白衣を着る骨 中編
標本室は、教室の奥の扉の先にあった。
鍵は事務から借りた。
札のついた鍵で、札の字が消えかけている。
棚が天井まである。
瓶と、箱と、木の台。
瓶のラベルは、どれも手書きだった。
字の癖が三種類ある。
書いた人が三代いる。
空気が、教室より二度ほど低い。
いちばん奥の棚の、下の段に、布が積まれていた。
その段だけ、埃がない。
毎朝、手が触っているからだ。
白衣だった。
畳んで、襟を内側にして、積んである。
わたしは数えた。
癖だ。
人のいる部屋では人を数える。
ここでは、布を数えた。
一枚めくるたび、古い洗剤の匂いがした。
どれも、同じ畳み方だった。
四十二枚。
数え終わって、もう一度数えた。
四十二枚。
「一枚ずつ、持ってきてたんですね」
波多野さんの声が、後ろで揺れた。
「毎朝一枚。それを、ここへ」
持ってきた手は、この人の手だ。
畳んだ手も。
けれど、積み方を決めたのは、この人ではない。
いちばん上の一枚だけ、まだ湿っていた。
今朝の分だ。
干す時間がなかったのだろう。
干す、という言い方がおかしいのは、わかっている。
「大津さん」
「はい」
「一回だけ、止めへんかったんです」
波多野さんは棚を見ていた。
「手が動くの、見てて。おもろいなと思て」
「おもしろい」
「僕の手が、僕より上手に畳むんです。それが、ちょっと」
言い終わらなかった。
言い終わらないほうが、正直な話だ。
わたしは黙っていた。
止めなかった夜を、責める立場ではない。
わたしも、家の手を借りて生きている。
◆
台帳は事務にあった。
紙が厚い。
角が丸くなって、手あかで灰色になっている。
標本の台帳と、解剖体の名簿。
組み立てた標本は、一体分ではなかった。
寄せた骨で、一体の形にしてある。
由来の欄には、寄贈、移管、それに名前のある行が並んでいた。
名前のある行は、頭を下げて読んだ。
この人たちは、名前で載っている。
自分で決めて、ここへ来た人たちだ。
読みながら、家の名簿を思い出した。
うちの名簿にも、番号だけの行がある。
子どものころ、あれを数えるのが好きだった。
好きだったことが、いまは少し、いやだ。
一行だけ、由来が空いていた。
番号だけ。
出土、と書いてある。
「造成のときに出た骨です」
鷺沼先生は、教授室の椅子から立たなかった。
書棚の前に、湯呑みが二つ置いてある。
片方は、ずっと洗われていない。
「大学が建つ前の話ですよ。戦争のあとの整理で、こっちへ回ってきた」
「記録は」
「残っていません。当時のことは、誰も」
「洗い直すと、何が出ますか」
先生は答えなかった。
答えない人は、たいてい知っている。
先生は湯呑みを置いた。
「教材ですから」
教材ですから、と言う声は、冷たくなかった。
毎年、手を合わせている人の声だった。
その同じ手が、由来の欄を空けたままにしている。
(便利です。教材、という言葉は)
言わなかった。
言うのは後でいい。
◆
箱は棚の下にあった。
標本の台と一緒に来た箱で、台帳には載っていない。
蓋が反っていて、開けるのに両手を使った。
底に、布の袋が入っていた。
紐が固い。
結び目が、ほどいた跡のないまま古くなっている。
中身は銭だった。
小さくて、黒くて、真ん中に穴がある。
縁が、どれもすり減っていた。
手のひらに載せると、思ったより軽い。
わたしは並べた。
十八枚。
(十八枚)
(六十人で、十八枚)
足りない数を、その場の誰かが決めたのだ。
手の中にある分だけ配った。
配った人を責める気にはならない。
穴を掘る側も、同じ日にそこにいた。
「これも出土品ですか」
「聞いていません」
わたしは銭を見た。
家の言い伝えでは、死んだ人には銭を持たせる。
渡るのに要るからだ。
言い伝えだ。
本当かどうかは、わたしも知らない。
ただ、持たせる側の気持ちは、わかる。
手ぶらで行かせたくない。
うちでも、祖母が小銭を包んでいた。
包んで、だれにも見せずに置いていた。
見せないのが作法だと言っていた。
◆
式盤を出した。
家から持ってきた道具の中で、いちばん重い。
鞄に入れると肩が下がる。
方位を割って、古い順に並べる。
念の束は、たいてい年ごとにずれて並ぶ。
古いものが奥、新しいものが手前。
段になる。
段を見てから、端の一本を選ぶ。
並べた。
盤の目に、指で順を送る。
一つ送って、待つ。
もう一つ送って、待つ。
段になるのを待った。
待っても、段にならない。
並ばなかった。
全部が、同じところに来た。
同じ日だ。
六十人ぶんが、同じ日に、同じ穴に入っている。
だから一本を選べない。
誰の右手で、誰の左手かが、もうわからない。
名前がないのではなかった。
名前が、混ざっている。
わたしは銭を見た。
十八枚。
六十のうち、十八人だけ持たされた。
残りは。
四十二。
棚の枚数と、同じだった。
(一人に一枚あれば、渡れる)
(だから、自分で用意していたのですわ)
布を。
銭の代わりに。
畳んで、積んで、四十二枚。
四百年、集めて、四十二枚。
数えたものが、人の数になった。
布が、人の数になった。
こういうことが、いちばん怖い。
◆
呼ぶつもりだった。
番号でいい。
名がないなら、番号で呼んで、一本ずつ引き離して、順に納める。
それが家の作法だ。
教わるとき、祖母は「急がんこと」と言った。
わたしは口を開いた。
呼ぶ前に、右手の指が一本、動かなくなった。
人差し指だ。
痛みはない。
冷たくもない。
式盤の上で、そこだけ木のようになった。
呼ぶ必要は、なかった。
入り口は、朝から開いていた。
こちらを向いた首は、そのための挨拶だ。
(うそでしょう)
(待って、待ってください、まだ何も)
手のひらが開いた。
わたしの順番ではなかった。
右手が、棚の白衣を一枚取った。
膝の上で、襟を内側にして、畳んだ。
丁寧だった。
わたしの手より丁寧だった。
「大津さん」
波多野さんの声が遠かった。
立ち上がったのは、わたしの足だ。
歩いたのも、わたしの足だ。
足音の間が、わたしのものではない。
半拍、遅い。
廊下が、来たときより長い。
瓶のラベルが、横を過ぎていく。
三種類の字が、順に過ぎた。
自分の足で歩いているのに、景色だけが人ごとだ。
行き先を選んだのは、わたしではない。
骨の前まで来て、止まった。
白衣を、胸のあたりに載せた。
供えるように。
それから、わたしの口が開いた。
「かして」
声が、重なっていた。
ひとりではなかった。




