七段目を
- 遠山遥=四年前に転落死した文学部の大学院生。享年二十四。
- 寺西剛=遠山の元交際相手。同年代。現在は市内の設備会社。
- 槇村泰治=文学部教授。
- 槇村志津子=泰治の妻。
六段目の次が、八段目だった。
わたしの前を、学生が三人、上っていく。
傘の骨がぶつかり合い、溜まった雨水がまとめて石の上に落ちた。
一、二、三、四、五、六。
次に爪先が乗ったのは、八段目の縁だった。
三人とも、まったく同じ場所を跨いだように見えた。
(飛ばした?)
七段目には、濡れた靴底の跡が三つ残っている。
跨いだのなら、跡が付くはずがない。
わたしは傘を傾け、自分の足元を見下ろした。
六段目。
七段目。
靴底の下で、雨水の薄い膜が微かに滑る。
八段目。
上りきってから、振り返った。
文学部研究棟へ続く石段は、全部で十二段。
古い花崗岩が、雨水を吸って黒ずんでいる。
角は幾千の足に踏まれて丸く摩耗し、真ん中だけが浅く窪んでいた。
わたしはいま、何段上ってきたのだろうか。
六段目までは、確かに数えた。
八段目からも、覚えている。
(……七段目を、踏みましたよね)
その感触だけが、記憶の隙間から綺麗に抜け落ちていた。
◆
三人に追いついたのは、渡り廊下の手前だった。
雨樋から溢れた雨水が、コンクリートを荒々しく叩いている。
「すみません」
声をかけると、背の高い学生が濡れた傘を持ち替えた。
「あの石段、七段目を踏まれましたか」
「七段目?」
学生は怪訝そうに眉を寄せた。
「飛ばしましたけど」
「なぜですか」
「なんでって……」
続きの言葉は出てこなかった。
嘘をついている顔ではない。思い出そうとして、手繰り寄せる糸が見つからない顔だ。
二人目が肩をすくめて笑う。
「あそこ、なんとなく踏みたくないんですよね」
三人目が首を傾げた。
「七段目なんて、ありましたっけ」
会釈をして、石段へ引き返した。
七段目の泥水には、靴跡が四つある。
三人分と、わたしの分だ。
目を細めて、意識の焦点を現実から半歩ずらす。
段そのものに死霊の緒は結ばれていない。誰かの足首へ絡みつく呪詛の糸もない。
死の匂いも、いまは立ち上っていなかった。
だが、花崗岩の表面を流れる雨水が、七段目の境界線で不自然に途切れていた。
水が溜まるのでも、弾かれるのでもない。
そこに乗った事実だけを、世界が丸ごと見落としているかのような空白。
写真から顔の部分だけを鋭利な剃刀で切り抜いたような、平然とした欠落だった。
人が死んだ現場には、普通、生々しい無念や未練が濁った泥のように沈殿する。
だが、ここにあるのは純粋な「消去」だ。
(……怪異の手口というよりは、あまりに人間的な隠蔽の形ですわね)
(……ですね)
小さく舌打ちをして、傘を差し直した。
わたしの二限は、もうとっくに始まっている。
◆
図書館の三階奥に、大学新聞の縮刷版が並んでいる。
背表紙の年号を指先でたどり、四年前の秋のファイルを抜き出した。
日に灼けた紙は、めくるたびに乾いた音を立てる。
目当ての記事は、十行にも満たない小さなものだった。
――本学大学院生、研究棟前の石段より転落。搬送先の病院で死亡。当夜は雨。事故として処理。
名前は、遠山遥。文学部の大学院生で、享年二十四。
顔写真は掲載されていない。
同じ紙面の裏側には、華やかな学園祭の準備風景が大きく刷り込まれていた。
わたしはその短い記事を二度精読し、鞄からメモ帳を取り出した。
事故として処理された、は公の記録。
当時その場にいた人間が何を見たかは、個人の証言。
同じ棚に並べてはいけない。置いた瞬間に、事実と主観が癒着して動かなくなるからだ。
四年前、わたしはまだこの大学にいなかった。
この石段も、遠山遥という名前も知らない。
何も知らないまま、今朝、七段目を踏んだ。
踏んだという事実だけを、覚えていない。
◆
遠山さんの所属していたゼミには、当時学部生だった助手がひとり残っていた。
共同資料室には古紙と糊の匂いが淀み、天井の蛍光灯が一本、切れかけてチカチカと明滅している。
パイプ椅子を引いてくれたその助手は、名前を出した途端に天井を仰いだ。
「遠山さん。……ああ」
ため息交じりに言葉を継ぐ。
「あの子、彼氏と揉めてはったんですよ」
「彼氏、ですか」
「同い年の子でね。何回か、研究棟の廊下まで怒鳴り込んできてましたわ。寺西くんて言うたかな」
助手は使い古されたコピー機の蓋を閉めた。
「亡くなる直前、遠山さんがよう泣いてたって言うてた子もおってね。死んだ日の晩も、男が来てたって話でしたよ」
澱みのない、滑らかな口調だった。
この四年のあいだ、噂好きな誰かに向けて何度も披露してきた話の形をしている。
わたしは手帳に二行だけ書き留めた。
揉めていた、は証言。
男がいた、も証言。
「その寺西さんの連絡先は分かりますか」
