第21話 もう、誰も選ばない
迷子の観光客を演じながら、彼が本当に見ていたもの。
老人の指が、隼くんへ向いた。
「次は、その子だ」
鏡から黒い糸が伸びる。
美咲さんが弟の前へ出た。
「私にして」
黒い糸が止まる。
「美咲さん!」
「隼は、まだ子どもです」
「あなたもです」
「私は、お姉ちゃんだから」
また、その言葉だ。
地下室の空気が冷える。
老人は笑った。
「よい姉だ」
褒められた美咲さんの顔から、血の気が引いた。
黒い糸が、隼くんから美咲さんへ向きを変える。
「美咲さん。先ほど決めたことを思い出してください」
「でも」
「弟を守るためなら、自分はどうなってもよいのですか?」
「そうでは、ないけど」
「わたくしも、同じことをしました」
父の代わりに村へ行った。
四十七人のために、自分から収容車へ乗った。
自分で選んだつもりでも、術はそこへ入り込む。
「誰かのためなら、自分を差し出してよい。その考えが、器を作ります」
美咲さんの足が震える。
「では、隼をどうすれば」
「隼くんへ聞きましょう」
男の子を見る。
「あなたは、美咲さんに代わってほしいですか?」
「いや」
「自分が器になりますか?」
「いやだ」
隼くんは、美咲さんの服をつかみかけた。
手を止める。
一歩分の距離を保ったまま、老人を見る。
「ぼくは、どっちも選ばない」
黒い糸が弾けた。
老人の笑みが消える。
「子どもに決められることではない」
「ぼくのことだよ」
隼くんの声は震えていた。
「ぼくが決める」
老人が鏡から、もう一歩出る。
床へ触れた足は、黒い煙でできていた。
「大津家が決める」
「大津家なら、ここにいる」
父が、わたくしの腕から離れた。
壁へ手をつき、自分の足で立つ。
「宗一郎」
老人が呼ぶ。
「娘を差し出せ。家を残せ」
父の顔が歪む。
何十年も従ってきた声なのだろう。
当主になった日から。
母を祓った夜も。
わたくしを遠ざけた日も。
「家を残すことが、当主の役目だ」
老人が続ける。
父は、わたくしを見た。
「真琴」
「はい」
「私は、大津家を終わらせる」
その言葉に、胸が痛んだ。
生まれた家。
嫌いだったしきたり。
それでも、庭も、廊下も、母の部屋も、わたくしの一部だ。
「おまえに当主は継がせない」
「女だからですか?」
「人を器にする家だからだ」
初めて、父は家より娘を選んだ。
違う。
娘の代わりに自分を差し出したのでもない。
自分が当主として、家を終えると決めた。
「同意します」
わたくしは答えた。
老人の身体に、ひびが走る。
「大津家は千年続いた」
「長く続いたことと、正しいことは別です」
「怪異を管理する者が必要だ」
「管理ではなく、話を聞く者が必要です」
「犬にか?」
「犬にも、人にも」
ひなたが、わたくしの横へ立った。
老人へ牙を見せる。
けれど、飛びかからない。
「おまえを神にしてやった」
老人が、ひなたへ言う。
「ぼくは、ひなた」
短い返事。
老人の右腕が崩れた。
「佐伯」
今度は、佐伯主任を見る。
「国は、力を必要としている」
「あなたは、国ではありません」
「対策室の始祖だぞ」
「いまの対策室に、あなたの席はない」
佐伯主任は身分証を床へ置いた。
管理印を靴で踏む。
「佐伯香苗個人として、本件の封印継続を拒否します」
老人の左腕も崩れた。
身体を保っているのは、鏡へ残る上半身だけ。
「拒めば、怪異があふれる」
「そうならないため、全部燃やしてきたのでしょう」
佐伯主任の声は静かだった。
「その結果が、四十七人です」
老人の顔が裂ける。
中に無数の目があった。
歴代の当主。
対策室の役人。
村の八家。
誰かを選んできた人々の目。
「おまえたちも選ぶ」
何百もの声が重なる。
