閑話 家を出た日
井戸の中から、何かが、笑った。
最初は、水が揺れた音だと思った。
大津の家には、千年続く家訓がある。
女は、視えればよい。視えて、ふさわしい家へ嫁げばよい――ご先祖さまは、それはもう大真面目な筆跡でそう書き残していた。
墨痕鮮やか、迷いなし。
千年前のあなたに、今のわたしの模試の判定は視えていまして? E判定ですわ。
視える家系、千年やって子孫の偏差値ひとつ視通せないんですの。
ご先祖さま、それはもう、ただのお飾りでは――……いえ。「ですわ」じゃない。落ち着け、わたし。
十九にもなって、気を抜くと語尾が祖母の口移しに戻る。
家の中では、誰もそれを変だと言わなかった。
母も祖母も大叔母も、みんな同じ調子で喋っていたから、わたしにとってそれは空気と同じ「普通」だった。
それが普通でないと知るのは、もう少し先の話になる。
◆
わたしは、視える。
物心ついた頃から、家の廊下には人でないものが座っていた。
夜になれば、襖の向こうで誰かが膝を揃えて正座している。
だからわたしは「視ない」ことを覚えた。
視えても湯呑みを運ぶ。視えても、平気な顔で味噌汁を飲む。内心では毎晩、喉の奥で悲鳴を噛み殺しながら。
家の大人たちは、その力を喜んだ。
よく視える子だ、いい家へ嫁げる、家のためになる、と。――家のため。いつだって同じ言葉だった。
わたしの目は、わたしのものではない。家のものだった。
だから、嫌いだった。視えることも、祓うことも、その先に敷かれた一本道も、全部。
わたしが欲しかったのは、別のものだ。答えのある問題。積み上げたぶんだけ手が届く知識。
怪異は理屈が通らない。機嫌で現れて、気分で消える。
けれど数式は裏切らないし、歴史は掘れば理由が出てくる。
理由のある世界が、ただ、欲しかった。
大学へ行きたい――そう言った瞬間、座敷の空気が水を打ったように静まった。
◆
「真琴。お前の力は、家のものや」
父は静かに言った。怒鳴られたほうが、まだ楽だった。
父はわたしを溺愛している。皮肉ではなく、ただの事実だ。
幼い頃は膝に乗せて星の名を教え、式盤の回し方を教え、悪い夢の夜は朝まで枕元にいてくれた。
優しい人だ。本当に。だからこそ、たちが悪い。
「外で学んで、どうする。お前が視るべきものは、もう全部この家の中にある」
――ありません。
喉元まで上がった言葉を、今度は飲み込まなかった。
十九年ぶん肺に溜め込んだ息を、まっすぐ吐く。
「この家には、わたしの知りたいことが、何ひとつありません」
言い切った瞬間、障子の桟が、ぴしりと鳴った。家鳴りだ。
古い家には古いものが棲んでいて、この連中は人の不和がいつも少し楽しそうなのだ。
◆
誰も手は上げなかった。誰も泣かなかった。
ただ父は最後まで「許す」と言わず、わたしも最後まで「やめます」と言わなかった。それだけのことだ。
決裂、というには静かすぎる別れだった。
兄は廊下の隅で困った顔をしていた。家を継ぐのは、本来この人の役目だ。
けれど力は薄く、進路も定まらず、いつも誰かの顔色を窺っている。
わたしが飛び出せば、そのぶんの重さが兄に乗る。わかっている。痛いほど、わかっている。
「ごめんなさい、お兄ちゃん」
「……ええよ。真琴は、行きたいとこ行き」
兄は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「お前、昔から目だけは死んでなかったもんな」
褒めているのか、けなしているのか。たぶん、その両方だ。
◆
荷物は、思っていたよりずっと少なかった。
着替えを少し、教科書と参考書、母譲りの勾玉に護符を数枚。桃木の剣を一振りと、式盤。
それから、漫画アプリくらいしか入っていないスマホ。これがないと生きていけない。
