㊲私はただ、自分の手の甲を見つめていた
部屋の中は静まり返っている。
シスリィがビーニィに視線を向ける。その紫色の瞳には、怒りも憎しみもなかった。
ただ、今まで知らずにいた何かを確かめずにはいられないように見えた。
「ビーニィ……」
その声は、かすかに震えていた。
「本当に……あなたが神殿長の命を奪ったのですか? あの方は自ら罪に耐えかねて命を絶ったのだと私に語ったのは……偽りだったの?」
ビーニィは答えなかった。目を伏せたまま、剣の柄に置いた指先だけが、わずかに動いている。シスリィの指先が、白くなるほど強く握りしめられていた。
「ビーニィ……お願い……答えて」
懇願でも命令でもなく。自分自身に言い聞かせているような声だった。
その言葉でビーニィの肩からふっと力が抜けた。剣の柄にかかっていた手が静かに離れる。
そして彼女は、薄く微笑んだ。
「……ええ。そうです。すべて私がやったことです」
押し殺した声だった。
ビーニィが私の方を向く。
「シスリィ様は、私に言われるがまま、私の肩を切除し、そして傷を癒してくださった。それだけです。暗殺者も神殿長も──その命を奪ったのは私です」
「ビーニィ……」
シスリィが絶望に沈んだ声で小さくその名を呼んだ。
「……彼女一人の罪ではありません」
シスリィは私へ顔を向け、訴えるように続けた。
「……私は、彼女が懲罰房で何をするのか知っていました。知りながら、それでも手を貸しました。私の出自が明るみに出れば、私は殺されるかもしれない。旧王朝の生き残りがいるとわかれば、それを口実に戦争を始める者が出るかもしれない──そういう言い訳を並べて……私は癒しの力を……命を奪うことに使ってしまった」
「おやめください!」
ビーニィが顔を上げる。
「私を庇う必要はありません!」
「いいえ。あなただけに罪を背負わせることはしません。私もあなたと──」
「違うのです!」
ビーニィは力無く首を振る。
「……違うのです、シスリィ様」
言葉にできない感情が、内側から彼女を押しつぶそうとしているように見えた。
「……私には、あなたと共に罪を背負う資格がありません」
彼女は、一度だけ強く目を閉じた。
そして、次に開けたとき、その瞳は、真っ直ぐにシスリィだけを見つめていた。
「私はずっと──ずっとシスリィ様、あなたを騙し続けてきたのですから」
シスリィの表情が固まる。何を言われたのか、うまく飲み込めていないようだった。
「……騙して、いた?」
「……はい」
ビーニィは、それだけ言うと、口をつぐんだ。言葉を探しているのか、それとも、この先を言うことをためらっているのか。
少しの沈黙の末、彼女は意を決した様子で言った。
「──私は──シスリィ様を取り上げた産婆の娘です」
シスリィは口を開きかけた。だが彼女は何も言わなかった。ビーニィの言葉をじっと待っている。
「……私は、最初からすべてを知っていました。知った上で、あなたにお仕えしていたのです。ずっと真実を隠し続けて……」
シスリィは口を閉じたまま動かなかった。ビーニィの言葉の意味を理解することを拒むように、微動だにしない。
「今までずっと隠してきました。ですが……これ以上、あなたへの裏切りを続けるわけにはいかない」
ビーニィは、己の胸に刃を押し込むかのように、苦しそうに言葉を続けた。
「スケイズの王子──あなたの兄にあたる方の本当の父親は、エイワン神殿長です」
「──は?」
ディフォーが裏返ったような声を出す。アルフレッドは、何も言わなかった。ただ、神妙な顔で成り行きを見守っている。
「后はそれを知りながら真実を隠し、不義の子を王位継承者として育て続けた。神殿長も、己の血を分けた息子が王座に就くと知りながら黙っていた。妃と神殿長は──国を、そして王を欺く共犯者だったのです」
「なんだそれは……」ディフォーが掠れた声を出した。誰に向けたものでもない、思わず口をついて出た言葉なのだろう。
「しかし、運命とは皮肉なものです」
