家訓(前編)
護符が、最後の一枚になった。
鞄の底で、四つに折れた紙が一枚。
角が擦れて、白い粉が出ている。
実家の蔵には、まだ何百枚もある。
もらいには行かない。
買いに行く。
働いたぶんを、封筒に入れた。
数えたら、思っていたより薄かった。
それでも、紙の値段くらいは知っている。
家の紙なら、もっと高い。
そのことも、分かっている。
だから、値段のぶんだけ持って帰る。
それ以上は、もらわない。
◆
坂を、上る。
家を出た夜に、立ち漕ぎで下った坂だ。
上りは、下りの倍かかった。
ママチャリの鎖が、一漕ぎごとに鳴く。
坂の上は、町より風が冷たい。
息が白くなりかけて、まだならない。
家を出た夜は、六月だった。
いまは、風が違う。
自転車を降りるまで、家のほうを見なかった。
見ると、上る前に帰りたくなるからだ。
門の前で、自転車を降りた。
瓦の下の、黒い格子戸。
十九年間、毎日くぐった戸だ。
出てから、一度もくぐっていない。
戸を引く。
玄関の土間で、兄が靴を履きかけていた。
「……真琴?」
「はい」
兄は、少し痩せていた。
人の顔色をうかがう癖は、そのままだ。
「なんで――いや」
兄は靴を脱いだ。
「ちょうどええ。おばあちゃんが――」
そこで、言葉を切る。
廊下の奥を見た。
「……いや。父さんが、お前は視んでええて」
「何をです」
「せやから、視んでええ」
依頼ではない。
依頼の、反対だ。
「買い物に来ただけです」
わたしは靴を脱いだ。
脱いだ靴は、内向きのまま土間に転がった。
揃えなかった。
この家で、靴を揃えるのは女の役目だった。
今日は、客として来ている。
◆
座敷に、父がいた。
座卓の上に、白い布。
その上に、符が数枚と、塩の器。
祓いの支度だ。
「真琴」
父は、驚かなかった。
驚いた顔を、しない人だ。
膝に乗せて星の名を教えてくれた人が、いまは符を揃えている。
優しい人だ。
本当に。
だから、目を合わせすぎないようにする。
「護符を、買いに来ました」
「……買いに」
「お代は持っています」
父は、封筒を見ない。
わたしの顔を見た。
「明後日や」
「何がです」
「祓いや。お前は関係ない。蔵で紙だけ取って、帰り」
それだけ言って、符へ目を戻す。
視んでええ、と兄は言った。
父は、関係ない、と言う。
どちらも、同じ意味だ。
見るな、ではない。
視ても、決めるな、だ。
◆
蔵の鍵は、兄が持っていた。
重い戸が、湿った音を立てて開く。
墨の匂いが、先に出てきた。
次に、紙。
蔵の中は、外より暗く、外より冷たい。
奥の棚に、護符の束。
その手前で、足が止まった。
式盤が、床に据えてある。
天盤が、回ったままだ。
針は、町のほうを指している。
坂の下。
わたしが上ってきた向き。
(……なんで、そっちを向いていますの)
その上に、紐が渡してあった。
紐から、紙が何十枚も吊るされている。
風のない蔵で、洗濯物のように、微動だにせず。
墨は、乾ききっている。
護符だ。
一枚、二枚と数えかけて、やめた。
数えると、意味が出る。
意味は、まだ要らない。
「おばあちゃんや」
兄が、後ろで言った。
「二週間くらい前からな。夜中に、ここへ来るんや。式盤を回して、何か書いて、干して、帰る」
「声は、かけたんですか」
「かけた。『見ればわかりますわ』て、それだけ」
わたしは吊るされた紙を一枚、指で裏返した。
安い紙だ。
家の和紙ではない。
文具店で束になって売っている、薄い半紙。
墨だけが、家のものだった。
匂いで分かる。
「母さんと大叔母さんが、視た」
兄は続けた。
「緒が、外へ出とるて。家の外へ。せやから、父さんが」
「憑き物」
「……そう」
外へ出ている緒。
母も大叔母も、視える。
視えて、そう言った。
わたしは、もう一枚裏返す。
字を読む。
祓う符ではなかった。
休ませる符だ。
この家では、使わない型。
(わたしの、使う型だ)
指が、紙から離れなかった。
兄が何か言ったが、頭に入らなかった。
「……護符は、あとで取ります」
わたしは蔵を出た。
◆
祖母の部屋は、廊下の突き当たりにある。
障子は開いていた。
昼の光の中に、祖母が座っていた。
背筋は、まっすぐ。
膝の上で組んだ右手の指が、墨で黒い。
隠していない。
部屋は、片づいている。
墨の道具は、どこにもない。
蔵で書いて、蔵に置いて、指だけ持って帰る人だ。
「護符なら、お代を置いていきなさい」
顔も上げずに、祖母は言った。
「……買いに来ました」
「知っていますわ。顔に書いてあります」
語尾が、耳に馴染む。
この声で、わたしは十九年、育てられた。
気を抜くと口から出てくる語尾の、元の持ち主だ。
「おばあさま」
「なんです」
「蔵の紙は」
「見ればわかりますわ」
兄に言ったのと、同じ答えだった。
祖母は、それ以上言わない。
わたしも、聞かない。
聞く前に、視る。
――視えればよい。
その言葉を掟とする家で、わたしは今、それをしている。
祖母の胸から、緒が出ていた。
一本。
太い。
死の匂いは、ない。
緒は、障子の外へ伸びている。
廊下へ。
玄関のほうへ。
母も大叔母も、これを視た。
外へ出ている、と言った。
出ている。
その言葉を、誰も正しく読まなかった。
憑き物の緒は、外から入ってくる。
根が、外にあるからだ。
これは、違う。
根は、ここにある。
祖母の胸に。
出ているのだ。
入っているのではなく。
「……失礼しますわ。いえ、します」
舌打ちは、飲み込んだ。
祖母の前で直しても、無駄だ。
わたしは緒を追って、廊下へ出た。
◆
緒は、玄関を抜けていた。
土間の靴の上を通り、格子戸を抜け、門の外へ。
わたしは下駄をつっかけて、外へ出た。
坂の上に立つ。
緒は、坂を下っていく。
町へ。
わたしが上ってきた道を、逆に。
どこまで行くのか。
目で追う。
――追えなかった。
緒は、坂を下っていなかった。
門を出て、二歩。
そこで、終わっている。
わたしの、立っているところで。
視線を落とす。
胸だ。
わたしの胸に、緒の先が着いている。
引かれない。
ただ、着いている。
十九年間、わたしは緒を視る側だった。
先端になったことは、一度もない。
喉の奥で、何かが鳴りかけた。
悲鳴では、なかった。
もっと、小さいものだ。
「ここ、誰もいません」
口が、勝手に言った。
いつもの言い当てだ。
誰もいない、と言えば、だいたい終わる。
今日は、終わらない。
――いいえ。
ここにいるのは、わたしだった。
ぎりぎりセーフ(*´∀`*)ノはい




