落ちたあと
志津子さんは、初対面のときと寸分違わぬ姿勢で、応接間の革張りのソファに腰掛けていた。
ローテーブルの上には、わたしが集めてきたすべての証拠が並べられている。
夜間鍵貸出簿の写し。四枚のメモのコピー。四年前の事故を報じた新聞縮刷版。
「あの雨の夜の出来事を、時系列順に伺います」
志津子さんは静かに首肯した。
庭の濡れ縁を叩く雨音が、重く室内に響いている。
研究棟一階の薄暗い廊下で、三人は鉢合わせしたのだという。
待ち伏せていた遠山遥。研究室から出てきた槇村教授。そして、傘を手に追ってきた志津子さん。
口論を恐れた教授に促され、三人は通用口から外へ出た。
そこが、あの石段の最上段――踊り場だった。
「彼女は、夫に詰め寄りました」
志津子さんは感情を交えず、淡々と当時の光景を再現した。
「『今日、奥さんに別れるって話してくれる約束でしたよね』と」
わたしはペンの動きを止めた。
「ご主人は何と」
「『そんなことは言っていない』と答えました」
研究室で、わたしに向かって言い放ったのと寸分違わぬ言葉だった。
四年前のあの日から、あの男が用意している防壁は、ただこの一言に尽きるのだ。
取り乱した遠山さんがさらに詰め寄った。
惨状を見かねた志津子さんが二人のあいだに割って入ろうとした。
鬱陶しそうに、教授が腕を乱暴に払った。
その直後の光景だけが、妻の記憶の中でも曖昧に揺らぎ、食い違っている。
「夫が突き飛ばしたのか、それとも、すがりつこうとした彼女の腕を振りほどいただけだったのか」
志津子さんは手元の冷めた湯呑みを見つめたまま、低く呟いた。
「わたしには……今でも分かりません」
豪雨に打たれて滑りやすくなっていた花崗岩。暗闇。差しかけた傘。
故意に突き落としたのであれ、拒絶して振り払ったのであれ、あの狭い足場では、どちらの結果であっても人間はあっけなく滑落する。
◆
教授室のデスクを挟み、わたしはパイプ椅子を勧められても座らず、立ったまま男を見下ろした。
「奥さまから、あの夜の真相をすべて伺いました」
槇村教授は組んだ指に力を込め、沈黙を守っている。
「あなたが、突き落としたのですか」
「……違う」
初めて、男の口から慇懃無礼な敬語が剥がれ落ちた。
わたしは、その蒼白な顔を見据えた。
「そうでしょうね」
教授の細い肩が、微かに脱力して落ちた。
微かに吐息が漏れる。
この男は、この四年のあいだ、誰かにこの一言を告げてもらう瞬間を、密かに待ち望んでいたのかもしれない。
だが、わたしが放った次の言葉は、男の安堵を根底から打ち砕いた。
「では――彼女が石段を転落した後、あなたは何をしていたのですか」
部屋の空気が、凍りついたように静止した。
机の上で固く組まれた男の指先が、微動だにしない。
◆
救急車への通報時刻は、大学の事故報告書に分単位で記録されていた。
遠山遥が階段から転落したと推定される時刻と、通報が受理された時刻とのあいだには、実に四十分近くの致命的な空白が存在していたのだ。
「その四十分間、あなたは何をされていたのですか」
「……激しく混乱していた」
「覚えていない、とまた仰るのですか」
わたしは手元の紙を机に置いた。
「奥さまは、こう証言されましたよ。『待て、まずい、ここにいたことが公になったらすべてが終わる』――それが、あなたが血を流す教え子を前にして最初に放った言葉だと」
教授の細い喉仏が、上下に大きく波打った。
「混乱していたのではありません。計算していたのです。どうすれば自分が傷つかずに済むか、どうすればこの雨の夜から自分の足跡だけを消し去ることができるかを」
冷徹に告げると、教授の輪郭を覆っていた薄い油膜のような『欠け』が、ピシリと音を立てて罅割れるのが視えた。
怪異を暴くのは呪文ではない。
逃げ場を塞ぐ、ただの事実の連番だ。
「少し……事態を整理する時間が必要だったんだ」
教授が、掠れた声でようやく弁明を絞り出した。
「教員としての立場もあった。家族の体裁もあった。あの極限の状況下で、誰が冷静に最善の行動を選択できるというんだね」
わたしはその醜悪な言い分を、冷徹に噛み砕いた。
瀕死の人間を今すぐ救命するかどうかという生命の選択を、この男は『事態の整理』と呼んでいるのだ。