「守れる人数には限りがある」
「救えぬ者は切り捨てる」
「いつか、必ず同じになる」
否定できない。
すべての人を救えるとは言えない。
間違えないとも言えない。
「そうかもしれません」
桃木剣を拾う。
「真琴さん、祓うのですか?」
美咲さんが尋ねる。
「いいえ」
鏡ではなく、床へ剣を向ける。
大津家の地下祭壇。
家と対策室をつないできた場所。
ここを壊せば、老人は消える。
だが、怪異を封じた記録も、母の記録も失われる。
都合の悪い過去まで、なかったことになる。
「鏡を持ち出します」
「何?」
老人の声が揺れた。
「あなたを消しません」
「なら、器を選ぶぞ」
「選べない場所へ移します」
坂東先生の地蔵堂。
最初の子どもを預けた、日の入る場所。
老人も同じ場所へ入れるつもりはない。
ただ、人を器にできず、記録として見られる場所は作れる。
「佐伯主任。この鏡を証拠品として押収できますか?」
「対策室が保管すれば、また利用されます」
「公の博物館へ寄託してください」
「何の展示にする気です?」
「陰陽師の歴史です」
老人の顔が歪む。
「やめろ」
「大津家が怪異を管理した歴史ではありません」
鏡の枠へ手をかける。
「人を器にした歴史として」
「やめろ!」
老人が鏡から腕を伸ばす。
黒い爪が、わたくしの顔へ迫る。
ひなたが間へ入ろうとする。
「来ないで!」
わたくしは逃げなかった。
桃木剣も振らない。
老人の目を見る。
「あなたのお名前は?」
爪が、頬の前で止まる。
「大津家初代だ」
「それは役目です」
「対策室の始祖」
「それも役目です」
「陰陽頭――」
「お名前を聞いています」
老人の口が動かない。
家のために生きた男。
国のために人を選んだ男。
役目をすべて外したあと、何が残るのか。
「名前など」
声が小さくなる。
「必要ない」
「だから、人の名前も奪えたのですね」
老人の身体が、鏡の中へ戻り始める。
「わたくしは、あなたを祓いません」
鏡を祭壇から外す。
「名前を思い出すまで、そこで見ていてください」
鏡の表面が黒くなる。
最後に、老人の目だけが残った。
「おまえは、必ず選ぶ」
「はい」
わたくしは答えた。
「それでも、選ばれた方の名前を忘れません」
目が消えた。
鏡は、ただの古い鏡になった。
地下祭壇から、黒い糸が抜けていく。
屋敷中の封印札が、風もないのに剥がれ落ちた。
父が床へ座り込む。
「終わったのか」
「大津家は、終わりました」
「そうか」
父は、天井を見上げた。
悲しそうで。
少しだけ、安心した顔だった。
わたくしも同じだった。
そのとき、玄関のほうで声がした。
「いやあ、終わりました?」
慈恩様が、紙袋を下げて地下へ降りてくる。
「なぜ、ここにいらっしゃるのですか?」
「夕方まで待てなかったので」
「まだ朝です!」
「途中で、お饅頭も買ってきました」
「何をしに来たのです」
「真琴ちゃんを迎えに」
紙袋から、甘い匂いがした。
張りつめていたものが、少しだけほどける。
「帰れますか?」
慈恩様が尋ねる。
父を見る。
美咲さんと隼くん。
佐伯主任。
ひなた。
黒くなった鏡。
「まだです」
終わらせただけでは、帰れない。
四十七人のその後。
母の記録。
大津家がしたこと。
片づけるものが、たくさん残っている。
「では、待ちますよ」
慈恩様は饅頭を一つ、わたくしへ差し出した。
「食べながらで、いいでしょう」
隠し事をすると、語尾が伸びる。本人だけが気づかない癖。
少し難しめの“お仕事もの”は、noteにまとめてあります。〈働く人間の物語〉→ https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e
( ˘ω˘ )




