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京都陰陽師・真琴の怪異譚  作者: K3
大学生編

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閑話 家を出た日

井戸の中から、何かが、笑った。


最初は、水が揺れた音だと思った。



 大津の家には、千年続く家訓がある。


 女は、視えればよい。視えて、ふさわしい家へ嫁げばよい――ご先祖さまは、それはもう大真面目な筆跡でそう書き残していた。

 墨痕鮮やか、迷いなし。


 千年前のあなたに、今のわたしの模試の判定は視えていまして? E判定ですわ。

 視える家系、千年やって子孫の偏差値ひとつ視通せないんですの。


 ご先祖さま、それはもう、ただのお飾りでは――……いえ。「ですわ」じゃない。落ち着け、わたし。


 十九にもなって、気を抜くと語尾が祖母の口移しに戻る。

 家の中では、誰もそれを変だと言わなかった。


 母も祖母も大叔母も、みんな同じ調子で喋っていたから、わたしにとってそれは空気と同じ「普通」だった。

 それが普通でないと知るのは、もう少し先の話になる。



 わたしは、視える。


 物心ついた頃から、家の廊下には人でないものが座っていた。

 夜になれば、襖の向こうで誰かが膝を揃えて正座している。


 だからわたしは「視ない」ことを覚えた。

 視えても湯呑みを運ぶ。視えても、平気な顔で味噌汁を飲む。内心では毎晩、喉の奥で悲鳴を噛み殺しながら。


 家の大人たちは、その力を喜んだ。

 よく視える子だ、いい家へ嫁げる、家のためになる、と。――家のため。いつだって同じ言葉だった。


 わたしの目は、わたしのものではない。家のものだった。

 だから、嫌いだった。視えることも、祓うことも、その先に敷かれた一本道も、全部。


 わたしが欲しかったのは、別のものだ。答えのある問題。積み上げたぶんだけ手が届く知識。

 怪異は理屈が通らない。機嫌で現れて、気分で消える。


 けれど数式は裏切らないし、歴史は掘れば理由が出てくる。

 理由のある世界が、ただ、欲しかった。


 大学へ行きたい――そう言った瞬間、座敷の空気が水を打ったように静まった。



「真琴。お前の力は、家のものや」


 父は静かに言った。怒鳴られたほうが、まだ楽だった。

 父はわたしを溺愛している。皮肉ではなく、ただの事実だ。


 幼い頃は膝に乗せて星の名を教え、式盤の回し方を教え、悪い夢の夜は朝まで枕元にいてくれた。

 優しい人だ。本当に。だからこそ、たちが悪い。


「外で学んで、どうする。お前が視るべきものは、もう全部この家の中にある」


 ――ありません。


 喉元まで上がった言葉を、今度は飲み込まなかった。

 十九年ぶん肺に溜め込んだ息を、まっすぐ吐く。


「この家には、わたしの知りたいことが、何ひとつありません」


 言い切った瞬間、障子の桟が、ぴしりと鳴った。家鳴りだ。

 古い家には古いものが棲んでいて、この連中は人の不和がいつも少し楽しそうなのだ。



 誰も手は上げなかった。誰も泣かなかった。

 ただ父は最後まで「許す」と言わず、わたしも最後まで「やめます」と言わなかった。それだけのことだ。


 決裂、というには静かすぎる別れだった。


 兄は廊下の隅で困った顔をしていた。家を継ぐのは、本来この人の役目だ。

 けれど力は薄く、進路も定まらず、いつも誰かの顔色を窺っている。


 わたしが飛び出せば、そのぶんの重さが兄に乗る。わかっている。痛いほど、わかっている。


「ごめんなさい、お兄ちゃん」


「……ええよ。真琴は、行きたいとこ行き」


 兄は笑おうとして、うまく笑えなかった。


「お前、昔から目だけは死んでなかったもんな」


 褒めているのか、けなしているのか。たぶん、その両方だ。



 荷物は、思っていたよりずっと少なかった。


 着替えを少し、教科書と参考書、母譲りの勾玉に護符を数枚。桃木の剣を一振りと、式盤。

 それから、漫画アプリくらいしか入っていないスマホ。これがないと生きていけない。