「当時のゼミ生の名簿、見せましょか」
◆
遠山さんの遺された私物は、ゼミの備品保管箱の底に押し込まれていた。
段ボールの中で、古い配布物の束が湿気を吸って波打っている。
大学祭の案内。公開講座のパンフレット。生協の割引券。
どれも、廊下で手渡されて鞄の底に放り込まれ、そのまま忘れ去られる類の紙だ。
めくる指が、一枚の藁半紙のところで止まった。
裏面に、鉛筆の走り書きがある。
もう会わない
研究室には行かない
あの人、怒ってた
三行だけだった。
行の間隔が次第に詰まり、最後の一行だけ紙を突き破るほど筆圧が濃い。
その下には、消しゴムで執拗に消された跡がもう一行分あった。何を消したのかまでは読み取れない。
箱の底には、遠山さんが提出したレポートの控えも残されていた。
同じ「あ」の丸み。同じ癖で右へ流れる横棒。
「本人の字と考えてよさそうですね」
助手がお茶をすすりながら、横からのぞき込んで言った。
「やっぱり、彼氏のことちゃいます?」
わたしは答えなかった。
『あの人』と書いた本人は、もうこの世にいない。
それが誰を指していたのかを教えてくれる人間も、いない。
三行のうち、上の二行には意志の行き先が記されている。
会わない。行かない。
最後の一行だけ、行き先が宙に浮いている。
怒っていた人間の名前だけが、意図的に抜け落ちていた。
わたしはその紙をコピーし、原本を箱の底へ戻した。
◆
名簿に記載されていた番号がようやく繋がったのは、二日後のことだった。
寺西剛は、市内の管工事会社に勤めていた。
夕暮れ時の古びた喫茶店で向かい合うと、彼は挨拶もそこそこに煙草を取り出した。
着古した作業着の袖口が、肘のあたりで擦り切れている。
「今さら何の用や」
「遠山遥さんが亡くなった日のことについて、確認させていただきたくて」
「警察ちゃうやろ」
「ええ。民間の一学生です。ですから、答えたくなければ答えなくて結構です」
寺西さんは煙を細く吐き出し、灰皿の縁をカチャリと鳴らした。
三十手前の骨太な顔つきだが、笑うときの口元の歪み方にだけ、当時の学生の面影が残っている。
太い指の節くれや、爪の隙間にこびりついた乾いた塗料。
毎日、生身の手を使って泥臭く生きている人間の手だった。
「変わった学生さんやな」
「よく言われます」
窓ガラスを、冷たい雨が斜めに叩く。
カウンターの奥から、豆を挽く鈍いモーター音が響いてきた。
「喧嘩はした」
寺西さんが吐き捨てるように言った。
「大学にも行った。話をきっちりつけるつもりやったからな」
「話、というのは」
「あいつが、急に俺を避け始めたからや」
語気が不意に荒くなり、隣のボックス席にいた客がこちらを盗み見た。
寺西さんは舌打ちして灰を落とし、合皮の背もたれに体を預けた。
「あの日、石段のところまで行かれましたか」
一拍の間があった。
寺西さんの持つカップの底が、ソーサーに触れて小さく鳴る。
「……行った」
「遠山さんに、会えましたか」
寺西さんは吸いかけの煙草をもみ消した。
「それは、次に会うたときに聞け」
伝票に触れもせず、彼は席を立った。
ドアのベルが甲高く鳴り、外の雨音が一度だけ大きく膨らんで、すぐに遠ざかった。
わたしは冷めきった紅茶を喉へ流し込み、伝票を裏返した。
(……今月も、もやし生活ですわね)
◆
夕刻、わたしは再び研究棟の前に立っていた。
傘の陰から石段を見上げる。
学生が上る。職員が上る。宅配業者がダンボールを抱えて上っていく。
全員が、七段目を踏んでいる。
だが、上りきったところで呼び止めて尋ねると、誰もが怪訝な顔で「飛ばしました」と答えた。
六時を回り、人通りが途絶えた。
水銀灯が鈍く灯り、濡れそぼった花崗岩が鈍い鉛色に光る。
最後に現れたのは、中年の男だった。
仕立てのいい紺のスーツ。皺ひとつない革鞄。傘の柄を胸の前で几帳面に握りしめている。
一段。二段。三段。
六段目で、その足が不自然に止まった。
男は、七段目を一切見なかった。
視線を八段目の先へ固定したまま、右膝を高く引き上げる。
鞄を持つ手が、わずかに強張って浮いた。
跨いだ。
男の革靴の底は、七段目の濡れた石肌のどこにも触れなかった。
八段地に着地した足が、そこでもう一度、わずかに躊躇するように止まる。
それから何事もなかったかのように、男は静かに階段を上っていった。
誰も彼もが無意識に踏み抜いて、踏んだことすら忘れていく段を。
その男だけが、決して踏まない。
研究棟の重い自動ドアが閉まる音がした。
わたしは七段目の濡れた石の上に立ち、爪先の下を見つめた。
(踏めない人間が、ひとり)
ポケットの中で、二つ折りにしたコピー用紙の端が硬く指に触れていた。
――あの人、怒ってた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