陰陽師である前に、わたしは十九歳の現代人なのだ。
玄関で靴を履いていると、背中に父の声が落ちてきた。
「困ったら、帰ってこい」
優しい人だ。本当に。だからわたしは振り返らなかった。
振り返れば、負ける気がした。負けたら、また千年前の墨に人生を決められる。
「結構です」
思ったより硬い声が出た。戸を引くと、六月の夜気が頬に貼りついた。
――これはたぶん、四年遅れの反抗期だ。
十五の夜に校舎の窓を割る度胸はなかったし、盗んで走り出すバイクもなかった。
わたしはずっと、視える「いい子」をやっていたから。
だから今ごろになって、こんなに心臓がうるさい。
逃げ出すって、こんなに息が切れることですのね。……いえ、「ですのね」じゃない、もう。
盗んだバイクの代わりに、わたしにあるのは中古のママチャリ一台。
立ち漕ぎで、夜の坂を下った。怖いのか、嬉しいのか、自分でもわからない。
わからないまま、ペダルだけは止めなかった。
◆
借りたアパートは、大学まで自転車で十五分の、笑ってしまうほど狭い部屋だった。
一階の角。台所と居間の境は曖昧で、風呂はあるが追い焚きはない。
畳の隅には、前の住人が残した煙草の焦げ跡がひとつ。でも、いい部屋だった。なにより、静かだ。
大津の家では、夜じゅう何かが歩く。襖の向こうで誰かが正座している。
けれど、この部屋にはそれがいない。
生まれて初めて、誰にも視られていない夜の中で、わたしは畳に大の字になった。
天井のしみを数える。一つ、二つ、三つ。怪異ではない。ただの雨漏りの跡だ。
――ああ、なんて、平和。
平和なんですけど。
……鍵を、かけ忘れた。
寝転がったまま三秒考えて、わたしはのろのろ起き上がる。
国内でも指折りに視えるはずの女が、戸締まりひとつまともにできない。
視えるくせに、近所のスーパーの特売日はちっとも覚えられない。
頭の出来と暮らしの出来は、どうやら別の引き出しにしまわれているらしい。
◆
その平和は、三日でお金に首を絞められた。
入学金。前期の授業料。教科書代。
敷金礼金で貯金はほとんど溶けて、家からの仕送りは当然ない。出てきた以上、頼る気もない。
冷蔵庫には、もやしと、卵が二つ。
電卓を叩いて、わたしは天井を仰いだ。
こういう時にかぎって、宝くじの当たり番号みたいな都合のいいものは何ひとつ視えない。
神さまというのは本当に意地が悪い。たぶん、千年前のご先祖さまといい性格をしている。
――勝算は、薄い。けれど、勝てない勝負はしない主義だ。
わたしは大津真琴。視て、読んで、納める家の娘。学問のためなら、たぶん、なんだってする。
その夜、スマホが鳴った。
◆
登録していない番号――ではなかった。
前に一度だけ、家の用事ですれ違った、私服の刑事さん。
なぜわたしの番号を知っているのかは、聞かないことにしている。聞いたら、負ける気がする。
通話に出ると、人のよさそうな、それでいて少し疲れた声がした。
「夜分にすまんね、大津さん。――ちょっと、見てほしい案件があるんやけど」
わたしは、もやしを茹でる手を止めた。
受話器の向こうで、低い駆動音がずっと続いている。自動販売機。
それから、やけに反響する足音――広くて、がらんとした建物。夜の、大学の構内だ。
声の掠れ方からして、この人はもう何時間も歩き回っている。
そして――家業の本家ではなく、わざわざわたし個人にかけてきた。つまり、表沙汰にできない類の案件。
ああ、嫌だ。考えたくもないのに、勝手に像が結ぶ。
これだから、この耳も目も嫌いなのだ。視えなくていいものまで、視えてしまう。
窓の外で、街灯がひとつ、理由もなく明滅した。
「……お代は、出ますの?」
ほら、出た。語尾。
わたしは小さく舌打ちして、言い直した。
「お代は、出るんですか」
犬神の無数の顔が、一斉に止まる。