「彼女には、その四十分を待つだけの余命が残されていなかった。……ただ、それだけのことです」
わたしが口にしたのは、その冷徹な事実だけだった。
通報が早ければ彼女が一命を取り留めていたかどうかなど、医療の門外漢であるわたしには知る由もない。
証明できない不確定な要素で他人を糾弾することは、わたしの流儀ではない。
だが、この男が己の保身のために救命措置を遅延させ、結果として彼女を見殺しにしたという冷厳な事実だけは、何人たりとも動かせない真実としてそこに横たわっているのだ。
◆
教授室を辞したあと、わたしは槇村邸の志津子さんに電話をかけた。
「あの夜、救急車を呼ぼうとされたのですね」
『はい』
「けれど、ご主人の制止に従い、通報を取りやめてしまった」
受話器の向こうから、古びたソファが軋む微かな音が聞こえた。
『主人が……必死の形相で「待て」と叫んだものですから』
「その後の警察の聴取に対し、ご主人は『あの夜は大学にいなかった』と偽証しましたね」
『ええ。そしてわたしも……警察には何も言いませんでした』
言葉が途切れ、重い息遣いが受話器越しに伝わってくる。
わたしは無言で待った。
『……わたしも、なかったことにしたかったのです。夫の不貞も、あの娘の存在も、あの凄惨な夜の出来事も、すべてを最初から存在しなかったことにしたかった……』
罪を責め立てる言葉も、その弱さを許してやる言葉も、わたしは持ち合わせていない。
持ってもいない道徳の道具を、持っているふりをして振りかざすことほど、浅ましく下等な行為はないからだ。
「では、今度は警察の取り調べに対し、ありのままを話してください」
それだけを告げ、わたしは静かに通話を切断した。
◆
夕刻、大学の正門前で寺西剛と合流した。
彼は冷たい雨が降りしきる中、傘も差さずに佇んでいた。
「あんた、あの教授のところへ乗り込んだんやろ」
「ええ、確認を済ませてきました」
わたしは手帳を繰り、あの夜のタイムラインを最終確認した。
寺西が正門をくぐった時刻。石段の死角で待ち伏せていた場所。諦めて引き返した時刻。
下から見上げる位置からは、踊り場での諍いは決して視界に入らない。
「俺が真っ先に疑われたかて、文句は言えん」
寺西さんは濡れそぼった前髪を乱暴に掻き上げた。
「あいつに怒鳴り散らして傷つけたという過去は、一生消えへんのやからな。……せやけど、俺はあいつを突き落としてへん。かといって――」
自嘲するように、彼は薄暗い雨空を見上げた。
「俺がやってへんからいうて、ええ人間になるわけでもないんやろ。あいつを追い詰めた男のひとりに、変わりはないんやからな」
「ええ、その通りです」
わたしは慰めの言葉を一滴も混ぜずに答えた。
善人と悪人に綺麗に切り分けられる人間など、この世のどこにもいない。
彼が遺した罪も、教授が重ねた嘘も、等しくこの雨の中に溶け出して、消えずに残るのだ。
「……達者でな、お嬢ちゃん」
濡れた作業着の背中を丸め、寺西さんは夜の闇へ消えていった。
真実が明らかになったところで、誰も幸せにはならない。
それでも、嘘の上に蓋をして通り過ぎるよりは、わずかにマシだというだけの話だ。
この男が目撃した「通用口から走り去る教授の姿」という証言は、守衛室の鍵貸出簿という動かぬ物証と重なり合って初めて、真実を証明する強度を持つ。
一本の細い糸では自立しない。
だが、二本の糸が交錯した瞬間、四年前の「単独事故」という大学側の欺瞞は、もはや自立できなくなるのだ。
◆
深夜、激しい雨に打たれながら、わたしは石段の下から一段ずつ踏みしめて上った。
六段目。
七段目。
あの日、この場所で積み重ねられた人間の悪意を、ひとつずつ言葉に変換していく。
――そんなことは言っていない。
――その夜は大学にいなかった。
――単なる不運な転落事故だった。
どれもこれも、都合の悪い現実をこの世から『なかったこと』に葬り去るための呪文だ。
転落した生身の人間がいて、その血痕の上に、卑劣な保身の言葉が幾重にも塗り重ねられた。
この石段に淀んでいたのは、死んだ遠山遥の怨念などではない。
関わった人間たちが総出で築き上げた、『なかったことにする』という欺瞞の力場そのものだったのだ。
だからこそ、何も知らずに通り過ぎる無辜の人間に対しては、場所そのものが最初の嘘を強制的にトレースさせ、七段目を踏んだ事実を忘れさせる。