ビーニィの声が苦々しい響きを帯びていく。
「やがて后は、ハイエイト王との間に真の子を授かった。しかも、産まれてきた赤子の瞳は──紛れもない王族の証、紫色をしていたのです。それが──シスリィ様、あなたです」
シスリィは何も言わない。その瞳に、静かに涙が盛り上がっていくのが見えた。
「そして、后は恐れました。シスリィ様の存在によって、『兄王子』の血筋への疑念が生まれる事を。あなたの瞳が、己の不貞を暴き立てるのではないか、と。だから……生まれたばかりの娘を死産だったと偽り、辺境の小神殿へと幽閉するように手配した。実の母親が、我が子を石牢に閉じ込めるよう仕向けたのです」
「待って……ビーニィ、何を……言っているの……?」
シスリィが絞り出すように言った。
「幽閉……? そんなはずないわ。苛烈な性格のお父様から私を逃がすために、お母様は私を守るために泣く泣く地方の小神殿に匿ってくださった。──ずっと前に貴女はそう私に教えてくれたではないですか!」
すがるようなシスリィの言葉に、部屋の中の誰もが言葉を失った。
「……あなたを傷つけたくなかった。だから……ずっと嘘をついていました……」
項垂れながらビーニィが言う。シスリィは信じられないものを見る目で彼女を見つめていた。
ビーニィは耐えられないという表情で、シスリィから目を逸らした。そして私に向かって言った。
「……先程、ミュゼッタ殿は言いましたね。私が神殿長に絵画を破壊するよう仕向けたのは、シスリィ様を守るためだったと。でも……それだけでは、なかった」
ビーニィの声に少しばかり熱がこもる。これは、この感情は、きっと──怒りだ。
「私は許せなかった。シスリィ様の人生を壊した妃と神殿長が。だからこそ、あの女の肖像画を神殿長に自ら処分させるよう仕向けた。せめてもの、意趣返しとして」
「ビーニィ……」
名を呼ばれて、ビーニィが顔を上げる。
シスリィの目は彼女を責めていなかった。
ただ──深く、悲しげだった。
その悲しみが、責めるよりもずっと重く、ビーニィを苛んでいるように見えた。
ビーニィは悲しげな目をすると、微かに微笑んだ。
シスリィは何も言わなかった。ただ、彼女の言葉を聞いていた。
「シスリィ様。私は、ずっとあなたの護衛をつとめてきました。しかし本当は、あなたの監視役だったのです」
「監視役……」
シスリィの唇が、その言葉をなぞるように動いた。
「あの神殿で、あなたの面倒を見ていた老巫女を覚えているでしょう。──あの女が、私の母です。そして、妃の密命を受けてあなたを幽閉していた、初代の監視者です」
シスリィの表情は変わらない。ただ真っ直ぐにビーニィの唇の動きを追っている。
「私がその役割の本当の意味を知ったのは、八歳になったばかりの頃でした。母は私に言いました──いずれお前がこの役目を引き継ぎ、この子を一生、誰の目にも触れさせずに管理しろ、と」
シスリィは目を伏せた。睫毛の先に、涙が光っている。
「あなたを監視し、真実を表に出さないようにするための人生。それが私の一生の使命だと。私は──そのように育てられたのです」
ビーニィの目が遠くを見つめる。
「でも──」
彼女の声色が少しだけ柔らかく変わる。
「初めてシスリィ様に出会った時のことは、今でも忘れられません」
そう微笑むビーニィは、先ほどまでの荒々しい感情がどこへ消えたのかわからないくらいに穏やかだった。
「五つにもみたない幼い子が、石の牢の中で足枷をさせられ──じっとこちらを見ていた。怖がりもせず、泣きもせず、ただ静かに座っていた。言葉もろくに知らなくて。自分が何者かもわかっていないような──無力で、守られるべき存在なのだ、とそう思いました」
ビーニィの声は掠れている。それは泣きそうになっているからなのか、それとも感情の昂りによるものか。私にはわからなかった、
「その瞬間から、私は、自分に課せられたことの空虚さに絶望しました。この子の何を監視しろというのか。何もできない幼子ではないか、と」
