白衣を着る骨 後編
「かして」
わたしの喉で、たくさんが言った。
声はわたしの声なのに、数が合っていない。
合唱の最後の一音だけを、ずっと伸ばしているような声だ。
喉の奥が、少し熱い。
(貸しません)
内心だけは、まだわたしのものだった。
(体は一つです。四十二人では、足りません)
骨の前に立ったまま、わたしの首が傾いた。
足りないことは、向こうも知っていた。
知っていて、欲しがっている。
一つあれば、一人になれる。
六十で埋められて、名前が混ざって、誰でもなくなった。
誰でもないものが、誰かになりたがっている。
恨みではなかった。
欲だ。
恨みなら、話が通じた。
恨みは、相手を覚えている。
欲は、相手を選ばない。
わたしの口が、また開いた。
「ひとりに、なりたい」
言ったのは、たくさんだった。
なりたい、の言い方だけが、ひとりだった。
(無理です)
(あなたがた、六十人ぶん混ざっています)
(一人になるなら、五十九人、捨てることになります)
返事はなかった。
捨てる、という言葉が通じていない。
もう、分けられないのだ。
分けられないものに、順番を教える作法はない。
◆
九字を切るには、唱えないといけない。
喉が、わたしのものではない。
右手も、もうわたしのものではない。
(手が一つしかないのですわ、わたくしは)
舌打ちができない。
(一つしかないんです)
国内で何番目とか、そんな話は、ここでは何の役にも立たない。
速い球を一種類だけ投げられる。
それがわたしだ。
あの人なら、違う手を選ぶのだろう。
選べるだけの手を持っている人なら。
紙の鳥は、まだ骨の前で羽をたたんでいる。
式神は、選べないものを選べない。
「大津さん、これ」
波多野さんが走ってきた。
上履きが廊下で鳴った。
両手に、わたしの鞄。
袋から、桃木の剣が半分出ている。
刀印の代わりだ。
指で結ぶ印を、木に代えて切る。
声の代わりにはならない。
ならないが、所作は残る。
左手が、まだ動いた。
利き手ではない。
握り方も浅い。
木が乾いていて、手のひらが滑る。
それでも、九つ切った。
声を出さずに。
切り方だけで。
一画ごとに、耳の奥が詰まっていく。
五つ目で、喉の熱が引いた。
七つ目で、右手の指が戻った。
戻った指は、まだ白衣を持っていた。
骨の前の空気が、一度たわんだ。
喉から、たくさんが抜けた。
抜けた瞬間、床に膝がついた。
自分の膝だとわかるのに、少し時間がかかった。
息が、やっと自分の間で入った。
喉に、声が戻っていた。
試しに、自分の名前を言ってみた。
一人の声だった。
それだけで、涙が出そうになった。
出さなかった。
◆
骨は、また窓を向いていた。
束は、骨の中にある。
一本を選べない。
選べないものを、一本ずつ納めることはできない。
わたしは封止のテープを出した。
剥がす音が、部屋に大きく響く。
標本の台から、一周。
継ぎ目は上にして貼る。
継ぎ目から入るものが、あるからだ。
骨は外さなかった。
外せば、どれがどれだか、もっとわからなくなる。
護符を貼った。
朱が、少しだけ手についた。
台の四隅と、胸のあたり。
符には、名前を書く欄がある。
空けた。
番号も書かなかった。
書けば、また数になる。
わたしには、名前を作る権利がない。
箱に入れて、蓋をした。
蓋を押さえて、十まで数えた。
中で、何も動かなかった。
動かないほうが怖い、という感じ方がある。
家でいちばん先に覚えたのは、それだ。
箱は、標本室の棚に戻した。
四十二枚の白衣は、そのままにした。
捨てるのは、この人たちの支度を捨てることだ。
◆
「教材が、一体減りますな」
鷺沼先生は、書類にはんを押しながら言った。
押す手は、まっすぐだった。
「減ります」
「学生には、なんと」
「古いので替えた、で足ります」
先生は、はんを持ったまま少し黙った。
「由来の欄は」
「書けるなら、書いてください」
書けるとは言わなかった。
書かないだろう、とも言わなかった。
それは先生の仕事で、わたしの仕事ではない。
わたしは自分の仕事を思い出していた。
一本ずつ、名を呼んで納める。
それができなかったから、まとめて封じた。
六十人を、一つの台で。
(おなじですわね)
言い直さなかった。
「わたくしも、まとめて数えました」
先生が顔を上げた。
わたしは箱の蓋を見ていた。
蓋の木目が、まだ新しい。
「あなたは、書く人ですか」
「……わかりません」
わからないと言う人のほうが、あとで書くことがある。
書いた人を、わたしはまだ見たことがない。
◆
「これ、どのくらい持ちますか」
波多野さんが訊いた。
「十年ほどで、効かなくなります」
「そのあとは」
「誰かが貼り替えます」
「誰が」
「知りません」
わたしは鞄を肩にかけた。
式盤の重さが、来たときより重い。
「そのときの、誰かです」
波多野さんは箱を見た。
それから、自分の右手を見た。
右手は、もう本人の順番で動いていた。
動いたことに、少し笑った。
その笑い方は、まだ怖がっている人の笑い方だった。
「明日から、どうしたら」
「朝、いちばんに来ないでください」
「それだけですか」
「それだけです」
二番目に来る人には、何も起きていない。
起きていたら、もっと早く誰かが騒いでいる。
波多野さんは、少し考えて頷いた。
頷いたあと、棚のほうへ一礼した。
癖になっている一礼だった。
◆
缶コーヒーは二本もらった。
自販機は二台あった。
ひとつは甘すぎて、途中で波多野さんに渡した。
左手の感覚が、夕方まで戻らなかった。
自転車の左のブレーキが、握れない。
坂は、押して下りた。
下宿で箸を落とした。
二回落として、三回目で持てた。
冷蔵庫には、もやしと、卵が一つ。
もやしは、炒める前から少し水が出ていた。
卵は割らなかった。
あしたの朝に残した。
塩をふって、それで終わりにした。
レポートの締切は、あさってだった。
風呂は沸かさなかった。
寝る前に、左手を握ってみた。
握れた。
(明日には戻ります)
(戻らなかったら、家に電話です)
それはいやだ。
早く戻ってほしい。
◆
翌朝、教室に白衣は掛かっていなかった。
骨は箱の中で、窓を向いたままだ。
標本室の棚の、いちばん奥。
奥は、朝でも暗い。
懐中電灯はつけなかった。
数えるのに、明かりは要らない。
棚の埃が、箱の前だけ薄い。
四十二枚の白衣は、まだ積まれている。
わたしは数えた。
癖だ。
四十一枚だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




