第20話 娘だから、従わない
ここからしばらく、相談屋・慈恩の視点でお届けします。
「私を祓え」
扉の向こうで、父が言った。
命令だった。
大津家の当主が、陰陽師へ下す命令。
父が、娘へ残す最後の命令。
「お断りします」
「真琴」
「聞こえています」
「術は、すでに心臓へ入った。私が人でいられるうちに祓え」
黒い毛が、扉の下からさらに伸びる。
木を引っかく音。
父の爪だ。
「祓えば、お父様は?」
「死ぬ」
迷いのない返事だった。
「術も消えるのですか?」
「私の中にある分はな」
「すべてではない」
父は黙った。
「わたくしを器にしようとした者は残る。古い対策室の仕組みも残る。お父様だけが死ぬ」
「それで、おまえは助かる」
「また、一人を差し出すのですか?」
扉の向こうで、低い唸り声がした。
人の声か、犬の声か分からない。
「村で、何を見てきたと思っているのです」
「時間がない」
「分かっています」
白い拘束具を佐伯主任へ向ける。
「外してください」
「危険です」
「このままでは、何もできません」
「あなたへ術を移す可能性があります」
「移させません」
「根拠は?」
「わたくしが、拒みます」
佐伯主任は動かない。
美咲さんが、わたくしの隣へ立った。
「私は、拒めました」
まだ犬の毛が残る自分の腕を見せる。
「全部は戻っていません。でも、弟を食べなかった」
「あなたと大津氏では、術の深さが違います」
「深かったら、本人に聞かなくていいんですか?」
佐伯主任の顔が強張る。
十二年前。
自分が逃がした怪異が、家族を殺した。
だから、この人は本人の意思を信じられない。
「佐伯主任」
わたくしは言った。
「外した結果、わたくしが人を傷つけたら、あなたの責任になります」
「そうです」
「外さず、父が死んでも、あなたの責任です」
「脅すのですか」
「いいえ。どちらを選んでも、責任から逃げられないと申し上げています」
組織に渡しても。
命令に従っても。
最後に手を動かした人の責任は消えない。
「わたくしと一緒に、間違えてください」
佐伯主任の目が揺れた。
「助けられるとは、限りません」
「はい」
「あなたも死ぬかもしれない」
「怖いです」
「それでも?」
「一人で正しく失敗するより、皆で考えて間違えます」
佐伯主任は、拘束具へ鍵を差し込んだ。
白い輪が外れる。
指先へ、血が戻る。
「桃木剣も返してください」
「祓わないのでしょう」
「扉を開けるためです」
透明な袋から剣を受け取る。
大津家の家紋へ刃を当てた。
「真琴、開けるな!」
父が初めて叫んだ。
「それは命令ですか?」
「そうだ!」
「でしたら、なおさら従いません」
家紋の中央へ剣を差し込む。
封印の線を読む。
大津家の術と、対策室の術。
二重に見える。
違う。
同じ根から分かれた術だ。
開くためには、どちらかの許可が必要なのではない。
二つを別のものとして扱うのをやめればいい。
「佐伯主任。管理印を」
「何をする気です?」
「大津家の家紋へ重ねます」
「封印が壊れます」
「いま、別々に責任を押しつけ合っているから閉じているのです」
家は国が決めたと言う。
国は家が望んだと言う。
どちらも、自分が扉を閉めたとは認めない。
佐伯主任が身分証を取り出す。
裏面の管理印を、家紋へ押し当てた。
「霊災対策室、佐伯香苗」
初めて、下の名前まで名乗った。
「本封印の開放に同意します」
「大津家、大津真琴」
桃木剣を握る。
「同意します」
二つの印が光った。
扉が、内側へ倒れた。
黒い風が噴き出す。
犬の口が、目の前にあった。
父の身体は、半分以上変わっていた。
顔の右側が黒い犬。
左側だけが人。
牙が、わたくしの首へ迫る。
避けない。
「真琴さん!」
牙が皮膚へ触れる直前。
父の動きが止まった。
黒い前足が、床をえぐる。
「なぜ、逃げない」
「お父様が止めると思ったからです」
「私を信じるな」
「信じていません」
父の人の目が見開かれる。
「ですから、確かめました」
首には、牙の跡がついた。
血は出ていない。
「お父様は、まだ自分で止まれます」
父は、犬の口を両手で押さえた。
「長くは、もたん」
「術を受け入れたとき、何を願いました?」
「おまえを守る」
「それは役目です」
美咲さんが息をのむ。
彼女へ言ったことと同じだ。
「お父様自身は、どうしたいのですか?」
「父親が娘を守るのは当然だ」
「お父様」
「当主が家を守るのも当然だ」
「それ以外を聞いています」
「ない」
「考えてください」
「時間がないと言っている!」
黒い毛が、父の左頬まで広がる。
地下室の奥に、祭壇が見えた。
中央に、大きな鏡がある。
鏡には父ではなく、わたくしが映っていた。
黒い犬の身体。
女の器。
術は、まだわたくしを求めている。
「真琴を渡せ」
鏡から、男の声がした。
「娘一人で、大津家は続く」
父の牙が鳴る。
「黙れ」
「おまえは老いた」
「黙れ!」
「女は視える。器になる。それでよい」
父が、鏡へ飛びかかろうとする。
わたくしは腕をつかんだ。
「誰ですの?」
「大津家の初代だ」
父が答える。
「対策室を作り、犬神の術を村へ移した男」
村の八家が始めた術ではなかった。
大津家が、管理できる怪異として育てた。
人を犬へ変え、命令へ従わせる力。
国が欲しがるはずだ。
「代々、大津家の女を器にする計画だった」
「なぜ、わたくしまで残ったのです?」
「私が、先代の器を祓ったからだ」
「先代?」
父は、目を閉じた。
「おまえの母だ」
母は、わたくしが幼いころに亡くなった。
病気だと聞いていた。
「お父様が、殺したのですか?」
「そうだ」
短い答え。
その声だけが、震えていた。
「だから、今度は自分が死ぬつもりですか?」
「それが償いだ」
「違います」
「おまえに何が分かる」
「分かりません」
父の手を握る。
黒い毛の間に、人の温度が残っていた。
「ですから、生きて話してください」
「許せるのか」
「許すとは言っていません」
ひなたが、わたくしの横へ来た。
白い鼻を、父の黒い手へ近づける。
父は、噛まなかった。
「お母様にしたことも、わたくしを黙らせてきたことも、全部聞きます」
「真琴……」
「生きて、叱られてください」
父の人の目から、涙が一滴落ちた。
「私は」
言葉が途切れる。
「私は、死にたくない」
鏡に、ひびが入った。
初めて父が、当主でも父親でもない望みを言った。
黒い毛が、根元から抜け落ちていく。
牙が縮む。
父の身体が、人へ戻る。
わたくしは父を抱き留めた。
重い。
ひなたよりは、軽かった。
「終わったのですか?」
美咲さんが尋ねる。
「いいえ」
割れた鏡の奥で、誰かが立ち上がった。
古い狩衣を着た老人。
大津家初代。
鏡から、片足をこちらへ出す。
「器が拒むなら」
老人の目が、隼くんへ向いた。
「次を選ぶまでだ」
種明かしの時間。ぐったりの奥で、彼が何を見ていたか。
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