先生と呼ぶ
三枚目の紙片は、茶封筒の底に眠っていた。
遠山さんが亡くなった後、下宿を引き払う際に大学側へ引き渡された遺留品の残りだという。
助手が資料室の棚の最上段から、埃を被った角形2号の封筒を下ろしてきてくれた。
中身は、文献の切り抜きや栞、そして几帳面に折り畳まれた数枚の用紙。
そのうちの一枚の表面を見て、わたしの指先が止まった。
市民向け公開講座のパンフレットだった。
顔写真。教授の肩書。丁寧な研究実績の紹介文。
――槇村泰治教授。市民のための古典文学入門、全三回。
裏返す。
そこには、見慣れた鉛筆の文字が刻まれていた。
奥さんとは別れる
春まで
また延びた
今度こそ話すって
四行。
行と行のあいだが、一枚目のメモよりも明らかに広い。
最後の一行だけ、祈るように文字の角が丸くなっていた。
もう一度、表に返す。
印刷された写真の教授は、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめている。
裏に返す。
――また延びた。
この欺瞞に満ちた一枚を、遠山遥は最期まで捨てることができなかったのだ。
◆
「これ、教授が離婚するて約束した動かぬ証拠やないですか」
助手が興奮したように身を乗り出してきた。
「違います」
わたしは冷然と言葉を返した。
「これは、彼女がそう思い込んでいたという証拠にすぎません」
「え……?」
「教授が実際にそう口にしたという客観的証拠にはなり得ません」
助手がぽかんと口を開けたまま固まった。
「そんな……何もそこまで意地悪な言い方をせんでもよろしいやろ」
「意地悪ではありません。事実の切り分けです」
わたしはコピー用紙の端をトントンと机に打ち付けて揃えた。
紙という媒体は、それを書き記した人間の視点からしか物を語らない。
そして、書いた当人はすでに物言わぬ死者となっている。
だからこそ、この一方的な紙片を武器にして誰かを告発すれば、いとも容易く殴り倒せてしまうのだ。
容易に殴れてしまう脆弱なものを、真実の証拠とは呼ばない。
◆
二度目に訪れた教授室の空気は、前回とまったく同じ温度を保っていた。
わたしが無言で三枚目のコピーをデスクの中央に滑り込ませると、槇村教授は老眼鏡を外し、じっと紙面を見つめた。
「これは……何ですか」
「遠山さんの遺品の中から見つかったメモです。筆跡の照合も済ませてあります」
教授は何も言わず、老眼鏡をかけ直した。
「個人的なお付き合いは一切ない、と仰いましたね」
「男女の恋愛関係という意味では、断じてありませんよ」
ひとつ目の言い換え。
「研究に行き詰まり、精神的に不安定になっていた彼女の相談に乗っていただけです」
「研究室の外でもですか」
「学生の指導であれば、場所を選ばないことも多々あります」
ふたつ目の言い換え。
「木曜の夜に決して連絡を入れさせないという約束も、指導の一環だったのですか」
教授は答えなかった。
窓の外で、古い雨樋がギシギシと軋む音がする。
「奥さまと離婚する、と彼女に告げたのですか」
「言っていません」
この男と対峙して以来、初めて間髪を容れずに否定の言葉が返ってきた。
「では、彼女が一方的に妄想を抱いていただけだと」
「……彼女を、誤解させてしまうような言動があったのかもしれません」
みっつ目の言い換え。
この男は、どれだけ追い詰められても決して声を荒らげない。
激昂して怒鳴り散らす人間のほうが、まだ御し易いのだ。感情任せに吐き散らした言葉は、後から確実に己の首を絞める縄になる。
だが、この男は違う。
絶対に己の首が絞まらない安全な位置にだけ、慎重に言葉を選んで配置していく。
嘘をついた、とは決して認めない。
主語を曖昧に希釈し、すべての責任を『彼女の誤解』という安全地帯へ滑り込ませるのだ。
「先生」
わたしは、男の冷徹な瞳を真正面から見据えた。
「彼女は、四年前に亡くなっているのですよ」
「ええ、知っています」
「あなたに都合よく誤解させられたまま、彼女は冷たい石段から転落して死んだのです」
教授は何も言わず、机の端にあった校正刷りの束を両手で揃えた。
その指先の所作は、無気味なほどに静かで、丁寧だった。
◆
槇村邸は、大学から電車で二駅離れた閑静な住宅街にあった。
インターホン越しに応答した妻・志津子の声は、落ち着き払っていた。
玄関のたたきに立ったまま、彼女は静かにわたしを見つめた。
「主人の件ですか」
「四年前に亡くなられた、遠山遥さんの件です」
即座に扉を閉ざされるかと思ったが、そうはならなかった。
「どうぞお上がりください。外は冷えますから」
通された応接間には、仏壇も、着飾った記念写真の類も飾られていなかった。
飾り棚には、旅先で求めたらしい飾り皿が二枚、整然と立てかけられている。
どちらの縁にも、埃ひとつ積もっていない。
家の中の隅々まで、完璧に行き届いた掃除がなされていた。
四年前の悲劇の瞬間に時間を止めているような場所は、この家のどこにも存在しない。
「当時、ご主人と遠山さんの関係をご存じでしたか」
長い沈黙が部屋を満たした。
柱時計の規則正しい秒針の音だけが、淡々と時を刻んでいる。
「……知っていました」
「彼女が亡くなった夜、大学へ行かれましたね」
「行きました」
温かい緑茶の入った湯呑みが、ローテーブルの上に静かに置かれた。
わたしはまだ、そこに手を伸ばさない。
「なぜ、あの雨の夜に大学へ赴かれたのですか。ご主人から、話し合いがあると聞かされていたからですか」
「いいえ」
