覚えていない
ジャジャジャーン!ジャジャジャーン!
二度目に指定された喫茶店は、前よりも照明の落ちた奥まった席だった。
寺西さんはジッポの蓋を跳ね上げ、火を点ける前にぎろりとこちらを睨みつけた。
「まだ首突っ込んどったんか」
「前回、聞きそびれたことがありますので」
「何や」
「遠山さんが亡くなったあの晩、彼女に会えたのですか」
カチリと火が点る。
立ち上った紫煙が天井へ昇り、換気扇の羽に吸い込まれていく。
「俺を疑っとるんやろ」
「ええ。容疑者のひとりとして確認しています」
寺西さんが呆れたように短く噴き出した。
「普通、もうちょい下手に出て誤魔化すもんやろ」
「誤魔化す理由がありませんから」
注文したものが運ばれてくるまで、二人のあいだに沈黙が落ちた。
置かれた熱いブレンドコーヒーに、寺西さんは角砂糖を三つ、乱暴に落とした。
「あいつは、俺から逃げようとしとった」
銀色のスプーンが、カップの中で甲高い音を立てて回る。
「せやけど俺は、別れたつもりは毛頭なかった。……年上の男がおる、いう噂も耳に入っとったしな」
「誰から聞いたのですか」
「同じゼミの女や。名前は言わん」
わたしはノートを開いたまま、ペンを走らせずに待った。
「電話で怒鳴り散らした」
寺西さんの指先が、わずかに震える。
「一回、腕を力づくで掴みもした。……自分が最低やったんは、骨身に染みて分かっとる」
煙草の灰が、灰皿の溝へ落ちた。
「せやけど、突き落としてへん」
「そこまでは、まだ尋ねていません」
寺西さんが口を閉ざした。
自分から先に差し出してしまった防衛の言葉が、冷え切ったテーブルの上に重たく転がっている。
それを置かせたのは、わたしではない。
「大学には行った。あの石段のところにも行った」
寺西さんは掠れた声で続けた。
「待ったんや。雨の中、傘も差さんと。……でも、来んかった」
表の道路を走るトラックが、派手に水を跳ね上げる音が響いた。
この男が本当のことを言っているのかどうか、わたしには判断がつかない。
分からないものを、分かった気になってはいけないのだ。
身勝手で乱暴な男だと思うことと、この男が彼女を突き落としたと断定することは、まったく別の作業である。
前者は一秒の感情で済むが、後者には確固たる記録と論理が要る。
◆
二枚目の紙片は、ゼミの保管箱の底に沈んでいたノートに挟み込まれていた。
大学生協で五十円ほどで投げ売りされているような、薄い大学ノートだ。
中身は古典文献の下訳で、途中のページから急激に筆跡が乱れていた。
余白には、レポートの提出締切とおぼしき日付が二つ記され、どちらも黒い二重線で消されている。
そのページに、四つ折りにされた紙が一枚、栞のように挟まっていた。
表は、前年まで開催されていた学内美術展の案内チラシ。
その裏面に、あの鉛筆の筆跡が並んでいた。
木曜は電話しない
研究室では先生と呼ぶ
学会が終わるまで待つ
奥さんにはまだ言わない
わたしは、一行ずつ指先でなぞった。
木曜。電話。研究室。学会。奥さん。
寺西剛は、当時ただの学部生だった。
個人の研究室など持っていない。
学会に出張することもない。
まして、戸籍に妻などいるはずもなかった。
一枚目のメモにあった『あの人』が寺西剛を指しているという仮説は、ここで音を立てて崩れ去った。
四行の言葉は、どれも切り詰めるように短い。
忘れないための備忘録ではない。
守らなければ破綻してしまう冷酷なルールを、自分に言い聞かせるために書き留めた並びだ。
そしてこのルールを定めたのは、書いた本人ではない、もうひとりの側に違いない。
(仮説がひとつ消えましたわね)
(……けれど、容疑者が減ったとは限りません)
紙を鞄にしまい、図書館を出る。外はまた、細い雨が降り始めていた。
◆
「『先生』とは、どなたのことです」
三度目の呼び出しにも、寺西さんは嫌な顔ひとつせず現れた。
二枚目のコピーをテーブルに滑らせると、彼はしばらく文字を凝視し、それから自嘲気味に鼻を鳴らした。
「やっとそこまで辿り着いたんか」
「心当たりがおありなら、最初から仰ってください」
「言うたら、俺が振られた腹いせに嘘八百並べとるようにしか見えへんやろ」
寺西さんは煙草をくわえ、紙の端を親指で強く押さえた。
「あいつのゼミに、やたら親身になって出入りしとった教員がおったんや」
「研究の相談だと、遠山さんは言っていたのですか」
「ああ。せやけど、木曜の晩だけは絶対に連絡してくるなと言われとるって、あいつ、ポロッと漏らしたことがあってな」
寺西さんの声のトーンが、急速に冷え込んでいく。
四年という月日を経てもなお、彼の胸の中で嫉妬と屈辱は乾ききっていなかったのだ。
「真面目な顔して学生に手ぇ出して、外に出たら知らん顔や。……『先生』いう肩書は、ほんま便利なもんやな」
「その現場を、直接目撃されたのですか」
「何を」
「遠山さんとその教員が、男女として逢瀬を重ねていた瞬間をです」
寺西さんの指が、ぴたりと止まった。
「……見てへん」
わたしは手帳にペンを置いた。
寺西さんがそう語った、も証言。
直接は見ていない、も証言。
どちらも、現時点では何ひとつ事実を証明してはいない。
