第一話『見てたよ』
その更衣室に、窓はない。
壁も天井も、ただの箱だ。
それなのに、中のことだけが外へ出ていく。
『右足、まだ痛そうだね』
携帯の画面に、それだけ出ていた。
◆
見せてきたのは、川瀬美里さんという一回生だった。
一般教養の教室で、いつも三列前に座っている。
名前は知っていた。
話したことはなかった。
「大津さん。こういうの、わかるって聞いて」
「こういうの」
「……お祓いとか」
教室の隅で、携帯を両手で持っている。
熱いものを持つ持ち方だった。
爪は短く切ってある。
指の関節が太い。
部活をしている手だ。
教室の蛍光灯が、一本だけ点滅していた。
間隔が気になって、わたしは一度そちらを見た。
「まず警察では」
「行きました。いたずらでしょうって」
そうだろう。
文字だけでは、事件にならない。
警察が動くのは、体か物が減ったときだ。
文字は、何も減らさない。
「それで、わたくしのところへ」
舌打ちした。
「……わたしのところへ」
川瀬さんは頷いた。
頷いてから、目を伏せた。
(また、お祓いですの)
(視えるというだけで、便利屋にされます)
顔には出さなかった。
「報酬は」
「えっ」
「ただ働きはしません。家賃がありますので」
川瀬さんは鞄を開けた。
出てきたのは、スポーツドリンクの箱だった。
「部の差し入れの、余りです」
「一箱」
「一箱です」
安い。
受けた。
自転車の前籠に入るかどうかは、あとで考えることにした。
箱は、持ち上げると思ったより重い。
帰り道の坂を、先に思い浮かべた。
思い浮かべてから、受けたことを少しだけ悔やんだ。
◆
届いた文は、三通あった。
一通目は、二回生の藤崎玲奈さんに来ている。
右の足首に、テーピングを巻き直した日の夜だ。
練習中は長い靴下とジャージで隠れている。
部の誰にも、痛いと言っていない。
川瀬さんが、そのときのことを話した。
「玲奈さん、その日、更衣室に残っていたんです」
「一人で」
「一人で」
二通目が、川瀬さんに来た。
『今日は泣かなかったね』
前の日、川瀬さんは更衣室で泣いていた。
監督と話したあとで、一人で残っていたという。
泣いた日のことは、誰にも言っていない。
「泣かなかったね、って」
「はい」
「昨日は泣いた、と知っている人の書き方ですね」
川瀬さんの指が、携帯の縁を押さえた。
押さえた指の関節が白い。
三通目は、三回生の谷津さんに来ていた。
『左から二番目、開けっぱなしだったよ』
ロッカーの話だ。
鍵を掛け忘れた日の、番号まで合っていた。
外からは見えない。
中に入らなければ、書けない。
(見ているのではなく、入っているのですわ)
舌打ちした。
(……入っている)
◆
体育館は、坂を上りきった先にある。
自転車を押して上った。
箱は、前籠に半分だけ乗った。
残りは抱えた。
夕方の体育館は、音が高いところで鳴る。
床のきしみと、笛と、誰かの靴の音。
女子更衣室は、その音から一枚扉を挟んだ内側にあった。
鍵は部のマネージャーが持っていた。
中は、思ったより狭い。
スチールのロッカーが二列。
真ん中にベンチが一本。
奥に、鏡と流しがある。
消毒の匂いと、湿った布の匂いが半分ずつだった。
ロッカーの塗装は、角から剥げている。
番号の札は、手書きで貼り直したものが混じっていた。
ベンチの座面だけ、艶が出ている。
人の座る場所は、木でもすぐわかる。
流しの下に、蓋つきの箱が置いてあった。
わたしは順に潰していった。
窓はない。
明かり取りの小窓も、ない。
天井は、板が張りっぱなしで点検口がない。
換気口は上の隅に一つある。
手のひらほどの大きさだ。
人の目は入らない。
壁を押した。
どこも動かない。
穴もない。
ロッカーの裏へ手を入れた。
壁との間は、指が三本も入らない。
人は隠れられない。
膝をついて、ロッカーの下も見た。
埃と、髪の毛と、絆創膏の紙。
人の暮らしの屑だけがあった。
