第2話 未提出の卒論(後編)
誰かが、続きを書いている。
でも、犯人探しではなかった。わたしが読んだ念は、悪意の手触りをしていない。
むしろ逆だ。悔やみと、償いと、間に合わなかった、という遅れの匂い。
わたしは、印刷された四十三枚を、一枚ずつ、指でなぞっていった。
ページごとに、念の主が、違う。
◆
十二枚目から、二十枚目。
直された言い回し。文体を整える、手慣れた指。これは――奥の机の、あの人だ。
「立花さん、でしたか」
わたしは、院生に声をかけた。
「この、十二ページから先の直し。あなたの癖です。藤村くんの文章に、あなたの息が、混じってる」
立花さんの手が、止まった。
「……おれは、何も。ファイルなんて、開いてない」
「ええ。指では、書いていません」
わたしは言った。
「でも、毎晩、考えてるでしょう。あいつの論文、おれが赤を入れてやれば通ったのに、って」
立花さんは、答えなかった。
わたしは、その念を、もう少し深く読んだ。悔やみの、すぐ下。もっと古くて、苦い層がある。
「……あなた、藤村くんが、嫌いでしたね」
立花さんの肩が、跳ねた。
「優秀すぎたから。後輩のくせに、自分より先を歩いていたから。だから、机を並べても、口をきかなかった。煮詰まっていても、気づかないふりをした」
「……黙れよ」
「その嫌いと、今の後悔は、別のものじゃありません。同じひとつの、裏と表です」
わたしは、淡々と続けた。
「嫌いだったから、助けなかった。助けなかったから、死なれて、こうして毎晩、償っている。――人の気持ちは、そんなにきれいには、片付きません」
返事は、なかった。
本棚のそばの三沢くんも、同じだった。
借りられないはずの本の引用が増えていたのは、彼が「あの一冊さえ教えてやれば」と、夜ごと悔やんでいたからだ。
顔も知らない事務の人――大野さんは、システムの上の締切を、ずっと閉じられずにいた。
もう間に合わないと知りながら、藤村くんの枠だけ、開けたままにしていた。
誰も、ファイルは触っていない。
触っていないのに、みんなで、書いていた。
「あのとき、ああしていれば」という念だけで。
◆
「藤村くんは」
わたしは、誰にともなく言った。
「この部屋で、ひとりだったんですね」
返事は、なかった。それが、返事だった。
誰も、いじめてはいない。殴ってもいない。ただ、誰も、隣に座らなかっただけ。
「便利な言葉ですわ」
気づけば、口から漏れていた。舌打ちして、それでも、引っ込めなかった。
「便利ですよね。『誰も悪くない』っていうのは。みんなで少しずつ素通りすれば、誰ひとり、見捨てたことに、ならない」
質問しても、生返事。煮詰まっていても、気づかないふり。――その小さな素通りが、毎日積もって、ひとりの人間を、ほんとうに、ひとりにした。
ネジが緩むように藤村くんが死んでから、全員が、いっせいに思い出した。
あのとき声をかけていれば。あの本を教えていれば。あと三日、待ってやれば。
その「いれば」の念が、夜ごと、誰もいない机に集まって、死んだ子の論文の続きを、代わりに書いていた。
でも、と、わたしは最後の一枚を持ち上げる。
この、四十三枚目だけは、誰の念でもない。
生者の手触りが、ひとつもしない。冷えて、湿って、いちばん古い。
これは、藤村くん本人だ。
本人にしか書けない、本人しか知らない、結論。
◆
わたしは、桃木の剣を、鞄から出した。今度は、迷わなかった。
けれど、振りはしない。散らすのではなく、鎮めるためだ。
机の島の、真ん中に、護符を一枚、置く。
生きている人の念には、そっと手を引いてもらう。死んだ子の念は、いちばん下から、静かにすくい上げる。
(――もう、書かなくていいですよ)
声には出さず、わたしは念じた。
あなたたちが書いてあげなくても、この子は、最後の一行を、もう、自分で書いている。
部屋の空気が、ゆっくり、ほどけていった。
あれだけ張りつめていた、空席の上のものが、ふっと、軽くなる。
◆
梶井さんが、最後の一枚を見つめて、言った。
「提出するべきでしょうか」
「わかりません」
わたしは、答えた。
「君なら」
「本人じゃ、ないので」
そして、少しだけ迷ってから、付け足した。
「でも――」
「……終わらせたかったとは、思います」
梶井さんは、長いあいだ、その一枚を見ていた。
それから、震える手で、論文を、いちばん上から揃え直した。
何かを決めた顔だった。提出するのか、しないのか、教授会に諮るのか、家族に渡すのか。――それは、訊かなかった。
気づかせるところまでが、視て、読んで、納める家の娘の役目だ。決めるのは、その人。
◆
数日して、刑事さんが、報酬の封筒と一緒に、短い報告をくれた。
研究室の論文ファイルは、もう増えていないという。刷っても、四十三枚のまま。
ただ、一つだけ、変わったことがあった。
ファイルの名前が、いつのまにか、ひとつ、増えていた。
あの、几帳面なのにどこか抜けた、最終版が無限に増えていく癖。その、いちばん新しいやつだ。
更新日時は、相変わらず、藤村くんが亡くなった日のまま。誰も、開いていない。なのに、それだけが。
『卒論_ほんとうに最後』
わたしは、もやしを茹でながら――またしても、もやしだ――そのことを、ぼんやり考える。
間に合わなかった人たちの「いれば」は、たぶん、これからも消えない。消えなくていい。
ただ、藤村くんのほうは、自分で、終止符を打った。誰の手も借りずに、たった一行で。
……ずるいですわ。ひとりで、きれいに、終わってしまうなんて。
……いえ。ずるい、じゃない。よかった、と言うべきだ。
窓の外は、もう、朝だった。
わたしのレポートの締切は、とっくに、過ぎていた。




