第2話 未提出の卒論(前編)
図書館の四階は、いつも空いている。
わたしはさっきから、レポートの締切と睨み合っていた。
あと三千字。脚注の体裁、引用の並び順、参考文献の年号。
理屈の通る世界は、いい。数式は裏切らないし、註は遡れば必ず元がある。
怪異の気配がいちばん薄いこの階が、わたしはわりと好きだった。
なのに、鞄のなかでスマホが鳴った。
登録していない番号――ではない。例の、私服の刑事さんだ。
「悪いね、勉強中に」
「短時間で終わるなら、お受けしますわ。……いえ、受けます」
わたしは小さく舌打ちして、言い直した。
「今月、財布にもう千円しかないので」
「相変わらずやな」
刑事さんは小さく笑って、それからすぐ、声を落とした。
「大学のなかの話なんや。理学部の、研究室でな」
大学の中。
それを言われると、断りにくい。
同じ構内で起きていることに平気な顔で背を向けて、脚注なんか整えていられる性分なら、とっくにこの耳と目は捨てている。
わたしは、参考文献の途中でカーソルを止めた。
「……場所だけ、教えてください」
◆
通されたのは、同じ建物の、奥まった研究室だった。
本棚が天井まで埋まっている。
机が六つ、島になって並んでいて、そのうちの一つだけ、椅子が半端に引かれたまま、誰も座っていない。
その島の上だけ、空気がぴんと張っていた。誰かが、つい今しがたまでそこにいた――みたいに。
わたしは、表情を動かさない。けれど内心では、もう、うっすら鳥肌が立っている。
「梶井です」
迎えたのは、白衣の似合わない、線の細い准教授だった。
目の下のくまが、何日ぶんも積もっている。眠れていない人の顔だ。
「これを、見てもらえますか」
梶井さんが、一台のノートパソコンを開いた。
デスクトップには、卒業論文のファイルが、いくつも並んでいた。
『卒論_最終版』『卒論_最終版2』『卒論_ほんとに最終』。
几帳面な子なのに、最終版だけは、いつまでも増えていく。そういう癖の子だったらしい。
「藤村くん――うちの、四年生の論文です。先月、亡くなりました。提出の、三日前でした」
帰り道で、事故に。
梶井さんはそこだけ、言葉を飲むように、小さく言った。
「妙なのは、ここからなんです」
梶井さんは、印刷した紙の束を、机に置いた。
「先週刷ったときは、四十二ページだった。今朝、刷り直したら、四十三ページある。増えた一枚に……続きが、書いてあるんです」
「ファイルは、いじっていないんですか?」
「更新日時は、藤村くんが亡くなった日のまま。動いていません。誰も、開いてすらいない。なのに、刷るたび、増える」
わたしは紙束を受け取って、いちばん後ろの一枚を見た。
几帳面な文章。論理は通っている。註も振ってある。――死んだ人の論文が、ひとりでに、先へ進んでいる。
……これだから、この耳も目も嫌いなのだ。
◆
部屋には、ほかに二人いた。
奥の机で、院生らしい男の人が、こちらを見ないようにキーボードを叩いている。
手は動いているのに、画面はさっきから一行も進んでいない。叩く真似だけ、している。
もう一人、藤村くんと同じ年ごろの男子学生が、本棚のそばに立って、背表紙ばかり見ていた。
さっきから同じ一冊の前で、目だけが泳いでいる。
全員が、何かを抱えて、黙っている。
怪異より、こっちのほうが、わたしには読みやすい。
人は、隠そうとするほど、隠したい場所を、体で指してしまう。
「触っても、いいですか?」
わたしは返事を待たずに、手袋を嵌めた。
ノートパソコンの、まだ温かいパームレストに、指先を置く。
――ぞわり。
念が、昇ってくる。
ただ、一つじゃない。何層も、重なっている。
悔やみ。焦り。後ろめたさ。
手触りの違う念が、データの表面に、薄く塗り重ねられている。生きている人間の念だ。それも、何人もの。
その、いちばん下に。
冷えて、湿った匂いが、ひとつ。
……死んだ人の念も、ある。
生者の手で何度も上書きされて、ほとんど埋もれかけた、いちばん古い層に。
◆
わたしは、最後の一枚を、もう一度見た。
註のなかに、一冊だけ、知らない本が引いてある。
図書館の蔵書検索にかけると、確かに在った。
けれど、貸出履歴を見て、わたしは指を止めた。
その本が最後に借りられたのは、藤村くんが事故に遭った、その日だった。
借りたのは――藤村くんの、学生証で。
「……刑事さん」
わたしは、つとめて平らな声を出した。
「この論文、まだ、誰かが続きを書いてます」




