後編『名前を呼ぶ』
答えは、とっくに出ている。
問題は、その決着を誰の手でつけさせるかだ。
実家の座敷で、父と祖母を前に学んだばかりの流儀だった。
◆
この怪異の正体は、小宮麻衣という人間ではない。
彼女は現在も生きている。
筒井さんの姉が保管していた年賀状によれば、隣県の地方都市で、ごく普通に社会人として生活しているそうだ。
死者の怨念ではない。
生霊の類でもない。
置き去りにされた祈りですらない。
本人の未練であるならば、緒の起点は彼女自身の魂にあるはずだ。
だが、この緒の根元は、遠く離れた彼女の元にはない。
根は、この教卓の上にある出席簿にこそあった。
もっと正確に言えば、毎週、その一行に機械的に書き足される『出』という記号そのものだ。
三年という月日。
春夏秋冬、年二回の学期。
長期休暇を差し引いても、およそ百回。
そこにいない人間を「いる」と偽る儀礼を、百回繰り返してきたのだ。
緒に刻まれた無数の節は、その回数分だけ存在していた。
人間の情念というものは、普通、一度の強い感情によって結ばれる。
だが、これは違う。
毎週同じ曜日の同じ時間に、同じ手によって結び直され続けてきたのだ。
だから、外部から術で断ち切ったところで何の意味もなさない。
切断したところで、次の講義の日に、同じ人間がまた新しく結び直してしまうからだ。
(怪異になり果てたのは、生きた人間ではありませんわ)
――ただの、頑なな習慣だ。
懐から取り出した式札を、緒の表面を滑らせるようにして放った。
白く光る式は、糸をなぞって教卓の出席簿へと這い進む。
だが、最初の節のところでピタリと行く手を阻まれた。
道が途切れているからではない。
ひとつひとつの結び目が、同じ人間の悔恨によって固く締め直されているからだ。
他人の式では、この結び目を解くことはできない。
解くことができるのは、これを結び続けてきた、本人だけだ。
◆
翌日の夕暮れ時、わたしは再び北側の研究室のドアを叩いた。
仁科先生は、昨日と寸分違わぬ姿勢で、机の前に座り込んでいる。
「……名簿の最後の行、二重線で抹消したらええんか」
それが、部屋に入るなり投げかけられた最初の言葉だった。
昨夜からずっと、そのことだけを反芻していたのだろう。
「それも、筋が違います」
「なんでや」
「消すのも、残すのも、先生が勝手にひとりで決めているからです」
先生の眉が、痛ましげに歪んだ。
「三年前と、何も変わっていません」
わたしは机の上の出席簿を指先で叩いた。
「籍を残すと決めたのも先生なら、毎週丸をつけ続けたのも先生の都合だ」
「あの子が頼んできたんやぞ」
「頼まれたのは『戻ってくるための場所』であって、三年分もの偽りの丸印ではありません」
少々言葉が過ぎたかと思ったが、撤回する気にはなれなかった。
「便利なものですね。相手の顔を見ない約束なら、相手がいなくなっても永遠に守り続けられる」
毒を、一滴だけ混ぜた。
象牙の塔に閉じこもる権威に対する、最小限の針のひと突きだ。
この男は教育者という権威であり、そして同時に、重すぎる過去に押し潰されかけている、ただの初老の男だった。
◆
わたしは、視た。
視える人間が決めるのではない、と教えてくれたあの家がある。
視る側の人間は、ただ事実をありのままに視るだけ。
それをどう処理するかは、当事者が決めるべきことだ。
わたし自身、先週の実家で、その掟の順番をひっくり返してきたばかりだった。
自分で筋を通した人間が、他人の人生の幕引きを代行するわけにはいかない。
わたしが決めていいのは、視えた怪異をどう処置するかだけだ。
小宮麻衣という女性が選び取った現実まで、わたしの領分ではない。
「電話をかけてください」
「……誰にや」
「小宮麻衣さんご本人にです」
先生は、デスクの片隅に置かれた黒い固定電話へ視線を向けた。
見つめたまま、指先ひとつ動かそうとしない。
「連絡先なら、筒井さんのお姉さんから預かってきました」
「……三年やぞ。三年間、音信不通やったんや」
「ええ」
「今さら、あの子に何を話せばええんや」
「それを決めるのは、わたしの仕事ではありません」
わたしはパイプ椅子から立ち上がった。
「わたしは、視るだけです。出席簿の嘘を読むところまでは付き合いました」
鞄の持ち手をしっかりと握る。
「そこから先の始末まで他人に押し付けるのは、ただの甘えです」
◆
先生が受話器を上げたのは、日没のチャイムが鳴り響いた直後だった。
わたしは研究室の壁際に立ち、筒井さんは廊下に佇んでいる。
部屋の中には入りたくない、と頑なに首を振っていたからだ。
受話器を握る先生の指が、番号を押す途中で二度、迷うように止まった。
プルルル、と冷たい呼び出し音がスピーカーから漏れる。
三回。
どれも等しい間隔を保った呼び出し音だった。
カチャリ、と回線が繋がる乾いた音が響く。
「……もしもし。仁科です」
受話器の向こうから返ってくる声は、ここまでは届かない。
室内へ漏れ聞こえるほど大きな声で喋る相手ではないようだ。
聞こえないほうが、都合がいい。
先生は名乗ったきり、喉に小骨が刺さったかのように長い沈黙を続けた。