ビーニィは唇を噛んだ。
「私は──母に背くとわかっていながら、あなたを育てること選んだ。あなたに文字を教え、本を読んで、おしゃべりをして……いつかあなたが外の世界で暮らせるように」
「……覚えています」
シスリィが静かに口を開いた。
涙が一筋、頬を流れた。
「あなたが、すべてを教えてくれた。持ってきてくれた本の中に、癒しの魔法について書かれた古い文書があって……」
「癒しの魔法の基礎教本。あなたは食い入るように読んでいましたね」
ビーニィは薄っすらと微笑んだ。でもその表情はどこか悲しそうで。
「産まれた時から幽閉され、傷つけられ続けてきたのに──それでもあなたが魔法に望んだことは『誰かを助けたい』だった」
ビーニィはまっすぐにシスリィを見つめている。
「そんなあなただから、私は一生をかけて守ろうと誓った。監視という使命よりも、あなたという存在を守りたかった。だからその日から神殿騎士見習いを目指したのです」
「あなたはよく怪我をしたから、私の魔法もどんどん上達しましたね」
シスリィが、涙をこらえながら小さく笑った。儚い、壊れそうな笑みだった。
「驚きました。あなたはあっという間に治癒魔法の扱いに長けていった。医学書も上位の魔法書も読破して、その内容を身につけていった。いつの間にか神殿の誰よりも、治癒魔法を扱えるようになっていた」
しばらく、二人とも黙っていた。
穏やかな沈黙だった。ほんの一瞬だけ、部屋の中に二人の過去が戻ってきたように。
「でも──母が、あなたの治癒魔法の才能に気づいた」
ビーニィの声が低く沈んだ。
「表に出すなという命令があったはずなのに、母は、あなたの才能を金に換えようとした。足枷をつけたまま、眼を眼帯で覆わせ、神殿を訪れた者を癒させて、金銭を受け取っていた。あなたの意思など関係なく、あなたが魔力を使い果たして昏倒しても、その次の日にはまるで癒しの魔道具でも扱うように、毎日毎日無理をさせて……」
拳が握られる。そこには隠しきれない怒りがあった。
「私は、その行いが許せなかった。しかし諌めることもできなかった。ただ、そこにいることしかできなかった。私は、こんな何もできない自分が悔しくてたまらなかった」
ビーニィは目を伏せた。そして──顔を上げ、私を見た。
「そんな状態が何年も続いていた。しかし、転機がおとずれた」
彼女はじっと私の目を見つめる。聞いて欲しいという意思を感じる。私はまっすぐに彼女の目を見つめ返した。
「ハイエイト王が、私たちの暮らす小神殿に現れたのです」
部屋の空気が、変わった気がした。
「王はその信仰心から、素性を隠して諸都市の神殿をめぐっていました。その日も何の気なしに立ち寄った地方神殿で──眼帯をし、足枷をつけた子どもが、ひたむきに人々を癒す姿を見たのです」
ビーニィの声が響く。
「それは本当に偶然でした。──偶然、王の目の前で、シスリィ様の眼帯の紐が緩んで──ずり落ちた。そして王は目にしたのです。紫色の瞳を」
誰も口を開かなかった。普段なら茶々の一つも入れそうなアルフレッドでさえ、眉間に深く皺を寄せ、黙りこくっていた。
「驚愕した王はその場にいた母を問い詰め、母はすべてを白状した。后の命で、この子をここに幽閉していると。妃と神殿長の不貞も、王子が神殿長の息子であることも。すべて洗いざらいに。……真実を知った王がどうなったか──あなたならもうわかるでしょう」
ビーニィはどこか遠くを見るように語っている。
「后に欺かれていたこと。世継ぎと定めた息子が己の血を引かぬ子であったこと。死んだと思っていた娘が──幼少期の自分と同じように、幽閉され虐げられていたこと。そしてそれを行ったのが、最愛の妻と、かつて友と呼んでいた男であったこと」
シスリィが目を閉じた。祈っているのかもしれない。
「彼の中で、信じていたものがすべて崩れ落ちた。裏切りと絶望に飲まれ、かの王は──狂王となった」
ビーニィが静かに言う。誰も何も言えない。あまりにも衝撃的な話に皆が言葉を失っていた。
