⑤宝物殿と聞いてもまったく心が躍らない人もいたわ
翌朝。
客室の窓から差し込む朝日で目を覚ました。
昨夜の深い眠りのおかげで、長旅の疲労は跡形もなく消え去っていた。
身体の隅々まで活力が満ち溢れ、まるで飛び跳ねる兎のように軽やかな気分である。
硬めのパンに野菜のスープという質素だけど美味しい朝食を平らげると、満足感で胸がいっぱいになる。
詩人にとって、睡眠不足も空腹も、どちらも創造力の大敵だ。
充分な眠りと満たされた胃があってこそ、美しい韻律が生まれるというものである。
その両方が満たされた今朝は、元気いっぱい好奇心いっぱいである。
上機嫌で鼻歌を口ずさみながら、隣室のアルフレッドを迎えに向かう。
厚い木の扉を軽やかにノックすると、ボソボソと声が返ってきた。
「開いているぞ」
扉を開けて中に足を踏み入れた瞬間、思わず足が止まった。
アルフレッドが木製のテーブルに身を屈め、こぼれたパン屑を指先で一粒ずつ丁寧に拾い集めては皿に戻していた。
その集中ぶりは凄まじかった。まるで敵陣をどう攻めるか検討している軍師のようである。 ……いや、どちらかというと落ちている餌を探す鳩みたいだ。
私は思わず尋ねる。
「それは……何をしているの?」
「見てわからないか? パンの欠片を拾っているんだ」
「……見ればわかるわ。なんで拾っているのかって話」
「そりゃ綺麗好きだからだ」
「あなたって几帳面なのか大雑把なのか、時々判断に困るわね」
彼の表情は敵と対峙するかのように真剣そのものだった。あまりに真剣だったので、一瞬、これで詩が書けるのではないかという気持ちになってしまう。
パン屑と格闘する騎士。
うーん、詩の題材にするには、少々間が抜けすぎている気もする。
いや、ユーモレスク曲ならいけるかも。
「……今、俺を歌の題材にしようとか考えなかったか?」
アルフレッドの鋭い指摘に苦笑する。なぜこんな時ばかり勘が働くのだろう。
「流石。ご名答! タイトルは、そうね……『パン屑と鳩騎士』」
からかうように笑うと、アルフレッドは不機嫌そうにそっぽを向いた。
「そんな馬鹿げた詩、絶対に作るなよ」
そんな具合で他愛のない会話を交わしていると、扉に控えめなノック音が響いた。
「どうぞ」
外に向かって返事をする。
「俺の部屋だぞ。勝手に入室許可するな」と不満そうなアルフレッドは無視する。
現れたのは、人の良さそうな初老の神官だった。小柄でふくよかな体型に、常に口元に張り付いているような温和な笑みを浮かべている。細い目に、団子のような鼻。どこか計算高い商人のような印象を受ける男だった。
「おはようございます。ミュゼッタ殿とアルフレッド殿ですね。シスリィ様からお二人のご事情は伺っております」
その声は少し鼻にかかったような響きを持っていた。
「本日は宝物殿へご案内させていただきます。宝物殿の管理を担当しております上級神官のエフロックと申します」
宝物殿という言葉を聞いた瞬間、私の気分は跳ね上がる。
「宝物殿! そうだったわ! 宝物殿に入れてもらえるんだった!」
思わず椅子から飛び上がり、隣に座るアルフレッドの肩を興奮のあまりバシバシと連打してしまう。彼は迷惑そうに眉をひそめ「やめろ」と小さく呟いた。
「だって仕方ないじゃない! 宝物殿と聞いて心が躍らない人なんて、この世にいるはずがないわよ!」
私の興奮は止まらない。
「どんな聖遺物が眠っているのかしら? 聖騎士イーゴの聖剣はもちろん、古代から伝わる秘宝の数々。伝説の武具に、黄金の装飾品、きらめく宝石の数々、たくさんの金貨……」
頭の中は宝物殿への妄想で埋め尽くされ、歩き始める前から息が弾んでいた。エフロックは私の熱狂ぶりを微笑ましげに眺めている。
「神殿の宝物殿だぞ? 宝石やら金貨やら、そんな成金貴族の金庫の中身みたいなはずがないだろう。どうせ燭台とか女神像とかそんなものだ」
アルフレッドが、ぼそりと口にする。
私はため息をつく。
「訂正。宝物殿と聞いてもまったく心が躍らない人もいたわ」
エフロックの案内で私たちは神殿の深部へと向かった。
