家訓(後編)
答えは、もう出ている。
出ているものを、口に出す前に、三つ揃える。
この前、覚えたばかりだ。
一つ目。
蔵の式盤。
針の向きを、もう一度思い出す。
坂の下。
大学のある町。
その手前の、一階の角部屋。
自転車で十五分の、わたしの部屋の方角だった。
二つ目。
紙。
棚の和紙の束は、紐が解かれていない。
埃が、上に乗ったままだ。
吊るされた護符は、全部、安い半紙だった。
三つ目。
型。
休ませる符。
この家では、祓う。
休ませる符を書く人は、この家にはいなかった。
◆
祖母は、同じ姿勢で座っていた。
「おばあさま」
「なんです」
「蔵の護符は、どなたのために」
「視えるでしょう」
「視えます」
一拍、置いた。
「……聞いています」
祖母が、初めて顔を上げた。
目が、わたしと同じ色をしている。
当たり前だ。
こちらが、写しなのだから。
「視えればよい、と言われて」
祖母は、膝の上の黒い指を見た。
「六十年、視ておりましたの。書くところも」
それだけだった。
護符の書き方を、この家の女は教わらない。
教わらないから、視た。
当主が書くのを、六十年。
家の紙は使えない。
だから、買った。
住所を知らない。
――誰にも、教えていないから。
だから、占った。
どれも、家訓の内側だ。
破っていない。
視えればよいと言われて、視ただけ。
「送るつもりでしたの。式で」
「……届いていました」
わたしは、自分の胸を見た。
紙より先に、これが来ていた。
祖母は、何も言わなかった。
謝りもしないし、泣きもしない。
乾いた顔で、また指を見ている。
わたしの内心の声は、この人の声でできている。
いま、それが分かった。
分かっても、言わない。
◆
廊下の板が、鳴った。
兄がいた。
聞いていたのだろう。
困った顔をしている。
この人は、いつも困った顔をしている。
「憑いてる、と最初に言ったのは」
わたしが聞くと、兄は目を逸らした。
「……俺」
「どうして」
「母さんらが、緒が外へ出とる言うて。俺には視えへん。せやけど、おばあちゃんが夜中に蔵で式盤回しとったら、そら――」
そこで、止まる。
「そのほうが、楽やった」
正直な人だ。
正直で、弱い。
「祓えば、元通りや。誰も、誰の味方もせんで済む」
わたしは、慰めなかった。
「楽なほうを、選んだんですね」
「……うん」
わたしが出たぶん、この人の肩は重くなっている。
それは、取り消さない。
取り消せない。
兄は、笑おうとして、やめた。
◆
座敷。
障子の外は、もう暗い。
畳が、昼より冷えている。
父は、白い布の前に座っていた。
わたしは、向かいに座る。
兄は廊下に立ったまま、入ってこない。
祖母は、少し遅れて、上座に座った。
黒い指を、隠さずに。
「視えたか」
父が言った。
「はい」
「何が憑いとる」
「誰も憑いていません」
父の眉が、わずかに動いた。
「緒は出ています。おばあさまから、外へ。根は、おばあさまです。外から来たものではありません」
「……そうか」
一拍。
父は、符を一枚、布の上で揃えた。
「ほな、あとは家で決める」
家訓が、口から出た。
女は、視えればよい。
視た。
あとは、当主が決める。
この家では、それが順番だ。
「お父様」
「なんや」
「順番を変えてもいいですか」
「何をや」
わたしは、息を吸った。
家の語尾で、家に言う。
「なら、視えたものをどうするかは、わたくしが決めます」
言い直さなかった。
舌打ちも、しなかった。
障子の桟は、鳴らなかった。
「お前の目は――」
「わたくしのものです。千年前の墨が、何と書いていようと」
父は、黙った。
怒鳴らない人だ。
怒鳴ってくれたほうが楽なのは、あの夜と同じだ。
わたしは、白い布の上の符を見た。
「便利ですわね。都合の悪い意思は、みんな憑き物扱い」
毒は、一つだけ。
権威に、一刺しだけ。
それから、祖母を見た。
決めるのは、わたしではない。
視たものを、どうするか。
その一つ目は、これだ。
「おばあさま。祓われますか」
祖母は、わたしを見なかった。
父を見た。
六十年、視てきた人を。
「いいえ」
短かった。
六十年で初めての、当主に対する「いいえ」だったのかもしれない。
わたしには、分からない。
視えないものは、視えない。
父は、長いこと、符を見ていた。
それから、布ごと畳んだ。
「祓いは、やめや」
当主の声だった。
誰かに言われたからではなく、自分が決めた、という声。
(最後まで、決めるのは自分だと言う人だった)
それでいい。
勝ちたいわけではなかった。
◆
わたしは、封筒を畳に置いた。
「お代です」
祖母が、手を伸ばした。
数えない。
封筒の厚みも、見ない。
「受け取っておきますわ。あなたが払うと言うのなら」
娘ではなく、客に言う声だった。
父は、封筒を見た。
何も、言わなかった。
蔵から、束を一つ持ってきた。
安い半紙の、休ませる符。
紐で括ってある。
墨の匂いが、鞄の中に移った。
封筒が薄いことは、たぶん、あちらにも視えている。
視えて、言わない。
この家の女は、そういうふうにできている。
◆
玄関。
兄が、見送りに立った。
父は座敷。
祖母は部屋。
母も大叔母も、今日は顔を見ていない。
土間に、わたしの靴があった。
つま先を、戸のほうへ向けて。
踵を、揃えて。
脱いだときは、内向きに転がしたはずだ。
揃えなかった。
誰も、土間には来ていない。
兄は、わたしの後ろにいる。
上がり框の横に、それが、座っていた。
襖の向こうで、いつも正座しているものだ。
十九年、座敷のほうを向いていた。
人の不和を、少し楽しそうに聞いていたものだ。
今日は、戸のほうを向いている。
膝に手を置いて。
頭を、わずかに下げて。
わたしは、視ない顔で靴を履いた。
紐を結ぶ。
立つ。
礼など、するものではなかったはずだ。
「真琴」
兄が言った。
「……また、買いに来い」
「値段によります」
戸を引く。
夜気が、頬に触れた。
◆
坂を、下る。
立ち漕ぎはしない。
ブレーキを、少しずつ緩めて。
途中で、一度、止まった。
振り返る。
家の灯りは、もう見えない。
緒だけが、見えた。
坂の上から、わたしの胸まで。
引かれない。
ただ、着いている。
わたしの目は、わたしのものだ。
視えたものを、どうするかも。
それだけ確かめて、ペダルに足を戻した。
◆
翌日。
三限のあと、廊下で同じ学部の子に呼び止められた。
「大津さん、ノート貸してくれへん?」
「かまいませんわ」
言ってから、気づいた。
舌が、舌打ちの形になる。
――やめた。
「……今日は、いい」
「え?」
「なんでもありません。はい、ノート」
明日からは、また直す。
けれど今日だけは、この耳に馴染んだ語尾も、胸の奥に繋がる見えない緒も、わたしのものだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




