最終話 ただいまを言う場所
誰にも言えない一人きりの調査。井戸の底に、小さな声
三か月後。
わたくしは、四国の小さな病院にいた。
消毒液の匂い。
白い廊下。
開いた窓から、蝉の声が入ってくる。
あの村へ行ったときは、梅雨の途中だった。
季節だけが、何もなかったように進んでいる。
「大津さん」
看護師に呼ばれ、病室へ入る。
片桐奈緒さんが、ベッドの上で身体を起こしていた。
髪は短く切られている。
喉には、まだ細い管の跡が残っていた。
「こんにちは」
声をかける。
奈緒さんは、ゆっくりこちらを見る。
「……ま、こと」
一区切りずつ、確かめるように呼んだ。
「はい。真琴です」
自分の名前を呼ばれるだけで、胸が熱くなる。
奈緒さんの声は、完全には戻っていない。
右手も、うまく動かせない。
夜になると、犬のように床で眠ろうとすることがある。
それでも、少しずつ人の暮らしを覚えている。
「今日は、どちらがよいですか?」
椅子と、床を指す。
奈緒さんは椅子を見た。
次に床を見る。
しばらく迷い、床を指した。
「分かりました」
わたくしも床へ座る。
病院では、なるべく椅子へ座らせようとしていた。
人へ戻すために。
でも、床が安心する日もある。
戻るとは、昔と同じになることではない。
「ご家族から、お手紙を預かっています」
奈緒さんの身体が固くなる。
「読みますか?」
すぐには答えない。
やがて、首を横へ振った。
「では、こちらへ置いておきます」
棚の上に封筒を置く。
会うことも、読むことも、本人が決める。
そのための時間はある。
「ほかの方は?」
奈緒さんが尋ねた。
「全員、生きています」
四十七人のうち、十二人は退院した。
家族のもとへ戻った者は七人。
一人暮らしを選んだ者が二人。
同じ経験をした者同士で暮らし始めた者が三人。
残りは、まだ病院や支援施設にいる。
声が戻らない人。
四つん這いでなければ眠れない人。
肉を食べられない人。
反対に、生の肉しか受けつけない人。
人の顔を怖がる人もいる。
全員が、元どおりにはならなかった。
「雅人さんは、昨日、弟さんと会いました」
奈緒さんが目を見開く。
「食べろと命じられた弟さんです」
「会え、た?」
「五分だけ。お二人で決めたそうです」
何を話したのかは聞いていない。
話せなかったかもしれない。
それでも、五分間を二人で選んだ。
「また来ます」
立ち上がる。
奈緒さんが、わたくしの袖をつかんだ。
指先に、少しだけ犬の爪が残っている。
「ありがとう」
「わたくし一人では、何もできませんでした」
「でも」
奈緒さんは、苦労して言葉を続けた。
「名前、呼んだ」
わたくしは、頭を下げた。
「また呼びに来ます」
病院を出ると、駐車場で黒瀬様が待っていた。
黒い狩衣ではない。
灰色の背広。
どう見ても、暑そうだった。
「経過は?」
「ご自分で会ってください」
「私は嫌われている」
「当然です」
「おまえは、はっきり言うようになったな」
「前からです」
黒瀬様は、分厚い封筒を渡した。
霊災対策室の調査報告書。
犬神村の事件。
大津家と旧対策室による術の運用。
四十七人への補償。
すべてが記録されている。
「公開されるのですか?」
「一般には、集団監禁事件として発表される」
「怪異の部分は?」
「非公開だ」
「それでは、また隠すことになります」
「人を犬に変えたと公表して、四十七人を見世物にする気か?」
言い返せなかった。
公表すれば正しいとは限らない。
「本人たちには、全記録を開示する」
黒瀬様が続ける。
「公開するかは、本人たちが決める」
「分かりました」
「納得した顔ではないな」
「納得と同意は別です」
「面倒な女だ」
「よく言われます」
対策室は解体されなかった。
佐伯主任も処分を受けたが、辞めてはいない。
内部資料の改ざんを、自分の名前で報告した。
いまは、収容者の外部審査制度を作っている。
すぐに組織が変わるわけではない。
けれど、名前のない委員会ではなくなるらしい。
「大津宗一郎の処分も決まった」
封筒の最後に、父の名があった。
陰陽師資格の永久停止。
大津家当主として行った非公開案件の再調査。
母を祓った件も含まれている。
「刑事事件になる可能性がある」
「はい」
「助けないのか?」
「弁護士は紹介しました」
「娘として、ではなく?」
「娘だからこそ、罪をなかったことにはしません」
父とは、まだ一度しか会っていない。
謝罪も聞いた。
すぐには許せないと伝えた。
次は、母の話を聞く約束をした。
生きていれば、続きを話せる。
「おまえの処分は、資格停止六か月だ」
「随分、軽いですわね」
「不満か?」
「大津家の資格を、続けるつもりはありません」
割れた銀札は返していない。
もう必要ない。
「では、何になる」
「大学生へ戻ります」
「それだけか」
「大切なことです」
休んだ講義。
提出していない課題。
家賃。
生活費。
怪異より、そちらのほうが恐ろしい。
「それと」
封筒を抱える。
「資格のいらない相談を受けます」
