正しいほうの味方(前編)
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
三枝千紘は、野外調査準備室の扉を閉めた。
古い蛍光灯が、天井で低く鳴っている。
机の上には、翌日の夜間調査で使う反射材とヘッドライトが積まれていた。
三枝は、その横のファイルを開く。
安全講習受講者。
参加可否。
一枚だけ抜く。
破らず、四つ折りにして鞄へ入れた。
壁の丸時計を見る。
午後六時四十分。
床には、装備確認のための黄色い線が一本引かれている。
三枝は線の上に立った。
誰もいない部屋で、低く言う。
「女は危ないから、残ってろ」
一度、唇を閉じた。
少しだけ区切りを変える。
「女は危ないから。残ってろ」
何も起こらない。
三枝は床を見つめる。
それでいい、という顔をした。
携帯電話を開く。
宛先は、大庭直樹。
明日の六時四十分、装備確認をお願いします。
送信。
丸時計の秒針だけが、静かな部屋で時を刻んでいた。
◆
講義が終わったとき、廊下に知らない女子学生が立っていた。
学生が左右へ流れていく中で、その人だけ動かない。
こちらを見ている。
嫌な予感というものは、だいたい当たる。
「大津真琴さん、ですよね」
「そうです」
「少し、相談したいことがあります」
やはり当たった。
わたしは鞄の肩紐を直す。
「大学のことなら、事務へ」
「怪異のことです」
帰る理由が一つ消えた。
「依頼ですか」
「はい。お礼はします」
金額を聞く気にはなれなかった。
顔色が悪い。
寝不足というより、ずっと何かを思い詰めていたような顔だ。
「三枝千紘です。二回生です」
「で?」
三枝さんは、廊下を行く学生へ一度視線を向けた。
「男の人が言っていないはずの言葉を、その人自身の声で聞くんです」
わたしは黙った。
言っていない言葉。
本人から聞こえる。
聞き間違いなら、わざわざ相談に来るはずがない。
「誰です」
「大庭直樹さん。三回生です。明日の夜間調査のまとめ役をしています」
三枝さんは歩き出した。
わたしも横へ並ぶ。
「わたし、明日の調査から外されたんです」
「理由は」
「安全講習を受けていないから、って」
「それなら理由はあります」
「分かってます」
返事が早かった。
「でも、わたしが『女だからですか』って聞いたら、大庭さん、『そういう話じゃない。規則です』って、それだけで」
「それだけ?」
「終わりです」
三枝さんは唇を噛む。
「前にもあったんです。女の子は危ないから、とか。記録だけしてればいい、とか」
足が、一瞬だけ止まりかけた。
――女は、視えればよい。
昔からある家の言葉が、勝手に脳裏をかすめる。
便利な言葉だ。
女が何かをしたがったとき、できない理由を考えなくて済む。
「今回も、そういう意味にしか思えなくて」
三枝さんが言った。
わたしは返さない。
準備室の扉が見えてくる。
その前で、三枝さんが小さく息を吸った。
「真琴さんなら、正しいほうの味方をしてくれますよね」
妙な言い方だった。
正しいほう。
最初から、二つに分かれているみたいに聞こえる。
「まず、見ます」
それだけ答えた。
◆
野外調査準備室は、土と金属のにおいがした。
壁際に長靴。
棚には折り畳んだ反射ベスト。
大庭直樹さんは、机の上でヘッドライトを一つずつ点けていた。
「点灯、問題なし」
横で森川七瀬さんが紙へ丸をつける。
三回生。
女性だった。
「森川さんも、明日の調査へ?」
「行きます」
森川さんが答える。
三枝さんの肩が少し強張った。
大庭さんは、こちらを見る。
「三枝さん。もう説明しましたよね」
「わたしじゃなくて、この人に説明してください」
大庭さんの眉が寄った。
「安全講習を受けていない人は参加できません」
短い。
たしかに、もう少し言い方はある。
「男の人には、そんなこと言わないでしょう」
三枝さんが食い下がる。
「男も二人外してます」
大庭さんはヘッドライトを置いた。
「未受講だからです」
「森川先輩は行くじゃないですか」
「森川は受けてるから」
「経験者だからでしょう」
「だから、講習も終わってる」
議論は平行線をたどる。
女性の森川さんは参加する。
男性二人は参加しない。
これだけなら、性別で分けたようには見えない。
(見えないだけ、かもしれませんけれど)
わたしは三枝さんを見る。
彼女は大庭さんしか見ていない。
大庭さんは時計を確認した。