窓の外はすでに夜の帳が下り、蛍光灯の青白い光が、乱雑なデスクの木目を冷たく照らし出している。
やがて、先生は絞り出すような声で口を開いた。
「……ずっと、席を残しとったんや」
スピーカーの隙間から、微かに吐息が漏れた。
それは、かつて病室の電話口で泣き崩れていたという、か弱い二十一歳の娘の声ではない。
毎朝満員電車に揺られ、日々の仕事をこなし、自分の足で現実を生きている、自立した大人の女の声だった。
三年の歳月は、教室に囚われたままの男の感傷など置き去りにして、人を遠くへ運んでいく。
ほんのわずかな間を置いて、受話器が告げた。
『先生。もう、いりません』
仁科先生は、ゆっくりと、痛みに耐えるように両目を閉じた。
それから、掠れた声で返す。
「……そうか」
それだけだった。
受話器をフックに戻す音は、拍子抜けするほど小さい。
呪いを解く音にしては、あまりにも日常的で、あっけない幕切れだった。
わたしは何も言わなかった。
部外者が差し挟むべき言葉など、最初からどこにもない。
◆
翌週の三限。
わたしは再び、あの北向きの演習室の最後列に座っていた。
前から二番目の席で、筒井美月がそっと振り返る。
わたしは無言で、一度だけ顎を引いてみせた。
仁科先生が、古びた出席簿を開く。
淡々と、名前を呼んでいく。
十一人。
十一回、学生たちの平板な返事が重なった。
いつもと寸分違わぬ速度だ。
今日この教室で起きている決定的な変化を知っているのは、部屋の中にいる三十数名のうち、わずか三人だけである。
先生は名簿を見つめた。
いつもより、ほんの少しだけ長く視線を留めている。
その唇が、無意識に微かに動いた。
おそらく、『こ』の形だったのだと思う。
だが、それは言葉にはならなかった。
「……十一人。全員いるな」
誰も笑わなかった。
前の席の男子学生も、退屈そうにシャーペンを回しているだけだ。
毎週の笑いどころが静かに消滅したことに、誰ひとりとして気づいていない。
その瞬間、窓際のいちばん後ろの席で、キィと小さな金属がきしむ音が響いた。
誰かが席を立ったとき特有の、座面が元の高さに戻る微細な音だ。
わたしの目にだけ、淡い光を帯びた緒が見えた。
出席簿の最後の行から空席の机へと張り渡されていた一本の糸が、中央からふわりと解けていく。
引きちぎられたのではない。
張り詰めていた緊張が緩み、自らその役目を終えるように、静かに消えていくのだ。
百の結び目が、端から順番にほどけて霧散していく。
ドラマチックな現象は何ひとつ起きなかった。
澱んでいた北側の空気が、ほんのわずかに軽くなったような気がしただけだ。
それすらも、わたしの思い過ごしかもしれない。
◆
講義が終わり、学生たちが潮が引くように去ったあと、わたしは無人の空席へと歩み寄った。
指先で天板に触れる。
鉛筆の丸印は、綺麗さっぱり消え去っていた。
消しゴムなど、一度も使っていないのに。
鞄から、符を一枚取り出す。
文具店の薄い半紙に書かれた、休ませる符。
指先でつまむと、向こうにある出席簿のインクがくっきりと透けて見えた。
千年の歴史を持つ家の和紙は、分厚く、決して向こう側を透かさない。
隠すための紙だ。
けれどあの人は、透ける紙を選んだ。
見透かされてもいい、嘘のない終わりを告げるために。
符を出席簿の最後の頁に挟む。
掠れた墨の匂いが、三年の偽りを静かに吸い取っていくように消えていった。
しばらく待って、机をもう一度見下ろす。
丸は、二度と浮かび上がってこなかった。
◆
廊下へ出ると、壁に寄りかかって筒井さんが待っていた。
五百円分の図書カードは、すでに昨日のうちに受け取っている。
「先生、今日は『十一』て言いはりましたね」
「ええ」
「……先生、寂しくないんですかね」
わたしは足を止め、少しだけ考えた。
階下の駐輪場で、誰かが乱暴に自転車のスタンドを跳ね上げる金属音が響いている。
「寂しいでしょうね」
それだけを返した。
筒井さんは何か言葉を継ごうとして、唇を引き結ぶ。
引き際を弁えられる子だ。
この一年間、知ってしまった重荷を誰にも漏らさずに耐えてこられた人間だけの沈黙だった。
◆
階段の手前まで歩を進めたとき、背後から低く掠れた声が追いかけてきた。
「小宮」
わたしは、足を止めて振り返った。
演習室の木製の引き戸は、半分ほど開け放たれたままだ。
仁科先生が、無人の教卓の前にぽつんと立ち尽くしている。
机は十二。
椅子も十二。
だが、そこにはもう誰も座っていない。
先生は、自分の喉からこぼれ落ちた名前に自分で驚いたように、右手を口元に当てていた。
「……いや」
小さく呟き、自らの未練を振り払うように首を振る。
ゆっくりと手を伸ばし、引き戸を引き戻した。
ガタピシと鈍い音が鳴り、建てつけの悪い桟が、最後の一寸手前で引っかかって止まる。
そのわずかな隙間の奥は、すっかり薄暗い闇に沈んでいた。
わたしは、引き返さなかった。
戻れば、また誰かの代わりに人生の選択を引き受けてしまうことになる。
そこにいない人間を、もういないのだと正しく受け入れるためにも、人間にはそれ相応の時間が要るのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




