前編『十二人いる』
十一人が、返事をした。
わたしは頭の中で数えている。
癖だ。
人のいる部屋に入ると、まず頭数を数える。
癖の出どころは、あの実家にある。
数えておかないと、生きている人間と、そうでないものが混ざってしまうからだ。
教壇の男は、名簿から目を上げない。
「……十二人。全員いるな」
◆
三限に、文学部の講義棟へ足を運ぶ用事はなかった。
先週ノートを貸した同じ学部の子に、今度は封筒の配達を頼まれたのだ。
「大津さん、三限までに仁科先生んとこ持ってってくれへん? お礼するし」
「お礼の中身によります」
「学食の日替わり、一回奢る」
安い。
けれど引き受けた。
家賃の請求を前にすれば、日替わり定食一食分も貴重な現物支給だ。
預かった角形2号の封筒は、見た目よりずっしりと重い。
中身は訊かなかった。
訊けば、たいてい余計な面倒が増える。
◆
演習室は、外から見るより手狭だった。
机が十二。
パイプ椅子も十二。
白っぽい昼の光の中に、チョークの粉が微かに煙っている。
机はどれも古びていて、合板の天板には無数の線が彫り込まれていた。
誰かの名前ではない。退屈を紛らわせるためだけに削られた、無意味な溝だ。
窓は北向きだった。
光は部屋の隅まで届いているのに、そこには温度がない。
教卓で封筒を差し出すと、仁科先生は「ああ」と短く喉を鳴らした。
礼もなければ、中身を改める気配もない。
封筒を教卓の隅へ押しやり、年季の入った出席簿を開く。
「座っとき。三十分で終わるし」
断る口実を探しかけたが、それを口にする面倒のほうが勝った。
いちばん後ろの、廊下側の席に腰を下ろす。
椅子の脚の黒いゴムが、片方だけ欠けていた。
北側の窓際、その最後列だけが、ぽつんと空席のまま残されている。
◆
先生は、一人ずつ名前を読み上げていった。
名簿を追う声は、極めて平らだ。
抑揚というものをどこかに置き忘れてきたような、無機質な呼びかけが続く。
名前と名前のあいだには、常にまったく同じ長さの間隔が空く。
返事があるかどうかを、視線ではなく、耳の感度だけで拾い上げている。
学生たちの返事の癖は、見事にばらばらだった。
間髪を容れずに声を張る者。
ワンテンポ遅れて短く応じる者。
顔も上げず、指先だけを申し訳程度に挙げる者。
十一回、名前が呼ばれた。
十一回、確実に返事がある。
先生は手元の名簿に目を落とした。
ほんの少しだけ、長く見つめている。
「……十二人。全員いるな」
前の席に座る男子学生が、耐えかねたように吹き出した。
「先生、それいつもですやん」
「そうか」
「去年もそう言うてはったて、ゼミの先輩が笑うてましたよ」
教室のあちこちから、くすくすと忍び笑いが漏れる。
全員が、その決まり文句のからくりを知っている顔をしていた。
知ったうえで、毎週律儀に笑ってやっている、そんな空気だ。
ただ一人、まったく笑わない女子学生がいた。
窓際の、前から二番目。
黒髪を耳にかけ、伏し目がちに机の木目を見つめ続けている。
教室の笑い声が静まっても、彼女だけは身動きひとつしない。
◆
わたしは、後方の空席へと視線を滑らせた。
十二脚目の席。
鞄の影もない。
脱ぎ捨てられた上着もない。
放置された机にありがちな埃すら、乗っていなかった。
配置も乱れていない。
ほかの席は、座る者の体重や出入りの動作によって、少しずつ角度が歪んでいる。
だが、その席だけは、定規で引いたように整然と並んでいた。
床のワックスの擦れ痕も、脚の接地部で綺麗に途切れている。
ただ置き去りにされているだけの机なら、こうはならない。
椅子の座面だけが、かすかに沈んでいた。
いましがた誰かが立ち上がったかのように、紺色の布地が丸く窪んでいる。
(……戻りませんの)
(いえ、戻れ。頼むから戻ってください)
心の中で呼びかけても、布地は窪んだままだ。
わたしは、もっとも常識的な可能性を三つ頭に並べた。
一つ。教員の数え間違い。
二つ。学籍だけが名簿に残されたままの幽霊学生。
三つ。教務課の管理データと、先生個人の名簿との食い違い。
どれを使っても、現実的な説明はつく。
理屈で説明がつくうちは、わたしの出る幕ではない。
首を突っ込んだところで、誰も報酬など払ってはくれないのだから。
◆
三十分で終わると言われた講義は、結局四十五分を費やした。
