてて」
ことり、と。
わたしの胸の、いちばん固い場所が、小さな音を立てた。
「学費はもう出さない。実家の敷居も跨ぐな。――結果だけ、出せって」
……ああ。
その台詞を、わたしは知っている。家の形は違っても、骨の形は、同じだ。
『お前の力は、家のものや』
『外で学んで、どうする』
喉の奥が、ひとりでに熱くなる。表情には、出さない。出してやるものか。
「……陰陽師の家って、いいですよね」
今村さんが、力なく笑った。
「視えるんでしょう。先のこととか。羨ましいな。おれ、明日のことも、何も視えない」
視えますよ、と言いかけて、わたしは、やめた。
視えたところで、選べるわけじゃない。
視えたのは、千年前の墨に決められた一本道が、見えただけだった。
でも、それを言うのは、わたしの仕事じゃない。
「……お代の出ない話は、しない主義なんです」
つとめて平らな声で、そう言った。
彼は、少しだけ笑った。今度のは、さっきより、ましな笑いだった。
◆
その夜明け前、わたしは、もう一度、須藤教授の部屋に立った。
教授には、鍵を借りた。理由は言わない。言っても、信じない人だ。
蛍光灯は点けない。机の上に、書き戻したばかりの推薦状が、一枚。
『篠原 直人 君を推薦する』
窓の外が、藍から、薄い灰色に変わりはじめる。
その、いちばん心細い時刻に。
――ぴ、り。
紙の上で、音がした。
インクが、にじむ音だ。
乾いていたはずの『篠原』の二文字が、内側から、ふやけるように、ほどけていく。
わたしは、動かない。動いたら、負ける。
ほどけた墨が、机の上を這って、まだ何もない場所に、ひとりでに、集まりだす。
几帳面で、丸みのある筆致。一画ずつ、ためらいもなく。
『今村 蓮 君を――』
書いている。
誰も、いないのに。
誰かが、この席で、何年も前から、ずっと、おなじ名前の上に、おなじ名前を、書き直しつづけている。
ふと、首筋に、視線を感じた。
……見てますわね。
……いえ。見てる。机のこちら側から、たしかに、わたしを。
背中の産毛が、一本残らず立った。
喉の奥で悲鳴を噛み殺して、わたしは、ようやくわかった。
この念は、二人のどちらを推すか、迷っているんじゃない。
もっと昔に、この欄から、消された。その消され方を、ずっと、やり直そうとしているのだ。
翌朝、わたしは須藤教授に、できるだけ平らな声で言った。
「これを書いているのは、たぶん、いまここにいる誰でも、ありません」
教授の、柔らかい笑みが、はじめて止まった。
「ずっと前に、この枠から外された――誰かの、置き忘れみたいなものだと思います」




