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京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怪異より先に、人の事情が視えてしまう~  作者: K3/KASANE
『家訓』

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家訓(後編)

答えは、もう出ている。

出ているものを、口に出す前に、三つ揃える。

この前、覚えたばかりだ。


一つ目。

蔵の式盤。

針の向きを、もう一度思い出す。

坂の下。

大学のある町。

その手前の、一階の角部屋。

自転車で十五分の、わたしの部屋の方角だった。


二つ目。

紙。

棚の和紙の束は、紐が解かれていない。

埃が、上に乗ったままだ。

吊るされた護符は、全部、安い半紙だった。


三つ目。

型。

休ませる符。

この家では、祓う。

休ませる符を書く人は、この家にはいなかった。



祖母は、同じ姿勢で座っていた。


「おばあさま」

「なんです」

「蔵の護符は、どなたのために」

「視えるでしょう」

「視えます」

一拍、置いた。

「……聞いています」


祖母が、初めて顔を上げた。

目が、わたしと同じ色をしている。

当たり前だ。

こちらが、写しなのだから。


「視えればよい、と言われて」

祖母は、膝の上の黒い指を見た。

「六十年、視ておりましたの。書くところも」


それだけだった。

護符の書き方を、この家の女は教わらない。

教わらないから、視た。

当主が書くのを、六十年。


家の紙は使えない。

だから、買った。

住所を知らない。

――誰にも、教えていないから。

だから、占った。


どれも、家訓の内側だ。

破っていない。

視えればよいと言われて、視ただけ。


「送るつもりでしたの。式で」

「……届いていました」

わたしは、自分の胸を見た。

紙より先に、これが来ていた。


祖母は、何も言わなかった。

謝りもしないし、泣きもしない。

乾いた顔で、また指を見ている。

わたしの内心の声は、この人の声でできている。

いま、それが分かった。

分かっても、言わない。



廊下の板が、鳴った。

兄がいた。

聞いていたのだろう。

困った顔をしている。

この人は、いつも困った顔をしている。


「憑いてる、と最初に言ったのは」

わたしが聞くと、兄は目を逸らした。

「……俺」

「どうして」

「母さんらが、緒が外へ出とる言うて。俺には視えへん。せやけど、おばあちゃんが夜中に蔵で式盤回しとったら、そら――」

そこで、止まる。

「そのほうが、楽やった」


正直な人だ。

正直で、弱い。

「祓えば、元通りや。誰も、誰の味方もせんで済む」

わたしは、慰めなかった。

「楽なほうを、選んだんですね」

「……うん」


わたしが出たぶん、この人の肩は重くなっている。

それは、取り消さない。

取り消せない。

兄は、笑おうとして、やめた。



座敷。

障子の外は、もう暗い。

畳が、昼より冷えている。

父は、白い布の前に座っていた。

わたしは、向かいに座る。

兄は廊下に立ったまま、入ってこない。

祖母は、少し遅れて、上座に座った。

黒い指を、隠さずに。


「視えたか」

父が言った。

「はい」

「何が憑いとる」

「誰も憑いていません」


父の眉が、わずかに動いた。

「緒は出ています。おばあさまから、外へ。根は、おばあさまです。外から来たものではありません」

「……そうか」

一拍。

父は、符を一枚、布の上で揃えた。

「ほな、あとは家で決める」


家訓が、口から出た。

女は、視えればよい。

視た。

あとは、当主が決める。

この家では、それが順番だ。


「お父様」

「なんや」

「順番を変えてもいいですか」

「何をや」

わたしは、息を吸った。

家の語尾で、家に言う。

「なら、視えたものをどうするかは、わたくしが決めます」


言い直さなかった。

舌打ちも、しなかった。

障子の桟は、鳴らなかった。


「お前の目は――」

「わたくしのものです。千年前の墨が、何と書いていようと」


父は、黙った。

怒鳴らない人だ。

怒鳴ってくれたほうが楽なのは、あの夜と同じだ。

わたしは、白い布の上の符を見た。


「便利ですわね。都合の悪い意思は、みんな憑き物扱い」

毒は、一つだけ。

権威に、一刺しだけ。

それから、祖母を見た。

決めるのは、わたしではない。

視たものを、どうするか。

その一つ目は、これだ。


「おばあさま。祓われますか」

祖母は、わたしを見なかった。

父を見た。

六十年、視てきた人を。

「いいえ」


短かった。

六十年で初めての、当主に対する「いいえ」だったのかもしれない。

わたしには、分からない。

視えないものは、視えない。


父は、長いこと、符を見ていた。

それから、布ごと畳んだ。

「祓いは、やめや」


当主の声だった。

誰かに言われたからではなく、自分が決めた、という声。

(最後まで、決めるのは自分だと言う人だった)

それでいい。

勝ちたいわけではなかった。



わたしは、封筒を畳に置いた。

「お代です」

祖母が、手を伸ばした。

数えない。

封筒の厚みも、見ない。

「受け取っておきますわ。あなたが払うと言うのなら」


娘ではなく、客に言う声だった。

父は、封筒を見た。

何も、言わなかった。

蔵から、束を一つ持ってきた。

安い半紙の、休ませる符。

紐で括ってある。

墨の匂いが、鞄の中に移った。


封筒が薄いことは、たぶん、あちらにも視えている。

視えて、言わない。

この家の女は、そういうふうにできている。



玄関。

兄が、見送りに立った。

父は座敷。

祖母は部屋。

母も大叔母も、今日は顔を見ていない。


土間に、わたしの靴があった。

つま先を、戸のほうへ向けて。

踵を、揃えて。

脱いだときは、内向きに転がしたはずだ。

揃えなかった。

誰も、土間には来ていない。

兄は、わたしの後ろにいる。


上がり框の横に、それが、座っていた。

襖の向こうで、いつも正座しているものだ。

十九年、座敷のほうを向いていた。

人の不和を、少し楽しそうに聞いていたものだ。

今日は、戸のほうを向いている。

膝に手を置いて。

頭を、わずかに下げて。


わたしは、視ない顔で靴を履いた。

紐を結ぶ。

立つ。

礼など、するものではなかったはずだ。


「真琴」

兄が言った。

「……また、買いに来い」

「値段によります」

戸を引く。

夜気が、頬に触れた。



坂を、下る。

立ち漕ぎはしない。

ブレーキを、少しずつ緩めて。

途中で、一度、止まった。

振り返る。

家の灯りは、もう見えない。

緒だけが、見えた。

坂の上から、わたしの胸まで。

引かれない。

ただ、着いている。


わたしの目は、わたしのものだ。

視えたものを、どうするかも。

それだけ確かめて、ペダルに足を戻した。



翌日。

三限のあと、廊下で同じ学部の子に呼び止められた。

「大津さん、ノート貸してくれへん?」

「かまいませんわ」


言ってから、気づいた。

舌が、舌打ちの形になる。

――やめた。


「……今日は、いい」

「え?」

「なんでもありません。はい、ノート」

明日からは、また直す。

けれど今日だけは、この耳に馴染んだ語尾も、胸の奥に繋がる見えない緒も、わたしのものだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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