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京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怪異より先に、人の事情が視えてしまう~  作者: K3/KASANE
『家訓』

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家訓(前編)

護符が、最後の一枚になった。

鞄の底で、四つに折れた紙が一枚。

角が擦れて、白い粉が出ている。

実家の蔵には、まだ何百枚もある。

もらいには行かない。

買いに行く。


働いたぶんを、封筒に入れた。

数えたら、思っていたより薄かった。

それでも、紙の値段くらいは知っている。

家の紙なら、もっと高い。

そのことも、分かっている。

だから、値段のぶんだけ持って帰る。

それ以上は、もらわない。



坂を、上る。

家を出た夜に、立ち漕ぎで下った坂だ。

上りは、下りの倍かかった。

ママチャリの鎖が、一漕ぎごとに鳴く。

坂の上は、町より風が冷たい。

息が白くなりかけて、まだならない。


家を出た夜は、六月だった。

いまは、風が違う。

自転車を降りるまで、家のほうを見なかった。

見ると、上る前に帰りたくなるからだ。


門の前で、自転車を降りた。

瓦の下の、黒い格子戸。

十九年間、毎日くぐった戸だ。

出てから、一度もくぐっていない。

戸を引く。

玄関の土間で、兄が靴を履きかけていた。


「……真琴?」

「はい」

兄は、少し痩せていた。

人の顔色をうかがう癖は、そのままだ。


「なんで――いや」

兄は靴を脱いだ。

「ちょうどええ。おばあちゃんが――」

そこで、言葉を切る。

廊下の奥を見た。

「……いや。父さんが、お前は視んでええて」

「何をです」

「せやから、視んでええ」

依頼ではない。

依頼の、反対だ。


「買い物に来ただけです」

わたしは靴を脱いだ。

脱いだ靴は、内向きのまま土間に転がった。

揃えなかった。

この家で、靴を揃えるのは女の役目だった。

今日は、客として来ている。



座敷に、父がいた。

座卓の上に、白い布。

その上に、符が数枚と、塩の器。

祓いの支度だ。


「真琴」

父は、驚かなかった。

驚いた顔を、しない人だ。

膝に乗せて星の名を教えてくれた人が、いまは符を揃えている。

優しい人だ。

本当に。

だから、目を合わせすぎないようにする。


「護符を、買いに来ました」

「……買いに」

「お代は持っています」

父は、封筒を見ない。

わたしの顔を見た。


「明後日や」

「何がです」

「祓いや。お前は関係ない。蔵で紙だけ取って、帰り」

それだけ言って、符へ目を戻す。


視んでええ、と兄は言った。

父は、関係ない、と言う。

どちらも、同じ意味だ。

見るな、ではない。

視ても、決めるな、だ。



蔵の鍵は、兄が持っていた。

重い戸が、湿った音を立てて開く。

墨の匂いが、先に出てきた。

次に、紙。

蔵の中は、外より暗く、外より冷たい。


奥の棚に、護符の束。

その手前で、足が止まった。

式盤が、床に据えてある。

天盤が、回ったままだ。

針は、町のほうを指している。

坂の下。

わたしが上ってきた向き。

(……なんで、そっちを向いていますの)


その上に、紐が渡してあった。

紐から、紙が何十枚も吊るされている。

風のない蔵で、洗濯物のように、微動だにせず。

墨は、乾ききっている。

護符だ。

一枚、二枚と数えかけて、やめた。

数えると、意味が出る。

意味は、まだ要らない。


「おばあちゃんや」

兄が、後ろで言った。

「二週間くらい前からな。夜中に、ここへ来るんや。式盤を回して、何か書いて、干して、帰る」

「声は、かけたんですか」

「かけた。『見ればわかりますわ』て、それだけ」


わたしは吊るされた紙を一枚、指で裏返した。

安い紙だ。

家の和紙ではない。

文具店で束になって売っている、薄い半紙。

墨だけが、家のものだった。

匂いで分かる。


「母さんと大叔母さんが、視た」

兄は続けた。

「緒が、外へ出とるて。家の外へ。せやから、父さんが」

「憑き物」

「……そう」


外へ出ている緒。

母も大叔母も、視える。

視えて、そう言った。

わたしは、もう一枚裏返す。

字を読む。

祓う符ではなかった。

休ませる符だ。

この家では、使わない型。

(わたしの、使う型だ)


指が、紙から離れなかった。

兄が何か言ったが、頭に入らなかった。

「……護符は、あとで取ります」

わたしは蔵を出た。



祖母の部屋は、廊下の突き当たりにある。

障子は開いていた。

昼の光の中に、祖母が座っていた。

背筋は、まっすぐ。

膝の上で組んだ右手の指が、墨で黒い。

隠していない。


部屋は、片づいている。

墨の道具は、どこにもない。

蔵で書いて、蔵に置いて、指だけ持って帰る人だ。


「護符なら、お代を置いていきなさい」

顔も上げずに、祖母は言った。

「……買いに来ました」

「知っていますわ。顔に書いてあります」


語尾が、耳に馴染む。

この声で、わたしは十九年、育てられた。

気を抜くと口から出てくる語尾の、元の持ち主だ。


「おばあさま」

「なんです」

「蔵の紙は」

「見ればわかりますわ」

兄に言ったのと、同じ答えだった。

祖母は、それ以上言わない。

わたしも、聞かない。

聞く前に、視る。


――視えればよい。

その言葉を掟とする家で、わたしは今、それをしている。


祖母の胸から、緒が出ていた。

一本。

太い。

死の匂いは、ない。

緒は、障子の外へ伸びている。

廊下へ。

玄関のほうへ。


母も大叔母も、これを視た。

外へ出ている、と言った。

出ている。

その言葉を、誰も正しく読まなかった。

憑き物の緒は、外から入ってくる。

根が、外にあるからだ。


これは、違う。

根は、ここにある。

祖母の胸に。

出ているのだ。

入っているのではなく。


「……失礼しますわ。いえ、します」

舌打ちは、飲み込んだ。

祖母の前で直しても、無駄だ。

わたしは緒を追って、廊下へ出た。



緒は、玄関を抜けていた。

土間の靴の上を通り、格子戸を抜け、門の外へ。

わたしは下駄をつっかけて、外へ出た。

坂の上に立つ。

緒は、坂を下っていく。

町へ。

わたしが上ってきた道を、逆に。

どこまで行くのか。

目で追う。


――追えなかった。

緒は、坂を下っていなかった。

門を出て、二歩。

そこで、終わっている。

わたしの、立っているところで。


視線を落とす。

胸だ。

わたしの胸に、緒の先が着いている。

引かれない。

ただ、着いている。


十九年間、わたしは緒を視る側だった。

先端になったことは、一度もない。

喉の奥で、何かが鳴りかけた。

悲鳴では、なかった。

もっと、小さいものだ。


「ここ、誰もいません」

口が、勝手に言った。

いつもの言い当てだ。

誰もいない、と言えば、だいたい終わる。

今日は、終わらない。


――いいえ。

ここにいるのは、わたしだった。

ぎりぎりセーフ(*´∀`*)ノはい

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