白衣を着る骨 前編
骨に、白衣が掛かっていた。
畳んで、襟を内側にして。
掛けた人は、いない。
◆
電話は、朝の八時に鳴った。
下宿の電話は枕元にない。
廊下の壁にある。
冬でなくても、朝の板は冷たい。
「大津さん。白衣って、盗みますかね」
私服の刑事さんは、いつも用件から話す。
「値段によります」
「値段はつきません。十年以上前の型です」
わたしは受話器を持ち替えた。
窓の外は、まだ薄い。
電線に雀が三羽いた。
「毎朝、一枚ずつ減ってるんですよ。倉庫の在庫が」
「減った先は」
「骨に掛かってます」
わたしは背を伸ばした。
「報酬は」
「交通費と、缶コーヒー二本」
「二本」
「自販機が二台あるんです」
安い。
受けた。
家賃の前では、缶コーヒー二本も二本だ。
自転車の鍵を探すのに、五分かかった。
鍵は炊飯器の横にあった。
なぜ。
坂を下って、橋を渡って、北の門から入った。
朝の構内は、人より鳥が多い。
部の立て看板が、夜の雨で反っている。
医学部の棟は、いちばん奥にある。
着くまでに、缶コーヒー二本の価値を三回考えた。
◆
医学部の建物は、ほかの棟より天井が高い。
廊下が長い。
床の艶が、途中から変わる。
増築の継ぎ目だと、あとで聞いた。
消毒の匂いと、古い木の匂いが半分ずつ。
換気扇が、どこかで低く回っている。
止まらない音は、しばらくすると聞こえなくなる。
聞こえなくなってから、また気づく。
解剖学教室の隅に、骨が立っていた。
組み立てた標本だ。
金具の台に載って、片腕を少し前に出している。
その骨に、白衣が掛かっていた。
肩からではない。
畳んだものを、胸のあたりに載せてある。
供えるように。
「これを、毎朝」
「毎朝です」
刑事さんが手帳を開いた。
「学生の悪戯だと思うんですがね」
「倉庫の鍵の話ではありません」
わたしは白衣に顔を近づけた。
糊のにおいがしない。
洗って、干して、そのまま畳んだ布のにおいがする。
襟の型が古い。
名札を留めていた糸のあとが、二つ残っている。
「古い型の在庫が、どこの棚にあるか。それを知っている人が何人いますか」
「……三人ですね。掃除の担当と、教室の長と、事務」
「では悪戯の線は、いちばん単純ですけれど、いちばん人が足りません」
刑事さんが手帳を閉じた。
閉じるとき、少しだけ残念そうな顔をする。
単純な線が好きな人だ。
わたしも好きだ。
通ったことは、あまりない。
わたしは骨を見た。
骨は、部位ごとに色が違った。
右の腕はやや黄色く、左の腕は白い。
肋のあたりは灰色に近い。
継ぎ目に細い針金が通っている。
巻き方が場所ごとに違う。
組んだ人が、何人かいたのだろう。
前歯が二本欠けていた。
欠けた縁が丸い。
長いあいだ、こすれてきた形だ。
左の腕だけ、ほかより白い。
土のつかない場所に置かれていたのだろう。
その腕が、ここで左に使われている。
誰かの左ではなく、この標本の左として。
(同じ人の体では、ないですわね)
舌打ちした。
(ないですね)
◆
掃除の担当だった人は、三年前に辞めていた。
電話番号は事務が持っていた。
事務の人は、番号を書いた紙を伏せて渡した。
伏せて渡す人だった。
それだけで、少し気が楽になった。
「ああ、あれ、わし掛けてましたわ」
国分さんという人の声は、思ったより元気だった。
「掛けていた、理由は」
「理由て。裸で立ってはるんやもん」
受話器の向こうで、湯を注ぐ音がした。
「寒そうやん」
「寒そう」
「そら寒そうやろ。冬は窓際やで、あれ」
骨に、寒いという感覚はない。
あるとしたら、掛けた人の側にある。
「あれ、誰かの体やから」
誰か、と言った。
誰々さん、とは言わなかった。
「辞めてから、掛けに行かれたことは」
「ないない。行けませんやろ、部外者やし」
「一度も」
「一度も。あんな、鍵のいる部屋やもん」
礼を言って切った。
受話器を置いた手が、少し汗ばんでいた。
これで、いちばん単純な線が消えた。
三年前に辞めた人の習慣が、三年ぶん続くことはない。
教室に戻ると、刑事さんが骨に軽く頭を下げていた。
「癖ですか」
「いや……なんか、見られてる気がして」
正しい感覚だ。
言わなかった。
◆
朝いちばんに教室へ来るのは、波多野さんという院生だった。
白衣の袖が、両方とも短い。
背が高い。
目の下に、寝ていない色がある。
「僕です」
最初の質問で、そう言った。
「掛けているのは、僕です」
「なぜ」
「わからないんです」
波多野さんは自分の右手を見た。
見る目つきが、他人の手を見る目つきだった。
「気がついたら、畳んでるんです」
「覚えていないのですか」
「覚えてます。それが、いやなんです」
手が動く。
自分の手が、自分の順番で動いていない。
止めようとすると、指が遅れて動く。
全部見えているのに、止まらない。
「先生には」
「言いました。疲れてるんやろって」
そう言われた人の顔だった。
わたしは畳まれた白衣を持ち上げた。
布は、思ったより重い。
襟が、内側に折り込まれている。
「この畳み方は、どなたに教わりました」
「……教わってません」
見て覚える畳み方だ。
これは、布を人に掛けるときの手つきだ。
死んだ人に。
家で何度も見た。
祖母の手つきが、いちばん速かった。
◆
式札を一枚出した。
紙は薄い。
朝の湿気で、少しやわらかくなっている。
波多野さんの手のそばで指を切ると、札が紙の鳥になって、手首のあたりで止まった。
緒が見えた。
一本。
細い。
向きが、逆だった。
念の緒は、たいてい人から物へ伸びる。
残したい人が、残したい物へ手を伸ばすからだ。
この一本は、物から人へ入っていた。
(入られている)
(それも、朝のいちばんに来る人から)
鳥に辿らせた。
緒は骨へ戻った。
骨のところで、束になった。
一本で終わらなかった。
何本あるのか、数えられない。
紙の鳥が、骨の前で止まって、羽をたたんだ。
辿る先を選べないときの止まり方だ。
こんな止まり方は、はじめて見た。
呼び戻すと、鳥は羽の先から紙に戻った。
戻り方が遅い。
嫌がっている。
「大津さん」
刑事さんが小声で言った。
「その骨、朝は、どっち向いてました」
わたしは覚えていた。
入ったとき、骨は窓を向いていた。
いまは、こちらを向いている。
台は動いていない。
床の埃に、車輪のあとがない。
首だけが、こちらにある。
「――こちら、もう見られていますわ」
舌打ちした。
「……見られています」




