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京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怪異より先に、人の事情が視えてしまう~  作者: K3/KASANE
階段

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先生と呼ぶ

三枚目の紙片は、茶封筒の底に眠っていた。

遠山さんが亡くなった後、下宿を引き払う際に大学側へ引き渡された遺留品の残りだという。

助手が資料室の棚の最上段から、埃を被った角形2号の封筒を下ろしてきてくれた。

中身は、文献の切り抜きや栞、そして几帳面に折り畳まれた数枚の用紙。

そのうちの一枚の表面を見て、わたしの指先が止まった。

市民向け公開講座のパンフレットだった。

顔写真。教授の肩書。丁寧な研究実績の紹介文。

――槇村泰治教授。市民のための古典文学入門、全三回。


裏返す。

そこには、見慣れた鉛筆の文字が刻まれていた。


奥さんとは別れる

春まで

また延びた

今度こそ話すって


四行。

行と行のあいだが、一枚目のメモよりも明らかに広い。

最後の一行だけ、祈るように文字の角が丸くなっていた。

もう一度、表に返す。

印刷された写真の教授は、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめている。

裏に返す。

――また延びた。

この欺瞞に満ちた一枚を、遠山遥は最期まで捨てることができなかったのだ。



「これ、教授が離婚するて約束した動かぬ証拠やないですか」

助手が興奮したように身を乗り出してきた。

「違います」

わたしは冷然と言葉を返した。

「これは、彼女がそう思い込んでいたという証拠にすぎません」

「え……?」

「教授が実際にそう口にしたという客観的証拠にはなり得ません」

助手がぽかんと口を開けたまま固まった。

「そんな……何もそこまで意地悪な言い方をせんでもよろしいやろ」

「意地悪ではありません。事実の切り分けです」

わたしはコピー用紙の端をトントンと机に打ち付けて揃えた。


紙という媒体は、それを書き記した人間の視点からしか物を語らない。

そして、書いた当人はすでに物言わぬ死者となっている。

だからこそ、この一方的な紙片を武器にして誰かを告発すれば、いとも容易く殴り倒せてしまうのだ。

容易に殴れてしまう脆弱なものを、真実の証拠とは呼ばない。



二度目に訪れた教授室の空気は、前回とまったく同じ温度を保っていた。

わたしが無言で三枚目のコピーをデスクの中央に滑り込ませると、槇村教授は老眼鏡を外し、じっと紙面を見つめた。

「これは……何ですか」

「遠山さんの遺品の中から見つかったメモです。筆跡の照合も済ませてあります」

教授は何も言わず、老眼鏡をかけ直した。


「個人的なお付き合いは一切ない、と仰いましたね」

「男女の恋愛関係という意味では、断じてありませんよ」

ひとつ目の言い換え。

「研究に行き詰まり、精神的に不安定になっていた彼女の相談に乗っていただけです」

「研究室の外でもですか」

「学生の指導であれば、場所を選ばないことも多々あります」

ふたつ目の言い換え。

「木曜の夜に決して連絡を入れさせないという約束も、指導の一環だったのですか」

教授は答えなかった。

窓の外で、古い雨樋がギシギシと軋む音がする。


「奥さまと離婚する、と彼女に告げたのですか」

「言っていません」

この男と対峙して以来、初めて間髪を容れずに否定の言葉が返ってきた。

「では、彼女が一方的に妄想を抱いていただけだと」

「……彼女を、誤解させてしまうような言動があったのかもしれません」

みっつ目の言い換え。


この男は、どれだけ追い詰められても決して声を荒らげない。

激昂して怒鳴り散らす人間のほうが、まだ御し易いのだ。感情任せに吐き散らした言葉は、後から確実に己の首を絞める縄になる。

だが、この男は違う。

絶対に己の首が絞まらない安全な位置にだけ、慎重に言葉を選んで配置していく。

嘘をついた、とは決して認めない。

主語を曖昧に希釈し、すべての責任を『彼女の誤解』という安全地帯へ滑り込ませるのだ。


「先生」

わたしは、男の冷徹な瞳を真正面から見据えた。

「彼女は、四年前に亡くなっているのですよ」

「ええ、知っています」

「あなたに都合よく誤解させられたまま、彼女は冷たい石段から転落して死んだのです」

教授は何も言わず、机の端にあった校正刷りの束を両手で揃えた。

その指先の所作は、無気味なほどに静かで、丁寧だった。



槇村邸は、大学から電車で二駅離れた閑静な住宅街にあった。

インターホン越しに応答した妻・志津子の声は、落ち着き払っていた。

玄関のたたきに立ったまま、彼女は静かにわたしを見つめた。

「主人の件ですか」

「四年前に亡くなられた、遠山遥さんの件です」

即座に扉を閉ざされるかと思ったが、そうはならなかった。

「どうぞお上がりください。外は冷えますから」


通された応接間には、仏壇も、着飾った記念写真の類も飾られていなかった。

飾り棚には、旅先で求めたらしい飾り皿が二枚、整然と立てかけられている。

どちらの縁にも、埃ひとつ積もっていない。

家の中の隅々まで、完璧に行き届いた掃除がなされていた。

四年前の悲劇の瞬間に時間を止めているような場所は、この家のどこにも存在しない。


「当時、ご主人と遠山さんの関係をご存じでしたか」

長い沈黙が部屋を満たした。

柱時計の規則正しい秒針の音だけが、淡々と時を刻んでいる。

「……知っていました」

「彼女が亡くなった夜、大学へ行かれましたね」

「行きました」

温かい緑茶の入った湯呑みが、ローテーブルの上に静かに置かれた。

わたしはまだ、そこに手を伸ばさない。


