第1話 空席のノート(後編)
犬の大群と、坂東先生。噛まれた腕に、黒いもの。
刑事さんは「学生の幽霊」と言った。たぶん、間違っている。
わたしが指先で拾った念には、死の匂いがなかった。あれは、生きている誰かの念だ。
生きた人間の念が、本人のいない場所に、あんなに濃く溜まる――その理屈を、わたしは一つしか知らない。
けれど、それを確かめるには、順番がある。
当てずっぽうで札を切るほど、わたしの護符は安くない。
◆
まず、いちばん単純な線から潰す。
本人が、夜こっそり来て書いているだけ。幽霊でも怪異でもなく、ただの不法侵入。――これがいちばん、ありそうだ。
わたしは刑事さんに頼んで、休学した学生の今を当ててもらった。高木里奈。
隣の県で、生きて、働いている。先週も、職場に出ていた。
月曜の朝、ノートが増える時刻、あの子は確かに県境の向こうにいた。
それに、カメラには誰も映らない。ドアの埃も乱れていない。
生身が毎週通っている痕跡は、どこにもなかった。
――本人ではない。線を一本、消す。
◆
次の線。予言、あるいは予知。
まだ行われていない講義が書いてある以上、誰かが未来を視ている。
そう考えるのが、いちばん『それっぽい』。お祓いの相場も、いちばん高く取れる。
わたしは図書館にこもって、近藤秀志という教授の、ここ数年ぶんのシラバスを漁った。
それから、先輩から先輩へ流れていく、歴代の講義ノートのコピーも。
――同じだった。
板書も、蕎麦がまずかった話も、「休講にするか迷っている」の一言も、毎年、判で押したように繰り返されている。
近藤教授は、何年も、寸分たがわず同じ講義をしていた。
だから、あのノートの「来週」は、予言なんかじゃない。
この講義が、来年も再来年も変わらないだけ。決まりきった未来を、誰かが先回りで写しているだけだ。
……でも、それは「なぜ未来が書けるか」の答えにすぎない。
「誰の念が、あの席に座っているのか」は、まだ、何も答えていない。
線は、二本消えた。残ったのは、いちばん面倒な一本。
生きている人間の念が、本人を置き去りにして、あの席に通っている。
その緒が、どこから伸びているのか。確かめる方法は、一つしかない。
◆
その夜、わたしはもう一度、あの講義室に立った。
蛍光灯は落とした。式盤を、後ろから三列目の机に据える。
暗がりに目が慣れてくると、藍色の闇の底に、机の段がゆっくり浮かび上がってきた。
――かさ。
めくれた。誰もいない席で、ノートのページが、一枚。
わたしは動かない。動いたら、負ける。
式盤の十二支が、ことり、と一つぶん回った。
かさ。かさ。律儀な手つきだ。
一字も飛ばさず、聞き漏らさず、いちばん前の席よりも熱心に、誰かが板書を待っている。
椅子が、ぎ、と鳴った。座り直したのだ。窓際の、いちばん視線の通る席で。
……見てますわね。
……いえ。見てる。誰もいないのに、こっちを、見てる。
背中の産毛が、一本残らず立った。
喉の奥で悲鳴を噛み殺しながら、わたしは式盤の上に式神を放った。念の緒を、辿らせる。
緒は、机から立ち上がり、窓をすり抜け、夜の街を西へ、西へと伸びていった。
県境を越えて、隣の県の、小さなアパートの一室まで。
そこで、ひとりの女が眠っている。高木里奈。
生きて、疲れて、布団の中で、たぶん今も、あの席の夢を見ている。
生霊だ。
あの子の魂の、いちばん飢えた一片が、夜ごと身体を抜け出して、古巣の席に通っている。
本人も、気づかないまま。
◆
研究室を訪ねると、近藤教授は、思っていたよりずっと小さな人だった。
白髪まじりの、痩せた肩。机の端に、新しい大学ノートが一冊、ビニールも外さないまま積んである。
同じ銘柄の、同じ罫線。あの席に毎週置かれていたのと、寸分違わない。
「……先生が、置いているんですね」
問いではなかった。
教授は長いあいだ黙って、それから、観念したように頷いた。
