正しいほうの味方(後編)
その夜、答えは出さなかった。
出さないことに決めた。
大庭さんの残した言葉が、頭の中にこびりついている。
――いつの僕の言葉ですか。
机にノートを開いた。
書きつけたのは、人の名前ではない。
黄色い線。
壁時計。
六時四十分。
緒は大庭さんの肉体に刺さっていなかった。
床の亀裂へと沈んでいた。
時計の文字盤へと這い上がっていた。
三枝さんは、最初から六時四十分を指定してきた。
(誰の念か、じゃない)
鉛筆を止める。
(いつの念か、だ)
問いを一つ変えるだけで、昨日まで見えなかった暗がりへ光が差した。
わたしは携帯電話を取る。
森川さんへ短いメッセージを打つ。
明日、六時四十分。
準備室で立ち会ってほしい。
大庭さんにも、三枝さんにも、まだ連絡はしなかった。
◆
翌日。
野外調査の出発前、準備室には森川さんとわたしだけがいた。
「何をするんですか」
「同じことが起きるか確かめます」
「誰に?」
「まだ分かりません」
分からない、と口にすると少しだけ呼吸が楽になった。
昨日は、その一段階を飛ばしてしまった。
壁の時計が六時三十九分を指す。
「森川さん。黄色い線へ」
「立つだけ?」
「立つだけです」
森川さんが黄色い塗料を踏んだ。
わたしは床を凝視する。
細い緒が、昨日よりも鮮明に見えた。
黄色い線の塗膜の下から、黒い糸がぎらぎらと脈動している。
そこから壁を伝って時計へ。
人へは、まだ伸びていない。
秒針が十二へ重なる。
六時四十分。
黒い緒が、鎌首をもたげるように床から浮き上がった。
森川さんの足首へ巻きつくように触れる。
肉体には刺さらない。
そのまま背中へ、あの薄汚れた人型の影がぺたりと吸い付いた。
森川さんの唇は固く閉ざされている。
それなのに、背後に張り付いた影の口元から、押し殺した生々しい声が響き渡った。
「順番を変えてもいい」
背筋を冷たい氷が撫でたような感覚が走る。
昨日、わたしが言った言葉だった。
あの黄色い線の上で。
大庭さんと三枝さんを止めたときの声。
音色は大庭さんのものでも、わたしのものでもない。
森川さんの喉を借りて鳴らされたような、歪な響き。
けれど、発せられた言葉は間違いなく、わたしのものだった。
「……今の、わたしじゃないですよね」
森川さんが血の気の引いた顔で尋ねる。
「はい」
わたしは緒から目を離さない。
影が徐々に希釈され、薄くなっていく。
緒が床へと沈み戻る。
時計へ伸びていた一本も、すっと文字盤の奥へ消えた。
そこで、ようやく気付く。
大庭さんに重なっていたのではない。
あの時間、あの座標に立った人間へ、影が機械的に重なって見えただけだ。
怪異は大庭さんを指してなどいなかった。
指し示したのは、わたし自身だったのだ。
「森川さん」
「はい」
「今度は、見えるものから離れます」
◆
準備室の扉の横に、入退室の記録簿が掛かっていた。
鍵を借りた学生が、名前と時刻を記入する用紙。
昨日は確認を怠っていた。
前日の欄を目で追う。
午後六時四十分。
三枝千紘。
その時間の前後に、大庭直樹の名前はない。
「大庭、昨日の前の日は、ここに来てません」
森川さんが言った。
「はい」
次に、安全講習の記録。
準備室の原本は持ち去られていた。
けれど、控えは学科事務室にきちんと保管されている。
用紙を一枚ずつ確かめる。
森川七瀬。
受講済み。
参加可。
三枝千紘。
未受講。
参加不可。
その下には、男子学生が二人。
どちらも未受講。
参加不可。
境界線は、性別などでは引かれていなかった。
講習を受けたか、受けていないか。
判断基準は、ただそれだけだった。
紙の端を指で押さえる。
昨日、大庭さんが説明した通りの事実。