 陰陽師である前に、わたしは十九歳の現代人なのだ。


 玄関で靴を履いていると、背中に父の声が落ちてきた。


「困ったら、帰ってこい」


 優しい人だ。本当に。だからわたしは振り返らなかった。

 振り返れば、負ける気がした。負けたら、また千年前の墨に人生を決められる。


「結構です」


 思ったより硬い声が出た。戸を引くと、六月の夜気が頬に貼りついた。


 ――これはたぶん、四年遅れの反抗期だ。


 十五の夜に校舎の窓を割る度胸はなかったし、盗んで走り出すバイクもなかった。

 わたしはずっと、視える「いい子」をやっていたから。


 だから今ごろになって、こんなに心臓がうるさい。

 逃げ出すって、こんなに息が切れることですのね。……いえ、「ですのね」じゃない、もう。


 盗んだバイクの代わりに、わたしにあるのは中古のママチャリ一台。

 立ち漕ぎで、夜の坂を下った。怖いのか、嬉しいのか、自分でもわからない。


 わからないまま、ペダルだけは止めなかった。



 借りたアパートは、大学まで自転車で十五分の、笑ってしまうほど狭い部屋だった。

 一階の角。台所と居間の境は曖昧で、風呂はあるが追い焚きはない。


 畳の隅には、前の住人が残した煙草の焦げ跡がひとつ。でも、いい部屋だった。なにより、静かだ。


 大津の家では、夜じゅう何かが歩く。襖の向こうで誰かが正座している。

 けれど、この部屋にはそれがいない。


 生まれて初めて、誰にも視られていない夜の中で、わたしは畳に大の字になった。

 天井のしみを数える。一つ、二つ、三つ。怪異ではない。ただの雨漏りの跡だ。


 ――ああ、なんて、平和。


 平和なんですけど。


 ……鍵を、かけ忘れた。


 寝転がったまま三秒考えて、わたしはのろのろ起き上がる。

 国内でも指折りに視えるはずの女が、戸締まりひとつまともにできない。


 視えるくせに、近所のスーパーの特売日はちっとも覚えられない。

 頭の出来と暮らしの出来は、どうやら別の引き出しにしまわれているらしい。



 その平和は、三日でお金に首を絞められた。


 入学金。前期の授業料。教科書代。

 敷金礼金で貯金はほとんど溶けて、家からの仕送りは当然ない。出てきた以上、頼る気もない。


 冷蔵庫には、もやしと、卵が二つ。

 電卓を叩いて、わたしは天井を仰いだ。


 こういう時にかぎって、宝くじの当たり番号みたいな都合のいいものは何ひとつ視えない。

 神さまというのは本当に意地が悪い。たぶん、千年前のご先祖さまといい性格をしている。


 ――勝算は、薄い。けれど、勝てない勝負はしない主義だ。


 わたしは大津真琴。視て、読んで、納める家の娘。学問のためなら、たぶん、なんだってする。


 その夜、スマホが鳴った。



 登録していない番号――ではなかった。

 前に一度だけ、家の用事ですれ違った、私服の刑事さん。


 なぜわたしの番号を知っているのかは、聞かないことにしている。聞いたら、負ける気がする。


 通話に出ると、人のよさそうな、それでいて少し疲れた声がした。


「夜分にすまんね、大津さん。――ちょっと、見てほしい案件があるんやけど」


 わたしは、もやしを茹でる手を止めた。


 受話器の向こうで、低い駆動音がずっと続いている。自動販売機。

 それから、やけに反響する足音――広くて、がらんとした建物。夜の、大学の構内だ。


 声の掠れ方からして、この人はもう何時間も歩き回っている。

 そして――家業の本家ではなく、わざわざわたし個人にかけてきた。つまり、表沙汰にできない類の案件。


 ああ、嫌だ。考えたくもないのに、勝手に像が結ぶ。

 これだから、この耳も目も嫌いなのだ。視えなくていいものまで、視えてしまう。


 窓の外で、街灯がひとつ、理由もなく明滅した。


「……お代は、出ますの?」


 ほら、出た。語尾。

 わたしは小さく舌打ちして、言い直した。


「お代は、出るんですか」


犬神の無数の顔が、一斉に止まる。

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