「無許可の陰陽師か?」
「視て、話を聞くだけです」
「金は取るのか」
「もちろんです」
「誰に似たんだ」
黒瀬様が、遠くを見る。
たぶん、慈恩様を思い浮かべている。
やめてほしい。
「では、失礼します」
「村へは行かないのか?」
「最後に寄ります」
病院から、山道を一時間。
廃村の入口には、新しい柵ができていた。
立入禁止ではない。
《ひなた保護区域》
坂東先生が立てた看板だ。
神社は取り壊されていない。
地下の穴だけを埋め、拝殿は休憩所へ変えられた。
縁側で、美咲さんが本を読んでいる。
少し離れた場所で、隼くんが宿題をしていた。
二人は親戚の家へ戻らず、坂東先生の寺で暮らし始めた。
姉弟だから一緒にいるのではない。
いまは、二人とも一緒にいたいと決めたからだ。
「真琴さん!」
隼くんが手を振る。
「走ると転びますよ」
「転ばないよ!」
言った直後、石につまずいた。
美咲さんは立ち上がりかけて、止まった。
隼くんが自分で起きるのを待つ。
隼くんは膝の土を払い、笑った。
「大丈夫」
「そう」
それだけだった。
「ひなたは?」
「裏山です」
美咲さんが答える。
「朝から帰ってきません」
「捜さなくてよいのですか?」
「帰ると決めたら、帰ってきます」
強くなった。
待つことと、縛ることを分けられるようになった。
拝殿の中には、小さな地蔵が置かれている。
最初の女の子は、坂東先生の地蔵堂にいる。
まだ名前は決めていない。
毎日、先生と少しずつ話している。
ひなたには会っていない。
ひなたが、まだ会いたくないと決めているからだ。
大津家の鏡は、京都の博物館へ寄託された。
展示はされていない。
まず、四十七人と母の記録を調べている。
いつか公開するかもしれない。
しないかもしれない。
それも、急いで決めることではない。
「真琴さんは、今日帰るんですか?」
「はい。明日は講義がありますので」
「また来る?」
「依頼料をいただければ」
「お金取るの?」
「わたくしも生活があります」
美咲さんが笑った。
初めて見る、普通の笑い方だった。
夕方まで待ったが、ひなたは戻らなかった。
会えないまま帰ることにする。
少し寂しい。
でも、呼び戻さない。
村の入口まで歩く。
後ろから、大きな足音がした。
振り返る。
白い犬が、山道を駆けてくる。
口に、何かをくわえていた。
わたくしの前で止まり、足元へ置く。
小さな木の実。
山で拾ったらしい。
「くださるのですか?」
ひなたは頷いた。
木の実を拾う。
「ありがとうございます」
「かえる?」
「はい」
「どこへ?」
大津家ではない。
父のところでもない。
大学近くの、小さな部屋。
冷蔵庫には、もやししかない。
洗濯物も、たぶん干したまま。
「わたくしの家へ」
「そう」
ひなたは、それ以上聞かなかった。
ついても来ない。
日の当たる村に、自分で残る。
「また来ます」
「まってない」
「え?」
「ぼくの、じかん、すごす」
以前、わたくしが言った言葉だ。
「はい。それで結構です」
ひなたの頭を撫でる。
今度は、先に聞かなかった。
ひなたが鼻先で手を押し返す。
「ご、ごめんなさい」
「いまは、いい」
許してくれたのではない。
いまは触られたくない。
それだけだ。
手を離す。
ひなたは山道の真ん中に座り、わたくしを見送った。
◇
京都へ着いたのは、夜だった。
駅から歩き、古いアパートの階段を上る。
鍵を開ける。
暗い部屋。
熱のこもった空気。
干したままの洗濯物。
見慣れた、狭い玄関。
誰も待っていない。
それでも。
「ただいま」
声に出した。
部屋の奥で、何かが動いた。
桃木剣へ手をかける。
台所から、慈恩様が顔を出した。
「おかえりなさい」
「なぜ、いらっしゃるのですか!」
「冷蔵庫が空だったので、食材を入れておきました」
「勝手に入らないでください!」
「鍵、開いてましたよ」
「嘘です!」
「細かいことは、いいじゃないですか」
「よくありません!」
慈恩様の後ろには、坂東先生から届いた段ボール。
野菜。
米。
奈緒さんが初めて書いたという、短い手紙。
父からの封筒もあった。
今日は開けない。
明日でもいい。
慈恩様を追い出してから、窓を開ける。
夜の風が入ってきた。
机の上には、大学の課題が山になっている。
その隣へ、村の失踪者名簿を置いた。
四十七人。
すべての名前に、生存の印がついている。
元どおり、という印ではない。
解決、という印でもない。
今日も生きている。
ただ、それだけの印。
わたくしは、新しいノートを開いた。
最初のページへ、自分の名前を書く。
大津真琴。
家を継ぐための名前ではない。
誰かに選ばれるためでもない。
これから、自分で使う名前。
その下へ、一行だけ書いた。
――人には、帰る場所を自分で決める権利がある。
窓の外で、遠く犬が鳴いた。
今度は、怖くなかった。
井戸の底に、小さな声。救出は、間に合うか。
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