昨日のわたしは、確かめようと思えば確かめられた。
それを怠った。
胸の奥に、鉛を呑み込んだような重みが広がる。
けれど、感傷に浸る前に果たすべきことがある。
◆
三枝さんを準備室へ呼び出した。
昨日と同じ机。
同じ黄色い線。
ただし、今日は誰もその線の上に足を乗せない。
三枝さんは、わたしの視線を受け止め、すぐに何かを察したようだった。
「何か、出ましたか」
「出ました」
わたしは机の上へ書類を並べる。
「二十四時間遅れで、言葉が再生されます」
三枝さんの指先が微かに跳ねた。
「昨日、わたしがここで発した言葉が、今日、同じ時刻に森川さんへ重なって聞こえました」
返事はない。
「あの緒は、人の心ではなく床と時計に結びついています」
入退室記録をその上へ重ねる。
「問題の言葉が刻み込まれた一昨日の六時四十分。ここにいたのは、三枝さんです」
三枝さんが視線を伏せる。
「大庭さんはいません」
次の用紙を置く。
「安全講習の控えも確認しました。森川さんは受講済み。あなたは未受講。外された男性二人も未受講です」
部屋が静まり返る。
天井の蛍光灯が低く鳴る音だけが響いていた。
「持ち去った一覧を、返してください」
三枝さんはしばらく身じろぎもしなかった。
やがて、ゆっくりと鞄を開ける。
四つ折りに畳まれた用紙を取り出し、机の上へ滑らせた。
「でも」
消え入りそうな声だった。
「同じでしょう」
わたしは何も言わない。
「口にしていないだけで、結局は同じはずです」
三枝さんは書類を見つめたまま、言葉を振り絞る。
「前にも言われました。夜は危ないから、女の子は残れって」
指先が用紙の角を強く押し潰す。
「別のときだって、女の子は記録係だけやっていればいいって言われたんです」
「それは」
「本当です」
「疑っていません」
三枝さんが顔を上げた。
「なら、分かるでしょう」
「共感することと、大庭さんが言ったかどうかの事実は別です」
「でも、あの人だってあっち側の人間です」
「今回の件は、違いました」
三枝さんの表情が歪む。
「言ってないなら、目に見える形にしただけです」
その告白を聞いて、ようやく三枝さんの動機が腑に落ちた。
悪意で嘘を仕立て上げたのではない。
彼女自身の信じる『正しい現実』へと、歪んだ手段で世界を寄せようとしたのだ。
「たとえあなたの怒りが正当だとしても、大庭さんが言ったことにはなりません」
「味方をしてくれないんですか」
胸の奥で、あの忌々しい呪縛が頭をもたげる。
――女は、視えればよい。
反吐が出るほど嫌いな言葉だった。
だからこそ、盲目的にその対極に立ちさえすれば正義になれると思い込んでいた。
不当に退けられている女がいるなら、無条件で女の側に立つ。
家の教えと逆を選びさえすれば、それが正しい行いだと信じて疑わなかった。
(ただ逆張りをしていれば済むと、思い上がっていた)
わたしは机の控えを見下ろす。
昨日、見ることを放棄した紙だ。
「三枝さん」
「はい」
「わたしは昨日、あなたの側へ無批判に立ちすぎました」
三枝さんの瞳が揺らぐ。
「けれど、ここから先を精算するのは、わたしではありません」
「……何をですか」
「大庭さんに、擦りつけた言葉を返すかどうかです」
三枝さんは長い沈黙に沈んだ。
四つ折りの折り目が深く刻まれた紙を見つめている。
「前に言われて傷ついたことまで、無かったことにはしたくないです」
「しなくていいです」
「でも」
彼女は紙を、こちら側へ押し戻した。
「あの人が口にしていない言葉は、返します」
◆
班の学生が集められた準備室で、三枝さんは自ら口を開いた。
「昨日聞こえた言葉は、大庭先輩の発言ではありません」
室内のざわめきが静止する。
