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京都陰陽師・真琴の怪異譚  作者: K3
大学生編

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第1話 空席のノート(前編)

三十分、戻らない相談屋。その間に、結界が


 待ち合わせは、講義棟の裏手だった。


 最後の講義を終えて自転車置き場へ歩いていくと、街灯の手前に見覚えのある背広が立っている。

 先日の夜、電話をかけてきた私服の刑事さんだ。

 昼の光で見ると、思っていたよりくたびれたコートを着ていた。


「悪いね、講義終わりに」


「短時間で終わるなら、お受けしますわ。……いえ、受けます」


 わたしは小さく舌打ちして言い直した。


「明日は一限から実験ですので。寝不足は、肌に出ますから」


 刑事さんは曖昧に笑った。

 十九の小娘が真顔で報酬と睡眠時間の話をするのに、まだ慣れていないらしい。


 コートの肩に、粉っぽい白いものがうっすら付いている。チョークの粉だ。

 ついさっきまで、黒板のある部屋で誰かと話していた。たぶん、今から行く場所の主と。


「報酬は、ちゃんと出るんですよね」


「出る出る。大学の、まあ……研究室の自腹やけどな」


 研究室の自腹。つまり、警察の正式な案件ではない。

 表に出せない、誰かの私的な困りごとだ。


 わかってはいたけれど、念のため言質は取っておく。

 すれているのではない。お金がないだけだ。



 通されたのは、百人は入りそうな大講義室だった。


 夜の講義室というのは、どうしてこう、昼と別の生き物になるのだろう。

 長机が段になって下りていき、いちばん下に黒板と教卓。


 蛍光灯は半分だけ点いていて、点いていない側の席は、薄い藍色の闇に沈んでいる。


「これなんやけどね」


 刑事さんが指したのは、後ろから三列目、窓際のひと席だった。

 その机の上に、ノートが一冊、きちんと置かれている。


 よくある、罫線の入った安物の大学ノート。表紙には何も書かれていない。

 けれど角はひとつも折れておらず、机の縁ときっちり平行に、定規でも当てたみたいに真っ直ぐ置かれていた。


 誰かが、とても丁寧に置いたのだ。


「毎週なんや。月曜の朝に来ると、この席にノートが増えとる。中身が、な」


 わたしは手袋を嵌めてから、ノートに指先を触れた。


 ――ぞわり。


 指の腹から、何かが昇ってくる。書いた者の念だ。

 紙には、書き手の心が薄く染みつく。墨より深い層に、たいていは本人も気づかないまま。


 わたしは、その層を読める。


 几帳面。律儀。それから――飢え。

 学びたい、という、焦げつくような飢えだ。


 息を整えてから、ノートを開いた。

 ぎっしりだった。几帳面な、丸い文字。一字も乱れていない。


 書いてあるのは、この大学の講義の内容だった。それも、板書をただ写したのではない。

 教授がついでに零した雑談――先週の学会で食べた蕎麦がまずかった、来週は休講にするか迷っている、そういう、ノートに取る必要のないことまで、全部、丁寧に書き留めてある。


「カメラには?」


 わたしは訊いた。


「映らへん。廊下のも、講義室のも。誰も入っとらん。なのに、増える」


 誰もいない部屋で、誰かが、講義を受けている。


「学生の幽霊やろか」


 刑事さんが、声を落とした。


 わたしは答えなかった。――違う。

 さっき指先が拾った念には、死の匂いがしなかった。


 死んだ人間の念には、必ず、冷えて湿った匂いが混じる。これには、それがない。

 なのに、生きた人がここに座っている気配もない。


 じゃあ、これは何ですの。

 ……いえ。これは、何だ。


 表情は動かさない。けれど内心では――ひっ、と短く息を呑んでいる。

 姿の視えるものより、こういう「気配だけ濃いもの」のほうが、わたしは苦手だ。


 見えないぶん、想像が勝手に走り出す。



「この席な」


 刑事さんが続けた。


「去年まで、ひとりの学生がいつも座っとった席なんやと」


「いつも、同じ席に?」


「そう。几帳面な子でな。一限でも、いちばんに来て、ここに座る。窓際の、後ろから三列目」


 わたしはもう一度、ノートの文字を見た。

 丸い、几帳面な字。一字も乱れていない。


 さっき念から拾った「飢え」と、同じ手つきだ。


「その子は、今は」


「家の事情で、休学した。去年の冬や。……それきり、戻ってきてへん」


 家の、事情。

 その四文字が、やけに耳の奥に残った。



 ノートを閉じようとして、最後のページで指が止まった。


 日付が振ってある。来週の、月曜。――まだ、来ていない日付だ。

 そこには、来週の講義の内容が、すでに書かれていた。


 板書も、教授の雑談も。

「来週は休講にするか迷っている」と書いたその人が、まだ口にしてもいない来週の話が、几帳面な丸い字で、もう、待っている。


「……刑事さん」


 わたしは、つとめて平らな声を出した。


「この講義の先生、来週、休講にします?」


「いや、聞いてへんけど……なんで」


 わたしは答えなかった。

 答える代わりに、もう一度だけ、最後の行に指を触れた。


 念は、まだ温かい。死者のものではない、温かい念が、来週その人が話すはずの言葉を、もう、ここで待っていた。


 死んでいないのに、ここにいる。――それが、いちばん、こわい。


真琴( 一一) あれ?コンビニは?


少し難しめの“お仕事もの”は、noteにまとめてあります。


〈働く人間の物語〉→ https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e

(・_・;)

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