㊳それをできるのですか、と聞いているんです
一瞬の出来事だった。
ビーニィの動きに反応する間もなく、気づいたときには剣の切っ先が喉元に突きつけられていた。
呼吸を整えようとするが、うまくいかない。指先が微かに震えている。
アルフレッドが腰の剣に手をかけるのが見える。私は彼に視線を送り、口角をわずかに上げて見せる。「大丈夫」という意思表示だ。彼も察したようで、剣から手を離した。信頼されている。その気持ちだけで勇気づけられる。
「ビーニィさん、剣を下ろしてください」
声だけはなんとか平静を保ててはいる。しかし、実のところ、冷静を装ってはいるが、心臓は早鐘のように高鳴っている。一歩間違えば、私は命を失うのだから。
「黙れ」
冷たく切り裂くような口調。けれど、その声は少しばかり震えている。決壊しそうな感情をかろうじて押し留めているのだろう。彼女にはまだ話し合いができる余地がある。私の『言葉』を届けることができる。
「このあと、どうするつもりですか」
しばらくの間を経て、彼女は絞り出すように呟いた。
「……お前たちを全員消す。そうすれば真相を知る者はいなくなる」
おそらく虚勢ではない。覚悟を決めた人間の眼をしている。
「できますか」
問いかける。
「……できないと思うか」
ビーニィが答える。
アルフレッドは病み上がりで本調子ではないし、ディフォーも動揺して身動きがとれないでいる。彼女の心が決まった瞬間、私の首は身体から離れ、その後、アルフレッドもディフォーも切り伏せられるだろう。できるかできないか、で言えば、おそらくできる。
でも──今の彼女は。
「……シスリィ様の目の前で、あなたはそれをできるのですか、と聞いているんです」
彼女の視線がシスリィに向いた。剣先が、ほんのわずかに下がる。
シスリィは何も言わない。ただその紫の瞳が、静かにビーニィを見つめていた。責めるでもなく、涙をこぼすでもなく、ただまっすぐに、彼女だけをじっと見つめている。
やがてシスリィの唇がかすかに動いた。声には出していない。それでも確かに、その口はビーニィの名を呼んでいた。まるで祈りの聖句でも呟くように。
ビーニィの張り詰めていた空気が少しずつ和らいでいく。彼女の心が揺らいでいるのがわかる。
誰も口を開かない。刃を向けられている状況はそのままだが、安堵に近い感情が湧きあがる。もう大丈夫。そう確信する。私は畳み掛けるように続ける。
「……ビーニィさん。あなたが罪を重ねたのは、シスリィ様を守るためだった。それは疑いようがありません。でも、気づいていますか? 今あなたはシスリィ様をより昏く深い底なしの場所に導こうとしている。……本当にそれはシスリィ様の未来のためになることなのですか?」
シスリィが迷いのない足取りでビーニィの前に歩み寄る。
そして彼女の目をじっと見つめる。その眼差しは私の拙い説得以上にビーニィの心を揺れ動かしているようだった。
「シスリィ様……」
助けを求めるようなか細い声でビーニィはシスリィの名を呼んだ。シスリィはゆっくりと頷き、微笑んだ。
「ビーニィ。あなたが私を見ていてくれたように、私もずっと、あなたを見ていました。あの牢の中で、あなたが来てくれたあの日から、私は、ずっと──ずっとあなたの隣に並んで立っていたかった」
乾いた音が石床に響いた。ビーニィの手から離れた剣が、無機質に転がる音だ。
ビーニィの頬に涙が伝う。彼女はその場に膝をつき、顔を伏せた。
「だから、私と二人で、罪を償って生きましょう」
シスリィが微笑むと、ビーニィはそのまま声もなく泣いた。
シスリィとビーニィ。二人の間に穏やかな時間が流れていた。どうやらこの神殿を舞台とした凄惨な物語もようやく終着点を迎えようしている。そう思えた。
私はそっと胸を撫で下ろす。
だからこそ、その声はあまりに唐突で。
「……ふざけるな」
振り返るとディフォーが立っていた。しかしそれは、私が知っているディフォーではなかった。あの快活な青年の面影は見当たらない。ただ、冷えた眼差しをシスリィに向けている仮面のような無表情の男。
「何故、俺だけ、何も知らされていなかった……」
声が震えている。怒りではない。それよりもずっと深い場所から来る何か。これはきっと──絶望。
「シスリィ様……俺だって、あなたを守るために命を捨てる覚悟があったんですよ?」
唇の端が歪む。
「……何も知らずに、何も疑わずに……ビーニィとシスリィ様を信じて……これじゃあ俺はただの道化じゃないか。ふふ……はははは……」