「先に装備を終わらせます。明日の班を組み直すなら、そのあとで」
「先に話してください」
「点検が先です」
「また規則ですか」
声が尖る。
わたしは二人の間へ割って入った。
床の黄色い線を踏む。
頭の奥に、まだ家訓の一行が残っていた。
「順番を変えてもいい」
自分で思ったより、硬い声になる。
二人が黙る。
わたしは線から外れた。
「大庭さん。先に一つだけ見せてください」
「何をです」
「いつも通り、装備を確認してください」
大庭さんが黄色い線の内側へ入る。
壁の時計を見る。
六時四十分。
秒針が、十二を越えた。
その瞬間だった。
大庭さんの足元から、光を吸い込むような黒い染みが音もなく立ち上がった。
煙ではない。
人の形に切り抜いた薄汚れた布を、背後から無理やり押し当てたような影。
冷気をまとった肩が、大庭さんの肩へ重なる。
首が重なる。
貼り付くように、口の位置まで重なった。
大庭さん本人の唇は固く結ばれている。
なのに、大庭さんの喉からではなく、その影の口元から直接、湿り気を帯びた声が漏れ出た。
「女は危ないから、残ってろ」
準備室の空気が、底からすっと凍りつく。
三枝さんが小さく言った。
「ほら」
大庭さんが振り向く。
「何です?」
何も聞こえていない顔だった。
わたしは影ではなく、その下を見る。
緒がある。
黒い影から、血管のように細い糸が伸びていた。
ただし、大庭さんの肉体には食い込んでいない。
足元をすり抜け、床の黄色い塗料の中へ深く沈み込んでいる。
そこから、もう一本。
壁の丸時計へ向かって、黒い糸がすっと這い上がっていた。
(人じゃない)
そう直感した。
ほんの一瞬。
けれどすぐに、別の考えが頭をもたげる。
強く押し殺した言葉なら、場所へ染み着くこともあるのかもしれない。
人へ向けた念が、いつも人だけに留まるとは限らない。
筋は、通る。
通る筋を見つけたとき、人は安心してしまう。
わたしも同じだった。
「その言葉は言っていない」
大庭さんが言った。
「本当に?」
「言ってません」
机のファイルへ手を伸ばす。
「講習の一覧があります。見れば――」
大庭さんの手が止まった。
紙を繰る。
もう一度繰る。
「……ない」
「何がです」
「参加可否の一覧。一枚、ない」
三枝さんが、わたしを見る。
「まだ確認するんですか」
その言葉だけが、耳元で囁かれたように妙に近く聞こえた。
前の件が脳裏をよぎる。
視えている。
分かっている。
それでも、証明できない。
確認を重ねるたびに、訴えた側だけが擦り切れていく。
そんな場面を、ついこのあいだ見たばかりだった。
控えを探す。
講習の担当者へ確認する。
別の記録を当たる。
取るべき手順はいくらでも思いついた。
でも、やめた。
(もう、十分でしょう)
そう思ってしまったからだ。
◆
準備室には、いつの間にか班の学生が何人か戻っていた。
装備を取りに来たらしい。
大庭さんが、もう一度繰り返す。
「僕は言っていません」
わたしは影の消え失せた床を見つめた。
黄色い線。
丸時計。
胸の奥に、拭えない違和感が残っている。
それでも、口を開いた。
「少なくとも、この部屋に残っているものは、あなたと重なっています」
断定はしていない。
そのつもりだった。
けれど、周りの学生たちの顔色が変わる。
森川さんが大庭さんを見る。
後ろの学生が、気まずそうに目を逸らした。
大庭さんは、向けられた視線を一つずつ受け止める。
「分かりました」
ヘッドライトを机へ置く。
「僕が抜けます」
三枝さんが顔を上げた。
「大庭さん」
「明日の班長、代わってもらいます。今から組み直します」
「そこまでしなくても」
森川さんが声をかける。
「このまま僕がまとめるほうが、やりにくいでしょう」
大庭さんは、わたしを責めなかった。
その沈黙が、かえって痛い。
鞄を持つ。
扉へ向かう。
ドアノブへ手をかけたところで、彼は足を止めた。
「大津さん」
「はい」
「それ、いつの僕の言葉ですか」
わたしは瞬きをする。
「いつ……?」
「僕が言ったっていうなら、いつ言ったんですか」
答えが出ない。
大庭さんは、それ以上何も言わずに出ていった。
扉が静かに閉まる。
わたしは黄色い線へ目を落とした。
次に、壁の丸時計を見る。
秒針だけが、何も知らない顔で進んでいた。
慈恩編のストックは、結構あるけど、
まこっちゃんの話のストックはない('ω')ノ白旗