「なぜ、あの雨の夜に大学へ赴かれたのですか。ご主人から、話し合いがあると聞かされていたからですか」

「いいえ」

志津子さんは、湯呑みの丸い縁を人差し指でゆっくりとなぞった。

「わたし自身の手で、白黒を確かめたかったからです」

夫から真実を告げる約束など、最初から存在しなかったのだ。

あの男が、自分から不都合な事実を口にするはずがないと、妻であるこの人は誰よりも正確に理解していた。


「大学には、何時頃に着かれましたか」

「完全に日が暮れて、あたりが暗くなってからでした。置き傘を持って家を出ましたから」

志津子さんの声音は、最初から最後まで一定の高さを崩さなかった。

過去を懸命に思い出しながら語る人間の声ではない。

この四年間、心の奥底のまったく同じ場所に厳重に保管してきた記録を、感情を交えずにそのまま読み上げているような声だった。



四枚目のメモは、同じ茶封筒のいちばん奥底、底板の隙間に張り付くように残されていた。

表は、大学生協の新学期教科書セールの案内チラシ。

裏面に、ただ一行だけ記されていた。


今日、奥さんに話す。


右下の余白に、殴り書きされた日付がある。

遠山遥が石段から転落死した、まさにその日の日付だった。

わたしはその一行を、三度繰り返し読んだ。


主語が抜けている。

教授が、妻にすべてを打ち明けるのか。

それとも、追い詰められた遠山遥が、自ら妻の元へ乗り込んで話すつもりだったのか。

どちらを当てはめても、この短い一行は成立してしまう。


後刻、志津子さんに電話を入れ、その一行を読み上げた。

返答は極めて簡潔だった。

『わたしは、夫から直接話を聞く約束など、一切交わしていませんでした』



手帳を開き、あの雨の夜、現場周辺に居合わせた四人のタイムラインを並べた。


遠山遥。雨の夜、何かを決意して研究棟へ向かった。

寺西剛。大学へ現れ、石段の付近で待ち伏せていた。

槇村志津子。夫の不貞の真相を確かめるため、傘を手に大学へ赴いた。

槇村泰治。当時の警察への事情聴取では、「その夜、大学には一切立ち寄っていない」と供述。


最後の一行だけ、アリバイを裏付ける証言者が存在しない。

わたしは再び、寺西さんの携帯を鳴らした。

「あの晩、大学の敷地内で誰かを見かけませんでしたか」

『見かけたで』

即座に返答があった。

『あの教授や』

「どこで見ましたか」

『研究棟の通用口から、傘も差さんと足早に出てくるところや』

「正確な時刻は」

『そこまでは覚えてへん。土砂降りで、あたりは真っ暗やったからな』


わたしは受話器を握り直した。

寺西剛の証言は、現時点では「寺西がそう主張している」というひとつの証言にすぎない。

彼には、教授を犯人に仕立て上げたい明確な動機がある。

証言が一本だけでは、事実の柱として自立しないのだ。

一本しかない証言は、無理に立たせようとせず、一本のまま保留にしておかねばならない。



翌日の昼下がり、助手が資料室の奥の保管庫の鍵を開けてくれた。

四年前の転落死亡事故の直後、大学の総務課が作成した学内事故報告書の控えが、埃を被ってファイルされていた。

その書類の束のあいだに、守衛室に保管されていた『夜間鍵貸出簿』の複写が一枚だけ挟み込まれていた。

色褪せた罫線用紙に、教職員の手書きの署名が乱雑に並んでいる。

公表を前提とせず、事務処理のためだけに走り書きされた紙だ。


夜間に研究室を使用する教員は、守衛室の窓口でマスターキーを受け取り、退館時に返却する規則になっていた。

貸出簿には、実際に鍵を受け取った本人の署名が残る。

遠山遥が転落した、まさにその日の日付の欄に、流麗な筆跡で『槇村泰治』と記されていた。


貸出時刻、十九時二十分。

返却のタイムスタンプは、翌朝の日付になっていた。


わたしは、その冷厳な記録と、四年前の警察調書にあった教授の供述を脳内で並べた。


――その夜、大学には一切立ち寄っていない。

――貸出時刻、十九時二十分。


少なくともあの土砂降りの夜、遠山遥が転落する直前の時刻に、槇村教授本人の手によって研究室の鍵が持ち出されていたのだ。



夜、再び激しい雨が降り始めた。

わたしは傘をすぼめ、七段目の濡れた花崗岩の上に立ち、声に出して言った。

「槇村教授は、あの夜、ここにいた」


八段目へ足を踏み出す。

そのまま石段を上りきった。

覚えている。

足の裏が捉えた石の冷たさも、滑りやすい雨水の感触も、すべてが鮮明に脳裏に残っている。


わたしは踵を返し、再び六段目まで下りた。

今度は、意図的に逆の言葉を選び、口に出して呟いた。

「わたしは、七段目など踏んでいない」


七段目に右足を乗せる。

そのまま八段目へ。

上りきった踊り場で、己の感覚を確かめた。

声に出して呟いた記憶はある。

だが――七段目を踏みしめた足裏の感触だけが、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗さっぱり抜け落ちていた。


記憶を消し去っているのは、怪異そのものの悪意ではないのだ。

真実を受け入れようとしている人間には、石段は何の拒絶も示さない。

だが、みずから事実を『なかったこと』にしようと否定した瞬間、その心の欺瞞をなぞるようにして、場所の記憶が欠け落ちる。


(……なるほど、そういうことでしたのね)


わたしは暗闇に沈む石段を静かに見下ろした。

十九時二十分の鍵の貸出。

その夜は大学にいなかったという供述。

今日、奥さんに話すという約束。

すべての欺瞞が、この冷たい石段の上に重なり合って沈殿している。


(最初から、存在しなかったことにしているのだ)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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