同じ顔のアカウント(後編)
その晩も、若槻さんへ伸びた緒が頭から離れなかった。
顔の本人は中原さんだ。
古いアカウントも、最初は中原さんが使っていた。
それなのに、念だけが若槻さんを本人だと言っている。
なら、わたしが見落としているものがあるのかもしれない。
そう考えて、中原さんに頼んで高校時代のアルバムを見せてもらった。
厚いページをめくるたび、紙が乾いた音を立てる。
三列目に、中原さんがいた。
いまより少し幼い。
けれど、同じ顔だ。
高校から付き合いがあるという友人にも、一人だけ話を聞いた。
芳賀さんが見た、入学したころの中原さんとも話はつながる。
どこから見ても、中原佳奈という人は、ずっとこの人だった。
そこで、ようやく考え方を変えた。
間違っているのは、中原さんではない。
怪異のほうだ。
◆
緒は、誰が本人かを教えている。
わたしは、いつの間にかそう決めていた。
けれど。
(本当に?)
視えたものが嘘をついたことはない。
だからといって、正しいとは限らない。
そう考えた瞬間、背中が少し冷えた。
怪異だって、見たものから考える。
人間と同じように。
◆
もう一度、古いアカウントの日記を開いた。
日記そのものではなく、今度はコメントを読む。
『佳奈らしい』
『こういう言い方するよね』
『やっぱり佳奈の日記は面白い』
似た言葉が何度も出てくる。
けれど、その人たちの多くは、中原さんに会ったことがない。
知っているのは、顔写真と、画面の中の言葉だけだ。
そして、その言葉を書いていたのは――途中から、ほとんど若槻さんだった。
そこで、やっとつながった。
この怪異が覚えているのは、中原佳奈という人間そのものではない。
長いあいだ日記を読んだ人たちが、
「中原佳奈は、こういう人だ」
と思い続けた、その形だ。
面白い。
少し意地が悪い。
でも最後には笑わせる。
コメントには丁寧に返す。
それを作ったのは若槻さんだった。
だから中原さんが、自分の言葉で新しい日記を書けば――怪異には別人に見える。
いつもの佳奈ではない。
偽物だ。
(……筋は通っていますわね)
腹が立つくらいに。
人違いのままで。
◆
二人には、同じ空き教室へ来てもらった。
窓から入る夕方の光で、机の表面が白く見える。
わたしが分かったことを話し終えるまで、若槻さんは黙っていた。
最初に口を開いたのは彼女だった。
「でも、書いたのは私です」
「はい」
「プロフィールだって直したし、日記も、返事も」
声が少しずつ強くなる。
「面白いって言われたのも、優しいって言われたのも、私が書いたものです」
「それも、そうでしょうね」
若槻さんが顔を上げた。
わたしが否定しなかったのが意外だったらしい。
「じゃあ」
「文章は、若槻さんのものです」
そこは分ける。
「でも、中原さんの名前まで、若槻さんのものになるわけではありません」
若槻さんの口が止まった。
「……あの子が自分で書いたら、誰も読まないかもしれないですよ」
今度は、中原さんの肩がわずかに動いた。
「それでもです」
わたしは答えた。
「誰に読まれるかまで、若槻さんが決めることではありません」
◆
「わたしも、悪かったんです」
中原さんが言った。
鞄を膝に置き、両手で抱えている。
「最初は、嬉しかったから」
若槻さんの書いた日記にコメントがついた。
面白いと言われた。
会ったこともない人から、好きだと言われたこともあった。
「自分のことじゃないのに、自分が褒められてるみたいで」
中原さんは笑おうとして、やめた。
「だから、ずっとそのままにしました」
そこは、中原さん自身が引き受けるしかない。
「頼んだのは、中原さんです」
「はい」
「やめるのが遅かったのも」
「……はい」
若槻さんが横を向いた。
「でも」
わたしは続けた。
「やめたいと言ったあとまで、名前を使われる責任はありません」
中原さんが顔を上げた。
若槻さんは、しばらく何も言わなかった。
◆
「古いほうは、いりません」
中原さんが決めた。
「取り返さなくていいです」
「いいんですか?」
「わたしだけのものじゃないから」
日記を見た。
「沙月が書いたものを、全部わたしのものにするのも違うと思う」
若槻さんの顔が、少しだけ動いた。
何か言いかけて、結局言わなかった。
代わりに端末の前へ座る。
古いアカウントを開いた。
それから椅子を引いた。
「今日だけ」
中原さんを見る。
「これを書いたら、終わりにする」
中原さんは、ゆっくり頷いた。
席を替わった。
最初の一行を打つ。
消す。
もう一度打つ。
また消す。
画面の文字より、キーを消す音のほうが多い。
やがて、一行が残った。
『この日記は、途中から友人と二人で書いていました。』
そこから先は、少しずつだった。
黙っていたこと。
そのことで自分も得をしていたこと。
このアカウントで日記を書くのは、これで終わりにすること。
新しいほうでは、自分の言葉で書くこと。
最後まで打ち終えると、中原さんは手を止めた。
「これで」
若槻さんを見る。
「終わりにして」
しばらくして。
「……うん」
小さな返事があった。
若槻さんが自分の名前で何かを書くかどうかは、二人の話ではない。
少なくとも、わたしが決めることではなかった。
◆
更新された古いページと、新しいページ。
二枚とも紙に刷った。
机へ並べる。
同じ顔が二つ。
「名前を書いてください」
二人がこちらを見る。
「自分が書いたほうに」
古いページには、中原佳奈と若槻沙月。
新しいページには、中原佳奈。
二人の字が並んだところで、古いページから伸びていた緒が、かすかに揺れた。
初めてだった。
わたしは古いほうの紙へ護符を置く。
「あなたが覚えていた人は」
緒を見る。
まだ若槻さんへ曲がっている。
「最初から、一人ではなかったんです」
顔は一人。
言葉は二人。
それを、ひとつの人間だと思い込んだ。
人間も。
この怪異も。
「だから、もう」
護符を指で押さえた。
「間違えなくていい」
張っていた緒が、ふっと緩んだ。
若槻さんのところで外れる。
だからといって、中原さんへ結び直されることもなかった。
ただ、ほどけていく。
最後には、何も残らなかった。
誰か一人を「本物」に決める必要が、なくなったのだ。
◆
翌日。
中原さんは、新しいアカウントに短い日記を書いた。
古いほうには、何も出ない。
先回りもしない。
わたしのページにも、登録する前の足あとは増えなかった。
昼すぎ。
新しい日記に、ひとつコメントがついた。
芳賀さんだった。
『こっちでもよろしく』
それだけだった。
中原さんは、しばらくその一行を見ていたらしい。
◆
帰り際。
ふと思い出した。
「……ところで」
二人がこちらを見る。
言いかけて、やめた。
どちらも学生だ。
今回、わたしを呼んだのも二人ではない。
(誰に請求すればいいんですの、これ)
答えは分かっている。
あの怪異だ。
そして怪異には、たぶん財布がない。
◆
帰り道で、自分の財布を開いた。
小銭が数枚。
自販機の前で止まる。
一番安い飲み物を見る。
買えないわけではない。
ただし押せば、明日の昼が少し寂しくなる。
(怪異から依頼を受けるなら、先に支払い能力を確認する)
そこまで考えて、やめた。
(……どうやって?)
夕方の暑さの中、自販機を離れる。
大学まで戻れば、水飲み場がある。
(……水道水は、無料ですわね)
今日いちばん現実的な答えだった。
水道代が嵩む。°(°´ᯅ° )°。`