講義終了の合図とともに、学生たちが一斉に席を立つ。
椅子の脚が床を擦る音。
リュックの金具が机にぶつかる鈍い音。
わたしは席を立たず、全員が廊下へ吐き出されるのを待った。
最後に立ち上がり、件の空席の脇を通りかかる。
座面の窪みは、いつの間にか綺麗に消えていた。
代わりに、机の天板の上に小さな印が置かれている。
鉛筆で描かれた、小さな丸。
筆圧はほとんどかかっていない。
幼い子供が悪戯で描いたような線ではない。手慣れた大人が、目印としてそっと落としたような円だ。
鞄のポケットから消しゴムを取り出し、丸の上を軽く擦った。
黒い線はあっさり消える。
天板の端に、細かな消し屑が散らばった。
それを指先で払い落とし、鞄を肩に掛け直す。
何気なく、もう一度机に目を落とした。
丸が、あった。
消す前とまったく同じ濃さで。
まったく同じ場所に。
払ったはずの消しゴムの粉だけが、天板の縁に置き去りにされている。
わたしは、無言で三歩後退した。
視界から机を外す。
窓の向こうの青白い空を、心の中で五つ数えるあいだ見つめた。
カラスが一羽、図書館の屋根をかすめて飛び去っていく。
息を吸い、振り返る。
鉛筆の丸は、そこに居座っていた。
(はい)
(お仕事ですわ)
(……です)
込み上げてきた舌打ちを、喉の奥へ押し戻す。
丸の中心から、一本の細い糸が伸びていた。
緒だ。
死の匂いは、微塵もしない。
その緒は、人間の方角へは向かっていなかった。
廊下に残る学生の誰にも繋がっていない。
――教卓へ向かって、床すれすれをまっすぐに伸びている。
無人の教卓の上に取り残されているのは、あの黒い出席簿だけだった。
◆
「大津さん、やんな」
薄暗い廊下に出たところで、背後から声をかけられた。
講義中、一度も笑わなかった女子学生だ。
「筒井です。筒井美月」
「はい」
「視えるんやろ」
この手の噂は、家賃の督促状よりも足が速い。
「……何がです」
「あの、いちばん後ろの席」
その声音には、不自然な強張りが混じっていた。
日常の会話では使わない単語を口にしようとする人間の、ぎこちない間だ。
「毎週、気色悪いんです。先生が、当たり前みたいに『十二人』て言うのが」
「先生に直接、確認されてはどうですか」
「言いました。『そうか』って、それだけ」
声色の真似が、酷に思えるほど似ている。
それだけ毎週、耳にこびりついている証拠だった。
睡眠不足は、如実に肌へ出る。
筒井さんの顎のあたりが、白く粉を吹いて荒れていた。
ただの講義ひとつで、朝からここまでやつれるはずがない。
わたしは、抱えた鞄の持ち手を握り直した。
「お代は」
筒井さんは目を丸くし、それから慌てて財布を開く。
「……図書カード、五百円分しかないけど」
「引き受けます」
相場としては底値だ。
だが、消しても戻る丸は、放っておけば確実に増殖する。
そして増殖した念というものは、最終的に決まって人の輪郭を欲しがるのだ。
◆
誰もいなくなった演習室へ戻ると、仁科先生の姿はすでになかった。
教卓の上に、出席簿だけが置き去りにされている。
預けていった封筒も、そのまま机の隅に転がっていた。
(不用心ですわ、先生)
表紙をめくる。
乾燥した紙が、パラパラと擦れる音を立てた。
並んだ名前は十二。
一番上から十一列目までは、先ほど点呼に返事をした学生たちだ。筒井美月の名もそこにある。
異様なのは、十二行目だった。
氏名の欄が、黒いボールペンのインクで塗り潰されている。
何度も、執拗に重ね塗りされていた。
そこだけ紙が湿気を帯びて波打ち、指先でなぞると、細かな凹凸が爪に引っかかる。
作業した人間に、焦りはなかったはずだ。
急いで消そうとしたのなら、太い二重線を引いて終わらせる。
紙を裏返し、昼の光に透かしてみた。
下にある文字は完全に潰れている。二度と判読できないように、念入りになぞり続けた人間の痕跡だ。
その塗り潰された欄の横、本日の日付のマスに、
先生独特の筆跡で、小さく『出』の文字が記されていた。
不在の人間が、欠席扱いになっているのではない。
――存在しない人間が、毎週、出席し続けている。
机の丸から伸びていた緒の先端は、その一行に、固く結びつけられていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