昨日通った参拝者用の煌びやかな廊下とは異なり、ここは神官専用の区域らしい。
通路の幅は狭く、装飾も最小限に抑えられている。
おそらく、機能性を重視した作りなのだろうけど、少しばかり息苦しさを感じる。
でも同時に、きっとこれが神殿本来の厳粛さなのだろうという納得感もあった。
道中で何人もの神官や巫女、神殿騎士とすれ違う。
通路が狭いのでどちらか一方が道を譲らなければならない。
意外と位が高いのか、ほとんどの神官はエフロックに道を譲っていた。
エフロックの話では、この神殿では、百人ほどの神官や巫女が暮らしているらしい。
長い回廊は外光を完全に遮断しており、薄闇に包まれている。
壁に等間隔で設置された松明の炎が、ゆらゆらと揺らめいていて、なんとも幻想的である。
私はわざと声を潜めて囁いた。
「これから私たち、宝物殿に忍び込むみたいよね。なんだかワクワクする」
「盗賊気分で宝物殿に入ろうとするなよ……物がなくなったら真っ先に疑われるぞ」
アルフレッドは心底呆れかえったという表情を浮かべた。
「この怪しげな雰囲気がそう思わせているのよ。見て、松明に照らされて、私たちの影が壁に映って揺らめいている……うわ、なんだか亡霊の行列みたいじゃない? ぞくぞくするわよね。ちょっと怖いかも……」
「神殿に幽霊なんぞ出てたまるか」
すると、前を歩いていたエフロックが真顔で振り返った。
「それが……そうでもないんですよ」
ぼそっと口にする。石壁に反響した声がやけに響く。
「これは、昨日の夜中のことです……。私が寝付けなくて神殿内を散歩していると、誰もいないはずの礼拝堂から、誰かの祈りの声が聞こえてくるのです……。まるで溺れた者が、水の中から助けを乞うているような……苦しげな……そんな呻きにも似た祈りの声が──」
エフロックはあえて声を低くして言う。私は思わずアルフレッドの袖をぎゅっと掴む。
「……まさか、本当に出るの……?」
恐る恐る尋ねると、エフロックは急に口元を緩め、肩をすくめた。
「うっふっふ。それがですね、実は、風邪ひきの神官が、のどが痛くて昼に祈れなかったので夜中に一人で祈っていただけでした。私も幽霊かと思ってびっくりしてしまいましたよ。まあ、夜中にも歩き回っている神官や巫女は多いですからね。出くわすとしてもそっちでしょうな」
エフロックは笑いながら、ふくよかなお腹を撫でた。
その人懐っこい笑い顔にちょっとだけ腹がたった。
この狸ジジイ……。
さらに奥へ進む。
やがて長い回廊の突き当たりに、荘厳な両開きの扉が姿を現した。
黒鉄で補強された重厚な扉。そしてその扉の前には、まるで白い彫像のような二つの人影が微動だにせず立っていた。
「ひっ……」
薄暗がりの中で白い影を目にした瞬間、先ほどのエフロックの霊の話を思い出し、私は思わず声を上げてしまった。
しかし目を凝らしてみれば、それは真っ白な甲冑に身を包んだ神殿騎士たちだった。
暗闇の中で甲冑の白色が浮かび上がって、あたかも亡霊のように見えてしまったらしい。
「……びっくりした。本当に幽霊が出たのかと思った」
「ご安心ください、幽霊ではありません」
エフロックが笑いながら説明する。
「彼らは宝物殿の守護騎士です。神殿の秘宝を守る、特別優秀な騎士達なのです」
エフロックが重厚な扉を指差しながら、誇らしげに胸を張った。
「そして、この扉は特別な鍵と結界魔法によって封じられております。神殿でも限られた者のみが立ち入りを許される聖域です。王宮の金庫にも負けない厳重さを自負しております」
エフロックの説明に期待が高まる。
この扉の向こうには、きっと数々の英雄たちの遺産が眠っているに違いない。
彼らが愛用した武器、古代の王が身に着けた装身具、神話の時代から語り継がれる奇跡の品々。
「ねえアル、聞こえない? 扉の向こうから古の英雄達の囁き声が!」
「英雄の囁き? 亡霊達の呻き声じゃないのか? さっきも怖がっていたろう」
私は黙ってアルフレッドの脛を軽く蹴った。
くぐもった呻き声が響いた。