「高木さん、いう学生でね」
ノートの山を見つめたまま、教授は言った。
「いつも、後ろから三列目の窓際に座っとった。質問はせん。けど、誰よりよう書く子でした」
親御さんが、女に学はいらん、という人だった。
下に弟がいて、そっちに金をかけたい、と。
本人は泣いて頼んだが、聞いてもらえなかった。二年の冬に、休学。理由は、家。
「あの席に、ノートを置くとね」
教授は声を落とした。
「次の週、増えとるんです。あの子の字で。……わたしは、それがこわくて。けど、やめられんかった」
置けば、来る。
教授のノートが、あの子の生霊を呼ぶ呼び水になっていた。
罪悪感が、毎週、あの子の魂の飢えた一片を、ここへ手招きしていたのだ。
◆
わたしの家は、お金には困っていなかった。視える、なんて余計なものまで持っていた。
それでも、言われたことは結局、同じ形をしていた。
お前の居場所はもう決まっている、外にお前の知りたいものなんて無い、と。
わたしは「ありません」と言い返して、家を出た。
高木里奈は、「わかりました」と言って、筆を置いた。
あのノートに、何度も書かれていた一行。
わかりました。わかりました。わかりました。――あれは、講義の書き取りなんかじゃない。
あの子が最後に飲み込んだ、たった一つの言葉だ。
◆
「祓いません」
わたしは教授に言った。
「わたしには、できません。……いえ。しません」
教授は戸惑った顔をした。
お金を払う相手が「やらない」と言うのだから、当然だ。
「祓えますわ。ひと晩で。気配を散らして、ノートを白紙に戻して、ここをただの部屋にすることは、たぶん、できます」
舌打ちして、言い直す。
「できます。――でも、あれは死んだ人じゃない。生きている人の、魂の一片です。あれを祓うのは、隣の県で眠っているあの子の、生身を削ることだ」
生きた人の生霊を散らせば、本体に障る。最悪、本人が床に就く。
学びたいと願った罰が、それでは、あんまりだ。
「あの席に座っているのは、幽霊じゃありません。あの子が置いていった『学びたかった』そのものだから。消したら、駄目です」
わたしは、積まれた新しいノートを指した。
「先生がノートを置き続けるのは、たぶん、償いなんでしょう。でも、それは里奈さんには届きません。届けたいなら、ノートじゃなくて――」
言いかけて、わたしは口をつぐんだ。
ここから先は、わたしの仕事じゃない。
気づかせるところまでが、視て、読んで、納める家の娘の役目だ。決めるのは。
「あなたが、決めてください」
◆
近藤教授がそのあとどうしたのか、わたしは詳しくは知らない。
ただ、しばらくして、刑事さんが報酬の封筒と一緒に、短い報告をくれた。
教授が大学の事務で「復学相談」の窓口を調べ、高木里奈の実家あてに、一通の封筒を出した、と。
返事が来たかは、わからない。あの子が戻ってくるかも、わからない。
わからないことだらけだ。
でも、次の月曜、あの席のノートは、もう増えていなかった。呼び水が、止まったからだ。
隣の県で、あの子の魂は、たぶん少しだけ、ぐっすり眠れるようになった。
空席は、空席のまま。けれど、そこで延々と続いていた講義は、どうやら終わったらしい。
誰か一人が、やっと「あなたの席は、まだある」と言ったからかもしれない。
わたしは、もやしを茹でながら――また、もやしだ――ぼんやり思う。
「ありません」と言って出てきたわたしと、「わかりました」と言って留まったあの子。
たった一語の違いで、ずいぶん遠くまで来てしまった。
……いえ。違う。あの子だって、まだ終わってなんかいない。
封筒は、もう、出されたのだから。
窓の外で、街灯がひとつ、今度はちゃんと、理由があって灯っていた。
腐った鉄のような臭い。
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