志津子さんは、湯呑みの丸い縁を人差し指でゆっくりとなぞった。
「わたし自身の手で、白黒を確かめたかったからです」
夫から真実を告げる約束など、最初から存在しなかったのだ。
あの男が、自分から不都合な事実を口にするはずがないと、妻であるこの人は誰よりも正確に理解していた。
「大学には、何時頃に着かれましたか」
「完全に日が暮れて、あたりが暗くなってからでした。置き傘を持って家を出ましたから」
志津子さんの声音は、最初から最後まで一定の高さを崩さなかった。
過去を懸命に思い出しながら語る人間の声ではない。
この四年間、心の奥底のまったく同じ場所に厳重に保管してきた記録を、感情を交えずにそのまま読み上げているような声だった。
◆
四枚目のメモは、同じ茶封筒のいちばん奥底、底板の隙間に張り付くように残されていた。
表は、大学生協の新学期教科書セールの案内チラシ。
裏面に、ただ一行だけ記されていた。
今日、奥さんに話す。
右下の余白に、殴り書きされた日付がある。
遠山遥が石段から転落死した、まさにその日の日付だった。
わたしはその一行を、三度繰り返し読んだ。
主語が抜けている。
教授が、妻にすべてを打ち明けるのか。
それとも、追い詰められた遠山遥が、自ら妻の元へ乗り込んで話すつもりだったのか。
どちらを当てはめても、この短い一行は成立してしまう。
後刻、志津子さんに電話を入れ、その一行を読み上げた。
返答は極めて簡潔だった。
『わたしは、夫から直接話を聞く約束など、一切交わしていませんでした』
◆
手帳を開き、あの雨の夜、現場周辺に居合わせた四人のタイムラインを並べた。
遠山遥。雨の夜、何かを決意して研究棟へ向かった。
寺西剛。大学へ現れ、石段の付近で待ち伏せていた。
槇村志津子。夫の不貞の真相を確かめるため、傘を手に大学へ赴いた。
槇村泰治。当時の警察への事情聴取では、「その夜、大学には一切立ち寄っていない」と供述。
最後の一行だけ、アリバイを裏付ける証言者が存在しない。
わたしは再び、寺西さんの携帯を鳴らした。
「あの晩、大学の敷地内で誰かを見かけませんでしたか」
『見かけたで』
即座に返答があった。
『あの教授や』
「どこで見ましたか」
『研究棟の通用口から、傘も差さんと足早に出てくるところや』
「正確な時刻は」
『そこまでは覚えてへん。土砂降りで、あたりは真っ暗やったからな』
わたしは受話器を握り直した。
寺西剛の証言は、現時点では「寺西がそう主張している」というひとつの証言にすぎない。
彼には、教授を犯人に仕立て上げたい明確な動機がある。
証言が一本だけでは、事実の柱として自立しないのだ。
一本しかない証言は、無理に立たせようとせず、一本のまま保留にしておかねばならない。
◆
翌日の昼下がり、助手が資料室の奥の保管庫の鍵を開けてくれた。
四年前の転落死亡事故の直後、大学の総務課が作成した学内事故報告書の控えが、埃を被ってファイルされていた。
その書類の束のあいだに、守衛室に保管されていた『夜間鍵貸出簿』の複写が一枚だけ挟み込まれていた。
色褪せた罫線用紙に、教職員の手書きの署名が乱雑に並んでいる。
公表を前提とせず、事務処理のためだけに走り書きされた紙だ。
夜間に研究室を使用する教員は、守衛室の窓口でマスターキーを受け取り、退館時に返却する規則になっていた。
貸出簿には、実際に鍵を受け取った本人の署名が残る。
遠山遥が転落した、まさにその日の日付の欄に、流麗な筆跡で『槇村泰治』と記されていた。
貸出時刻、十九時二十分。
返却のタイムスタンプは、翌朝の日付になっていた。
わたしは、その冷厳な記録と、四年前の警察調書にあった教授の供述を脳内で並べた。
――その夜、大学には一切立ち寄っていない。
――貸出時刻、十九時二十分。
少なくともあの土砂降りの夜、遠山遥が転落する直前の時刻に、槇村教授本人の手によって研究室の鍵が持ち出されていたのだ。
◆
夜、再び激しい雨が降り始めた。
わたしは傘をすぼめ、七段目の濡れた花崗岩の上に立ち、声に出して言った。
「槇村教授は、あの夜、ここにいた」
八段目へ足を踏み出す。
そのまま石段を上りきった。
覚えている。
足の裏が捉えた石の冷たさも、滑りやすい雨水の感触も、すべてが鮮明に脳裏に残っている。
わたしは踵を返し、再び六段目まで下りた。
今度は、意図的に逆の言葉を選び、口に出して呟いた。
「わたしは、七段目など踏んでいない」
七段目に右足を乗せる。
そのまま八段目へ。
上りきった踊り場で、己の感覚を確かめた。
声に出して呟いた記憶はある。
だが――七段目を踏みしめた足裏の感触だけが、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗さっぱり抜け落ちていた。
記憶を消し去っているのは、怪異そのものの悪意ではないのだ。
真実を受け入れようとしている人間には、石段は何の拒絶も示さない。
だが、みずから事実を『なかったこと』にしようと否定した瞬間、その心の欺瞞をなぞるようにして、場所の記憶が欠け落ちる。
(……なるほど、そういうことでしたのね)
わたしは暗闇に沈む石段を静かに見下ろした。
十九時二十分の鍵の貸出。
その夜は大学にいなかったという供述。
今日、奥さんに話すという約束。
すべての欺瞞が、この冷たい石段の上に重なり合って沈殿している。
(最初から、存在しなかったことにしているのだ)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




