第1話 空席のノート(前編)
三十分、戻らない相談屋。その間に、結界が
待ち合わせは、講義棟の裏手だった。
最後の講義を終えて自転車置き場へ歩いていくと、街灯の手前に見覚えのある背広が立っている。
先日の夜、電話をかけてきた私服の刑事さんだ。
昼の光で見ると、思っていたよりくたびれたコートを着ていた。
「悪いね、講義終わりに」
「短時間で終わるなら、お受けしますわ。……いえ、受けます」
わたしは小さく舌打ちして言い直した。
「明日は一限から実験ですので。寝不足は、肌に出ますから」
刑事さんは曖昧に笑った。
十九の小娘が真顔で報酬と睡眠時間の話をするのに、まだ慣れていないらしい。
コートの肩に、粉っぽい白いものがうっすら付いている。チョークの粉だ。
ついさっきまで、黒板のある部屋で誰かと話していた。たぶん、今から行く場所の主と。
「報酬は、ちゃんと出るんですよね」
「出る出る。大学の、まあ……研究室の自腹やけどな」
研究室の自腹。つまり、警察の正式な案件ではない。
表に出せない、誰かの私的な困りごとだ。
わかってはいたけれど、念のため言質は取っておく。
すれているのではない。お金がないだけだ。
◆
通されたのは、百人は入りそうな大講義室だった。
夜の講義室というのは、どうしてこう、昼と別の生き物になるのだろう。
長机が段になって下りていき、いちばん下に黒板と教卓。
蛍光灯は半分だけ点いていて、点いていない側の席は、薄い藍色の闇に沈んでいる。
「これなんやけどね」
刑事さんが指したのは、後ろから三列目、窓際のひと席だった。
その机の上に、ノートが一冊、きちんと置かれている。
よくある、罫線の入った安物の大学ノート。表紙には何も書かれていない。
けれど角はひとつも折れておらず、机の縁ときっちり平行に、定規でも当てたみたいに真っ直ぐ置かれていた。
誰かが、とても丁寧に置いたのだ。
「毎週なんや。月曜の朝に来ると、この席にノートが増えとる。中身が、な」
わたしは手袋を嵌めてから、ノートに指先を触れた。
――ぞわり。
指の腹から、何かが昇ってくる。書いた者の念だ。
紙には、書き手の心が薄く染みつく。墨より深い層に、たいていは本人も気づかないまま。
わたしは、その層を読める。
几帳面。律儀。それから――飢え。
学びたい、という、焦げつくような飢えだ。
息を整えてから、ノートを開いた。
ぎっしりだった。几帳面な、丸い文字。一字も乱れていない。
書いてあるのは、この大学の講義の内容だった。それも、板書をただ写したのではない。
教授がついでに零した雑談――先週の学会で食べた蕎麦がまずかった、来週は休講にするか迷っている、そういう、ノートに取る必要のないことまで、全部、丁寧に書き留めてある。
「カメラには?」
わたしは訊いた。
「映らへん。廊下のも、講義室のも。誰も入っとらん。なのに、増える」
誰もいない部屋で、誰かが、講義を受けている。
「学生の幽霊やろか」
刑事さんが、声を落とした。
わたしは答えなかった。――違う。
さっき指先が拾った念には、死の匂いがしなかった。
死んだ人間の念には、必ず、冷えて湿った匂いが混じる。これには、それがない。
なのに、生きた人がここに座っている気配もない。
じゃあ、これは何ですの。
……いえ。これは、何だ。
表情は動かさない。けれど内心では――ひっ、と短く息を呑んでいる。
姿の視えるものより、こういう「気配だけ濃いもの」のほうが、わたしは苦手だ。
見えないぶん、想像が勝手に走り出す。
◆
「この席な」
刑事さんが続けた。
「去年まで、ひとりの学生がいつも座っとった席なんやと」
「いつも、同じ席に?」
「そう。几帳面な子でな。一限でも、いちばんに来て、ここに座る。窓際の、後ろから三列目」
わたしはもう一度、ノートの文字を見た。
丸い、几帳面な字。一字も乱れていない。
さっき念から拾った「飢え」と、同じ手つきだ。
「その子は、今は」
「家の事情で、休学した。去年の冬や。……それきり、戻ってきてへん」
家の、事情。
その四文字が、やけに耳の奥に残った。
◆
ノートを閉じようとして、最後のページで指が止まった。
日付が振ってある。来週の、月曜。――まだ、来ていない日付だ。
そこには、来週の講義の内容が、すでに書かれていた。
板書も、教授の雑談も。
「来週は休講にするか迷っている」と書いたその人が、まだ口にしてもいない来週の話が、几帳面な丸い字で、もう、待っている。
「……刑事さん」
わたしは、つとめて平らな声を出した。
「この講義の先生、来週、休講にします?」
「いや、聞いてへんけど……なんで」
わたしは答えなかった。
答える代わりに、もう一度だけ、最後の行に指を触れた。
念は、まだ温かい。死者のものではない、温かい念が、来週その人が話すはずの言葉を、もう、ここで待っていた。
死んでいないのに、ここにいる。――それが、いちばん、こわい。
真琴( 一一) あれ?コンビニは?
少し難しめの“お仕事もの”は、noteにまとめてあります。
〈働く人間の物語〉→ https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e
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