ロッカーの上に手を伸ばした。
埃が指についた。
薄い。
誰かが、ときどき拭いている。
指の先が、金属に触れた。
平たい板だ。
配管の点検口の蓋だろう。
古い建物には、どこにでもある。
わたしは手を下ろした。
カメラはなかった。
電池も、配線も、光る小さな点も。
探し方は知っている。
家の仕事で、もっと嫌なものを探したことがある。
あのときは、天井の裏に一つあった。
思い出したくない。
◆
式札を一枚出した。
紙は薄い。
体育館の湿気で、少しだけやわらかい。
指で切ると、札は紙の鳥になった。
鳥はベンチの上を一周した。
それから、床に降りた。
降りたきり、動かない。
緒がない。
人から物へ伸びる線も。
物から人へ入る線も。
死んだ人の匂いも、生きた人の念も。
何も残っていない。
わたしは、その場で立ち止まった。
(おかしい)
人が怖がっている部屋は、もっと汚れる。
怖がるというのは、念を落としていく行為だ。
毎日誰かが震えていれば、壁の隅に灰みたいに溜まる。
ここには、それがない。
拭いたように、ない。
いや。
拭いたのではない。
最初から、落ちていないのだ。
(怪異でないものが、ここにいますわね)
言い直す前に、鳥が戻ってきた。
戻り方は、普通だった。
嫌がってもいない。
式神が嫌がらないのは、相手が人だからだ。
鳥を札に戻して、袖へ入れた。
指に、紙の乾いた感触が残った。
◆
部員の話も聞いた。
最初に疑われたのは、男子の部だった。
体育館は共用で、扉一枚の向こうが男子の更衣室になる。
「一人、カメラ好きな子がおるんです」
マネージャーがそう言った。
言ってから、言い過ぎたという顔をした。
「好き、というだけでは足りません」
「そうですけど」
「送られた三日とも、その人が体育館にいた記録はありますか」
なかった。
二日は試合で、県外にいた。
いちばん単純な線が、最初に消えた。
単純な線は好きだ。
通ったことは、あまりない。
好きなものほど、当たらない。
当たらないものから、人はいちばん先に疑っていく。
◆
帰るころには、外が暗くなっていた。
体育館の廊下は、夜になると長く見える。
蛍光灯が一本切れかけていて、その下だけ白が薄い。
外はもう暗い。
窓に、廊下の明かりだけが映っている。
体育館の音は止んでいた。
止んだあとの建物は、昼より広く感じる。
出口へ向かう途中で、奥に人がいた。
背中だった。
小柄で、黒っぽいジャージを着ている。
肩から下へ、黒いものが垂れていた。
髪だと思った。
長い髪だ。
顔は見えない。
その人は、清掃のワゴンの横を曲がった。
更衣室のほうへ歩いていく。
足音がしない。
上履きの音も、床の鳴りも。
「――どなたですの」
声が出た。
言い直す間もなく、走った。
角を曲がった。
誰もいない。
ワゴンだけが、壁に寄せて置いてある。
モップの柄が濡れていた。
使ったばかりだ。
使った人が、近くにいる。
更衣室の扉が、ゆっくり閉まるところだった。
わたしは扉を押した。
中は暗い。
明かりをつけた。
誰もいない。
ロッカーが二列。
ベンチが一本。
鏡に、わたしだけが映っていた。
髪が乱れている。
直さなかった。
息が上がっていた。
走ったからだ。
そう思うことにした。
(人ではない、のかもしれません)
その見立てを、わたしはその場で立てた。
立てたことを、あとで悔やむことになる。
◆
下宿へ戻って、箱を土間に置いた。
スポーツドリンクは十二本入っていた。
一本飲んだ。
甘い。
冷蔵庫には、もやしが半分だけ残っていた。
炒めるつもりで、そのままにした。
レポートの締切は、来週だ。
風呂を沸かしながら、今日見たものを並べた。
窓なし。
天井なし。
壁なし。
カメラなし。
念もなし。
なのに、中のことだけが外へ出ている。
並べ終えたところで、携帯が鳴った。
知らないアドレスだった。
開いた。
『見つけた?』
湯の音が、やけに大きく聞こえた。