◆
文学部研究棟の三階、廊下の突き当たりにその研究室はあった。
扉の脇の真鍮プレートには、『槇村泰治』と刻まれている。
一度のノックで、奥から低く穏やかな返答があった。
室内は、潔癖なまでに整頓されていた。
本棚の背表紙の高さは定規を当てたように揃い、大型のデスクの上には校正刷りの束が整然と置かれている。
灰皿はない。白磁の湯呑みがひとつ、塗り物の盆に載っているだけだ。
学生用のパイプ椅子は、扉のすぐ内側に据えられていた。
来客を長居させないための配置だ。
壁のコルクボードに、市民向け公開講座のチラシが留められていた。
印刷された顔写真。
わたしは昨日、その横顔を石段の前で見ている。
仕立てのいい紺のスーツ。皺のない鞄。そして、六段目で確実に止まる足。
「学生さんですか」
「文学部の一回生です」
名乗りを省略し、わたしは静かに切り出した。
「四年前にこの棟の前で亡くなられた、遠山遥さんのことでお伺いしたい儀がありまして」
槇村教授の手が、湯呑みを持ち上げた姿勢のまま微かに静止した。
置く。
磁器が擦れ合う音すら立てない、静かな所作だった。
「……彼女のことですか」
視線を伏せ、追悼するように目を細める。
「非常に優秀な学生でした。修士論文の構想も、途中までは実に筋のいいものでしたよ」
「個人的なお付き合いはありましたか」
教授は質問の真意を計りかねるように、一度だけゆっくりと瞬いた。
「ありませんよ」
わたしは男の輪郭を視た。
黒い怨念の緒はない。誰かの死霊がその首に縋り付いている気配もない。
ただ――教授の輪郭の周りにだけ、あの石段で見たものとまったく同じ、薄い『欠け』が微かに滲んでいた。
怪異は嘘発見器ではない。
欠けが視えたところで、この男が何を隠し、何を語らなかったのかまでは判別できないのだ。
「木曜日の夜のご予定は、当時、決まっておられましたか」
湯呑みへ伸ばしかけた教授の指先が、宙で止まった。
「……学外の委員会など、色々とありましたからね」
「講義や研究指導ではなくですか」
「昔のことですから。一々覚えてはいませんよ」
窓の外の石段を、誰かが足早に駆け上がっていく乾いた音が響いた。
教授は、そちらに視線を向けようとはしなかった。
「どなたが、そんな根も葉もないことを?」
教授が穏やかに問い返してくる。
「亡くなった彼女の名誉にも関わることです。軽々しい詮索は慎むべきではありませんか」
声はどこまでも柔らかく、温厚だった。
己の保身ではなく、死者の尊厳を盾にする。
これほど反論を封じやすい便利な配置はない。
「分かりました」
わたしは鞄のファスナーを静かに閉じた。
二枚目のチラシは、まだ見せるべきではない。
◆
深夜、雨脚の強まった石段に立ち、わたしは同じ場所を三度上り直した。
一度目。何も考えずに、普通の足取りで踏む。
上りきった瞬間、七段目の踏み心地だけが記憶から抜け落ちていた。
二度目。七段目の真ん中でわざと立ち止まり、靴の爪先を凝視する。
立ち止まったという事実そのものは覚えている。
だが、靴底が濡れた石肌に触れた瞬間の感触だけが、水彩画のように溶けて消えていた。
三度目。声に出して確認しながら踏み込む。
「いま、七段目を踏んでいます」
そのまま、八段目へ。
上りきって振り返る。
声に出した記憶はある。だが、足裏が受け止めたはずの硬さと冷たさだけが、すっぽりと抜け落ちている。
記憶を喰らう、という大仰な表現では説明がつかない。
削り取られているのは、もっと精密で、もっと狭小な、特定の一片だけだ。
三度とも、喪失した記憶のサイズは寸分違わず同じだった。
痛くも痒くもない。日常生活に何の支障もきたさない。
誰ひとりとして困らない大きさに整然と切り揃えられているという事実が、何よりもひどく薄気味悪かった。
傘を握り直したとき、背後の闇から規則正しい革靴の足音が近づいてきた。
槇村教授だった。
一段。二段。三段。
六段目で、ピタリと足が止まる。
七段目を、見ない。
膝を高く上げ、大股で跨ぎ越す。
八段地に着地した足が微かに沈み、それから何事もなかったかのように上っていく。
昨日とまったく同じ歩行の軌跡。
教授の名を知った今日も、その歩みは寸分の狂いもなかった。
教授はわたしの横を無言で通り過ぎ、傘の水滴を払って研究棟の扉の中へ消えていった。
わたしは七段目の上にひとり佇んだまま、その濡れた背中を見送った。
◆
帰路、濡れた公衆電話のボックスから、寺西さんの携帯を鳴らした。
『もう用件はないはずやろ』
「ひとつだけ確認させてください」
『何や』
「あの教員の名前、わたしからお伝えしましょうか」
受話器の向こうで、深く息を呑む気配がした。
『……言わんでええ』
掠れた声が返ってくる。
『俺なんぞより先に、きっちり調べ上げなあかん奴がおるはずやろ』
ツーツーと無機質な切断音が響いた。
電話ボックスのガラス面を、雨水が幾重もの筋となって流れ落ちていく。
わたしは濡れた指で二枚目のコピーを広げ、その二行目を静かに読み直した。
――研究室では先生と呼ぶ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