だが、みずからの内面に不都合な事実を隠し持ち、それを『なかったこと』にしようと抗う人間に対しては、その欺瞞に呼応して七段目が異様な欠落を生み出すのだ。
ただひとり、真相を知り尽くしている槇村教授だけが、罪の重みに耐えかねてこの段を踏むことすらできない。
わたしは、石段の頂上に立ち尽くす影に向かって冷然と言い放った。
「忘れてなど、いなかったのでしょう」
槇村教授は、傘を差したまま六段目の手前で硬直していた。
「最初からすべてを鮮明に覚えていたからこそ、あなたはこの七段目を踏むことができなかったのだ」
教授は一言も返さなかった。
傘の柄を握りしめるその指先が、雨の冷気とは異なる激しい震えを刻んでいた。
◆
ふと視線を戻すと、七段目の濡れた石肌の上に、遠山遥が立っていた。
かつてないほどに、その輪郭は克明だった。
雨に濡れそぼった黒髪。当時の学生服。その華奢な左手には、あの四つ折りにされたチラシの裏のメモが握りしめられている。
その顔は、わたしを見てはいなかった。
階下の暗闇に立ち尽くす教授を睨みつけているわけでもない。
「あなたが、人々に忘れさせていたのですか」
問いかけに、返答はない。
返事の代わりに、激しい雨粒が石段を激しく叩きつける乾いた音だけが響いている。
「……いいえ、違いますね」
この霊は、最初から何の呪詛も振り撒いてはいなかったのだ。
交わされた約束と、反故にされた絶望の狭間に取り残されたまま、ただ四年前に命を絶たれたその場所に、亡霊のように立ち尽くしていただけにすぎない。
わたしはこの霊に対し、安易な慰藉の言葉も、復讐の代行も約束しない。
代わりに落とし前をつけてやるなどと口にすれば、それは己の正義感を満足させるための下劣な自己満足に成り下がるからだ。
◆
集められたすべての記録は、現実の法と秩序の側へと引き渡された。
夜間鍵貸出簿の複写。志津子さんの詳細な陳述書。寺西剛の目撃証言。そして、残された四枚のメモのコピー。
大学本部は、当時の死亡事故に関する再調査委員会の設置を正式に決定した。
志津子さんは、弁護士を伴って警察署の生活安全課へ出頭した。
槇村教授もまた、大学当局と捜査機関の双方から、厳しい事実関係の釈明を求められることとなった。
そこまで事態を推し進めたのは、わたしの霊力などではない。
長年隠蔽されてきた事実の綻びが、もはや隠し通せない限界点に達したという、ただそれだけのことだ。
これから先、あの男にどのような法的な罪名が下されるのか、わたしは関知しない。
過失致死が成立するのか、保護責任者遺棄が問われるのか、それとも時効の壁に阻まれるのか。
だが、かつての公式記録から欠落していた決定的な事実だけは、白日の下に晒された。
――遠山遥が転落したその場に、教授とその妻が居合わせていたこと。
――救急車が呼ばれるまでのあいだに、四十分もの冷酷な保身の空白が存在したこと。
もはやこの事件は、ただの『不運な女子学生の単独事故』という嘘の幕引きを許されることはない。
◆
数日後、空はまた冷たい雨を降らせていた。
わたしは研究棟前の石段の前に立ち、傘をしっかりと差し直した。
一段。
二段。
三、四、五、六。
七段目の前で、わずかに息を整えて立ち止まる。
風化した花崗岩の縁は滑らかに丸みを帯び、雨水が幾筋もの線となって流れ落ちていく。
右足を踏み出した。
硬い。
そして、冷たい。
靴底のゴムを介して、濡れた石肌のざらついた感触が、確かな重みとなって足裏へ伝わってくる。
八段目。
最上段まで上りきり、傘を少し上げて振り返った。
七段目の上に、薄墨で描いたような遠山遥の輪郭が揺れていた。
怒りも、悲哀も、感謝すらも浮かべていない。
ただ、自分が確かにそこに存在し、冷たい雨の中で滑り落ちていったという事実そのものを、証人として主張するように立っていた。
瞬きをすると、輪郭は雨粒の乱反射の中に溶けて消えた。
誰の記憶からも消され、歴史の隙間に埋もれかけていた七段目。
わたしは濡れた傘を握り直し、講義棟の薄暗い廊下へと歩き出した。
靴底に残る硬く冷たい感触が、いまはっきりと、わたしの歩みを支えていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




