中編『欠席者』
三年前の春、この演習には確かに十二人の学生がいた。
生協食堂の片隅で、筒井さんはそう語り始めた。
テーブルに置かれた紙コップのコーヒーには、まだ口をつけていない。
「一人、途中で大学を辞めはった人がおるって聞きました」
「名前は」
「小宮麻衣さん。……うちの姉と、同じ学年やった人です」
彼女の姉は、昨年の春にこの大学を卒業したのだという。
「姉から聞いたのは、それだけです。あとは……わたしが勝手に思てただけで」
「何をですか」
「あの席に座ってた人の未練か何かが、まだ教室に残ってるんやないかって」
わたしは、紙ナプキンの上で角砂糖の袋を指先で押し潰した。
「本当にそこにいるなら、返事をするはずです」
「え」
「十一回名前を呼ばれて、十一回の返事があった。十二人目は、一度も返事をしていません」
筒井さんは息を呑み、言葉を失った。
それから、逃げるようにぬるくなったコーヒーを口に含む。
舌を焼いたのか、小さく眉間に皺が寄った。
空調の風が届かない、昼下がりの食堂だった。
ピークを過ぎ、テーブルのあちこちに空席が目立っている。
(……今週のレポート課題)
唐突に脳裏をよぎったが、いま考えるべきことではないので、綺麗に意識の外へ追いやった。
◆
文学部棟の四階の突き当たりに、旧資料室があった。
窓口の事務職員は、「学生さんが昔の演習記録を調べるなんて珍しいね」と、苦笑しながら真鍮の鍵を貸してくれる。
珍しいわけではない。
ただ、生活費のために動いているだけだ。
スチール棚の下段に、歴代の演習記録が年度ごとに麻紐で束ねられていた。
立ち上る紙の匂いが、実家の蔵の記憶を微かに呼び起こす。
長年かけて湿気と埃を吸い込んだ紙が放つ、特有の甘く重い匂いだ。
はめ殺しの窓からは外気が入らず、天井の蛍光灯が一本、寿命を迎えつつチカチカと明滅を繰り返している。
三年前のファイルを引き抜いた。
まずは、当時の受講者名簿。
十二名の氏名。
いちばん下の行に『小宮麻衣』の文字があった。塗り潰されてはいない。
続いて、当時の出席簿を開く。
四月の開講当初、小宮麻衣という学生はごく普通に通っていた形跡がある。
欠席の日もあれば、電車の遅延による遅刻のチェックもある。
生身の人間が送る、日常の足跡だ。
潮目が変わっていたのは、六月の中旬だった。
そこからの記録が、すべて『出席』で埋め尽くされている。
学期末までの最後の七週間、一日たりとも欠席がない。
わたしはページを斜めに傾け、インクの光沢を光に透かした。
七週分の丸印のすべてが、完全に同じ艶をたたえている。
筆跡の傾きも、掠れ具合も寸分違わない。
ひとりの人間が、同じ日の同じ時間に、一気に書き足した筆跡だ。
◆
演習の記録ファイルには、毎年恒例だという集合写真が挟まれていた。
三年前の、初夏の日差しの中で撮られた一枚。
前列のいちばん端に、小宮麻衣が写っていた。
小柄で、どこか線の細い印象の女性だ。
レンズに向かって笑ってはいない。カメラから視線を逸らし、隣の学生のスニーカーのあたりをじっと見つめている。
集合写真の前列の端というのは、もっとも視線の逃げ場がないポジションだ。
身長順に並ばされ、やむなくそこに収まったのだろう。
両肩がぎこちなく強張り、半袖から伸びる腕は、陽光を知らない人間のように青白かった。
写真の裏に記された撮影日は、七月十日。
わたしは、挟み込まれていた学籍異動の控えを二度見した。
『自主退学:六月十日付』
退学したはずの人間が、その一か月後の集合写真に収まっている。
さらにページをめくると、その年の秋に開催された学部研究発表会のパンフレットが出てきた。
仁科教授の共同研究者の欄に、堂々と『小宮麻衣』の名が印刷されている。
大学を去ってから、実に四か月後の日付だった。
(……どちらの記録が、嘘をついているのですか)
紙は何も語らない。
何も語らないからこそ、公の記録というものは時に暴力的な強度を持つ。
◆
わたしは、三年前の出席簿の七週分の丸印に指先を重ねた。
袖口から式札を一枚滑り込ませ、紙面へと押し当てる。
細い緒が、すうっと立ち上った。
乾ききった、細い糸。
やはり、死の匂いはしない。
緒は資料室の扉の隙間を抜け、薄暗い廊下を伝って階段の下へと落ちていく。
行き着く先など、確かめるまでもなかった。
あの演習室の、十二脚目の椅子だ。
空中に漂う緒を、親指の腹でそっとなぞる。
節があった。
まるで数珠のように、等間隔で小さな結び目が連なっている。
数を数えようとして、途中で指を引いた。
数えるまでもなく、それが何を意味しているのか、察しがついてしまったからだ。
◆
もっとも安直な筋書きを立てるなら、こうだ。
幽霊になった学生を、哀れんだ教授が出席扱いにし続けた。
その偽りの記録に念が宿り、席が埋まっているかのような怪異を生んだ。
――だが、それは違う。
放置された未練や残留思念なら、とっくに元の主との繋がりを失っているはずだ。
この緒は切れていない。
ただ、根の主が生身の人間ではないというだけのことだ。