彼の口から渇いた笑い声が漏れた。しかしその目は、笑うことを完全に忘れてしまったように、ただ虚ろに輝いている。
不意に彼は叫んだ。
「……俺が命がけで守ろうとしていたものは! 心から尊敬していた相手は! 心を許した仲間は! ただの犯罪者とその主人だったって事か? シスリィ様が狂王の娘だと? そんな馬鹿な事があってたまるか!」
それは怒号というよりも心から搾り出した慟哭のように思えた。
ディフォーが腰の剣を抜く。速い。突然のことで誰も動けない。声も出ない。
そのままディフォーが踏み込んだ。
その速さに思考が追いつかない。叫ぼうとしても声が出ない。足が動かない。アルフレッドも立ち尽くしたまま。ただ、刃がビーニィへ向かって弧を描く。誰にも止められない。
ビーニィが、斬られる——。
「——っ!」
そう思った次の瞬間、二人の間に白い影が飛び込んだ。
押し飛ばされたビーニィがよろめく。振るわれた刃はビーニィの頬をかすめただけ。だが、白い影——シスリィの身体は深々と切り裂かれていた。
それはほんの一瞬の出来事だったのに、まるで時がゆっくりと進んでいるかのように見えた。
シスリィが倒れる。
ビーニィが咄嗟に彼女を抱き止める。
ディフォーは自分がシスリィを斬ってしまった事にショックを受けているようで、呆然としていた。
「シスリィ様!」
ビーニィが叫んだ。
「なぜ——なぜなんです! どうして私を!」
「ビーニィ……」
シスリィの唇が動く。声はか細い。だが、ハッキリとした意思を感じさせる口調。
彼女はビーニィの頬に手を差し伸べる
「顔に……怪我をしたのね……」
純白の衣を侵食するように真っ赤な血が広がっていく。
「私の傷などどうでもいい! 早く治癒魔法を自分に——」
シスリィがかすかに首を振る。その唇の端は、奇妙なほど穏やかだった。
「落ち着いて、ビーニィ」
シスリィが小さく笑う。苦しい筈だ。笑顔なんて作れないくらいに痛みと闘っている筈だ。それでも彼女は笑った。
シスリィは指先でそっとビーニィの頬に触れた。そして傷口の血を拭う。
「……何を」
「……いいから、じっとして」
静かな、しかし有無を言わせない声だった。
柔らかな光が、ビーニィの頬を包んだ。
シスリィの指の隙間から溢れる淡い輝きが、傷を静かに塞いでいく。
ビーニィは声を出せないでいた。ただ固く唇を結んで、抱えているシスリィの顔を見つめている。
「なぜ……」
絞り出すような声が、ようやく漏れた。
「なぜ、あなたは……こんな時まで、自分ではなく他人を癒そうとするのですか……!」
シスリィは答えなかった。
しばらくして——光が消えた。
ビーニィの頬の傷が消えていた。かすり傷だったからか、跡は残っていない。
「……他人じゃないわ。あなたは、私の大切な人」
ビーニィが震える声で名を呼ぶ。
「シスリィ様──」
「……良かった。軽い傷だったから、綺麗に消せた。顔に一生の傷痕が残ってはいけないもの」
シスリィが微笑んだ。ビーニィが唇を噛み締める。
「そんな事……」
「あなたは……本当は、とても綺麗なんだから、もっと着飾って、オシャレをして欲しいと、ずっと思っていたのよ……」
「……シスリィ様、お願いです! ご自身を治療してください……!」
シスリィはゆっくりと首を横に振った。
「……この傷では、もう無理よ」
彼女の声は穏やかだった。
「そんな——そんな——嫌です! シスリィ様!」
ビーニィは泣き崩れる。誰かに見られているかどうかなど関係なく、顔を崩して泣き叫ぶ。
「……ビーニィ」
シスリィが、力の抜けた手でビーニィの手を握る。
「あなたはずっと……私のために、生きてきてくれた」
シスリィの目が、ビーニィをまっすぐに見つめている。その紫の瞳が少しずつ生気を失っていく。
「でも……これからは……あなた自身のために……生きて……」
「シスリィ様……!」
ビーニィの目から大粒の涙が溢れる。
「あなたが……生きてくれるなら……私は最後まで癒し手だったと……胸を、張れるか、ら……」
ビーニィの嗚咽が、部屋中に響いた。
「駄目! 行かないでください!」
「……ビーニィ……」
「お願いです! ずっと、ずっと一緒にいると誓ってください! お願い!」
シスリィの唇が、最後にかすかに動いた。
声は、もう聞こえなかった。
けれど、その唇の動きから、彼女が何を言っているのか私にだけはわかった。
——ありがとう。
シスリィの瞳から徐々に光が消えていく。
彼女はゆっくりと目を閉じ、永遠の眠りについた。
ビーニィは、しばらくの間、彼女を抱えたまま動かなかった。