「わたしが一昨日の同じ時間、この部屋で喋った言葉です。二十四時間経つと、その場に立っている人へ重なって聞こえる現象でした」
大庭さんは腕を組み、静かに聞いていた。
三枝さんは、抜き取っていた名簿も机へ戻す。
「ごめんなさい」
大庭さんは、すぐには言葉を返さなかった。
それでいい。
許しを急ぐ筋合いではない。
次は、わたしの番だった。
一歩、前へ出る。
「昨日の判断は、わたしの明確な誤りです」
喉が渇いて、声がかすかに擦れた。
けれど、目を逸らすわけにはいかない。
「怪異が騙したのではありません。わたしが都合よく意味を歪めました」
大庭さんの目をまっすぐに見つめる。
「確認できる事実を、確認しませんでした」
大庭さんは数秒の間、値踏みするようにわたしを見つめていた。
「分かりました」
短く、それだけを口にした。
胸の底にある鉛のような重みは消えない。
当然だ。
「班長は……」
森川さんが恐る恐る尋ねる。
大庭さんは静かに頭を振った。
「今夜の班分けは、もう決定しました」
元に戻せと口を挟む者は、誰一人いなかった。
わたしも口を噤んだ。
軽率に動かしてしまった現実は、頭を下げたからといって何事もなかったかのように巻き戻ることはない。
◆
黄色い線の上には、まだ微かに黒い緒が澱のように漂っていた。
三枝さんが検証のために残した言葉の残滓だろう。
何本かの糸が、床下で再生の刻限を待っている。
「今日だけ、装備の最終確認はあちらで行ってください」
線から二メートルほど外れた作業スペースを指し示す。
「この線、使わないんですか」
森川さんが首をかしげる。
「今日一日だけです」
それで足りる。
あの場所に誰も立たせなければいい。
新たな言葉を重ねて落とさなければいい。
刻限が訪れるたび、薄汚れた影が黄色い線の上に立ち上がった。
けれど誰の身体にも寄り添えない。
意味のちぎれた短い声だけが、虚空からぼとりと零れ落ちる。
途切れた罵声の断片。
誰かの吐き捨てたため息。
声は肉体を得られぬまま床へと散り、時計の文字盤へと吸い込まれて消滅していった。
最後の一本が蠢いたとき、準備室にはわたし一人しか残っていなかった。
影はもはや人の形を保つことすらできず、黄色い線の上でぐずぐずと崩れながら揺らめいている。
緒の向かう先を見届ける。
床。
時計。
ただ、それだけの仕掛け。
「誰かのものにしなくていい」
小さく呟く。
影の輪郭が急速に褪色していく。
最後の黒い糸が、時計の縁からぷつりと千切れた。
見届け、息を吐く。
これで、怪異は収束した。
◆
準備室の外へ出ると、廊下の陰で三枝さんが待っていた。
胸元に小さな茶封筒を抱えている。
「これ」
「何です」
「お礼です。解決したら渡すと約束していましたから」
わたしは差し出された封筒を一瞥した。
手は伸ばさない。
「今回は、受け取れません」
「でも、怪異の正体を突き止めてくれたじゃないですか」
「わたしは依頼を正しく扱えませんでした」
三枝さんは唇を震わせ、何かを言いかけた。
けれど、それ以上は言葉にならなかった。
「……分かりました」
封筒を鞄の底へとしまう。
わたしも、それ以上は何も語らなかった。
◆
帰り道。
夕闇の中、自転車を押して信号の手前で止まる。
歩行者信号が青に変わる。
いつものわたしなら、足元のペダルを一気に踏み込んで車道へ飛び出していただろう。
けれど、ペダルに足を乗せたまま、その場に留まった。
右を見る。
左を見る。
本当に車が来ていないかをもう一度確かめてから、ゆっくりとペダルを漕ぎ出した。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