それに、もし誰かがその席に居座りたいと願っているのなら、三年もの歳月があれば、とっくに誰の目にも見える確固たる怪異として受肉している。
けれど、この現象は何ひとつ起こさない。
人を呪うこともなければ、自分の存在を主張することもない。
ただ、機械のように教員に「十二人」と数えさせているだけだ。
(来てほしいと願っている怪異では、ありませんわね)
本当に誰かの帰還を望んでいるのなら、丸などではなく、そこに本人の名前を書き連ねるはずだからだ。
◆
筒井さんが姉に連絡を入れたのは、その日の夜のことだった。
翌朝の一限前、生協の同じテーブルで、筒井さんは疲れた声で真相を打ち明けてくれた。
「小宮さん、途中で投げ出して辞めたわけやなかったみたいです」
筒井さんは画面の消えたスマートフォンを両手で握りしめている。
「重い病気にかかって、休学してはったんです。前期の間ずっと」
「休学……」
「姉も詳しい病名までは知らんかったみたいですけど、先生と小宮さん、二人でずっと進めてた研究テーマがあったらしくて」
筒井さんはそこで言葉を濁し、視線を泳がせた。
「だから先生、『席だけでも残しといたる』って言わはったらしいんです」
わたしは手元の冷え切った紙コップを見つめる。
湯気はすでに途絶えていた。
「小宮さん本人は、その措置を知っていたんですか」
「知らんかったと思います。姉も、小宮さんが秋に正式に退学届を出したあとで、噂で聞いたって言うてましたから」
「そして、彼女は二度と戻らなかった」
「……はい」
筒井さんが、すがるような目でわたしを見た。
「わたし、このこと姉から聞いたの、去年なんです」
「ええ」
「ずっと、黙ってました。こんなこと言い出したら、先生の立場がなくなると思って」
わたしは何も言わない。
立場が危うくなるのは、教授ではない。波風を立てた側の人間だ。
それを口にして彼女を追い詰めないだけの分別は、わたしにもある。
◆
仁科先生の研究室は、文学部棟の最上階、北側の角にあった。
腰高の小さな窓からは十分な光が入らず、正午を回っているというのに蛍光灯が寒々しく灯っている。
うず高く積まれた専門書が、デスクの三方を城壁のように囲んでいた。
背表紙の並びは乱れ、頻繁に参照されているらしい資料だけが、前のめりに崩れ落ちそうになっている。
灰皿は見当たらなかったが、古びた布張りの椅子からは、染み付いたタバコの匂いが微かに漂っていた。
わたしは、持ち出した三年前の出席簿を、机のわずかな隙間に置いた。
「学生が勝手に持ち出してええ書類やないぞ、それは」
「お返しに上がりました」
先生は怒るでもなく、笑うでもない。
ただ、表情の筋肉がわずかに弛緩し、一気に数年分の歳月が顔の上に落ちてきたようだった。
「七週分、同じ日にまとめて書き込まれていますね」
「……ああ」
「小宮麻衣さんは、その期間、一度も講義に出ていない」
「出てへん」
言い逃れはなかった。
取り繕うような前置きも一切ない。
あまりにあっさりと認められてしまい、わたしは喉元まで出かかった次の言葉を一度呑み込んだ。
罪悪感を抱えた人間が素直に白状すると、こちらが用意していた詰めの段取りが狂ってしまう。
「研究費の不正受給のためですか」
「ちゃう」
「では、指導実績の維持」
「ちゃうわ」
先生は軋むオフィスチェアを半回転させ、正面からわたしを見た。
「あの子が、泣きながら頼んできたんや」
机の上で組まれた指先が、白くなるほど強く握り合わされる。
「『自分が戻ってこられる場所を、どうか残しておいてほしい』てな」
低く掠れた声だった。
「二十一やそこらの若い子が、電話口で過呼吸になりながら泣いとるんやぞ」
「それで、出席扱いに」
「席が空いとったら、いざ復学したときに周囲へ説明が要るやろ。なんで休んでたんか、どこまで遅れてるんか。詮索されるのが嫌や言うから」
先生は、愛おしむように出席簿の革表紙を撫でた。
「出席しとることにしておけば、何食わぬ顔で元の場所に戻ってこられる。そう思うたんや」
わたしは、その骨張った手元を見つめる。
そこに邪な悪意の欠片でもあれば、どれほど気が楽だっただろう。
そこにあったのは、ただの善意だった。
世の中でいちばん始末に負えない、情に引きずられただけの優しさだ。
◆
「小宮さんは、戻ってきましたか」
沈黙が落ちた。
天井の蛍光灯が、一度だけチッと小さく瞬く。
「……戻らんかった」
「では」
わたしは自分の鞄を開け、先ほど教卓から回収してきた、今年度の出席簿を取り出した。
乱暴に塗り潰された、十二行目の欄を開いて見せる。
本日の日付。
まだインクの乾ききっていない、先生自身の書いた『出』の文字。
「どうして三年経った今でも、彼女を出席にし続けているんですか」
先生は答えなかった。
開け放たれた窓のずっと下、グラウンドから運動部のホイッスルが甲高く響いてくる。
わたしは無言で待った。
沈黙に耐えることなら、幼い頃から慣れている。
この男がひとりで背負い続けてきた三年の歳月に比べれば、ほんの瞬きほどの時間に過ぎない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