「王は剣を抜き、まず目の前の私の母を殺しました。神殿にいた者は神官も、巫女も、みな斬り捨て、そのまま神殿に火を放った」
声が震えている。きっとビーニィにとっても恐ろしい体験だったに違いない。
「私も──殺されかけました」
ほんの僅かな沈黙。ビーニィが唾を飲み込む。
「しかし」
ビーニィの目が、シスリィに向いた。
「シスリィ様が、私をかばってくださった」
シスリィが目を開く。
「返り血で染まった父親の前に──小さな体で立ちはだかって『この人だけは』と私を庇ってくれた。私はあなたに命を救われたのです」
今度こそ、シスリィの涙が溢れた。静かに大粒の雫が頬を伝っていく。
「……覚えて……」
かすかに、唇が動く。
「覚えています……」
「王は剣を収め、私に命じました。『娘の従者として、生涯仕えよ』と。私はそこで王に誓いました。『この命に換えてもシスリィ様を生涯守り続ける』と」
しばらく、誰も喋らなかった。
ビーニィがゆっくりと息をつく。
「王は私たちを残し、どこかへ去っていきました。私たちには、その後のことは長い間わかりませんでした。ただ──風のように流れてきた噂で、多くのことを知りました」
誰も、ビーニィの言葉を遮らなかった。
「王妃と王子の首が落とされたこと。神殿長だけが、たまたまエリクス総本山に出向いており、難を逃れたこと。民の目には、王の行いはただの乱心に映ったこと」
ディフォーが、静かに目を伏せた。なんとも言えない表情をしている。きっと私も似たような顔をしているのだろう。
「そして、やがて他国の連合軍によって、王は討たれました」
ビーニィは一瞬、言葉を切った。その沈黙に、何かが詰まっているようだった。
「シスリィ様の存在は、最後まで世に明かされることはありませんでした。おそらく、真実を知っている者は、神殿長と私くらいのものだったでしょう」
話を聞きながら、私はただ、自分の手の甲を見つめていた。詩人の性か、この話を歌う自分を想像してしまう。しかし、どうしてもその姿を思い浮かべることができなかった。見つめている手が、ひどく他人のもののように思えた。
「神殿が燃えてから八年」
ビーニィの声が、ふと柔らかくなった。
「私たちは二人だけで支え合って生きてきました。誰も力も借りず、二人でずっと旅をして暮らしました」
それだけを言って、ビーニィは少しの間黙った。
「最初の頃、シスリィ様は外の世界の何もかもに戸惑っていました。石畳の感触も、市場の喧騒も、雨の匂いさえも。全てが新鮮で輝いて見える、とあなたは語った。牢の中では知らなかったものばかりだったから」
シスリィが、かすかに目を細めた。
「旅の途中であなたが熱を出した時のことを覚えています。熱があるのに、あなたは私の擦り傷を癒そうとした。人の傷を癒すことを誰よりも厭わないくせに、自分の身体を労ることだけは、ひどく不得手で」
シスリィの口元が動く。微笑みかけようとして、それをこらえたようだった。
「立ち寄る町で多くの人々を癒して、噂が広まれば次の土地へ移って。あなたは一度も、立ち止まらなかった。誰かを助けることを、やめなかった」
ビーニィの声が、わずかに震えている。涙は流れ出ていないが、私には彼女が泣いているように思えた。
「私にはわかっていました。立ち止まれば、あの夜のことを思い出してしまうから。だから歩き続けていたのだと。だから私も、黙って貴女に寄り添って歩き続けた」
長い沈黙が、部屋を満たした。
シスリィは涙を拭おうともせず、ただビーニィを見ていた。その目に、責める様子はなかった。ただ──深く、静かな悲しみがあった。
「ずっと……私は何もかもを知っていながら、あなたの従者のふりをしていた」
ビーニィが搾り出すような声で言う。
「幽閉された石の部屋から。血に濡れた神殿の夜から。名も明かせぬ旅の果てまで」
ビーニィがシスリィを見つめる。
「だから私は──」
低く、静かに、全くもって自然な口調で、彼女は呟くように言った。
「あなたを守るためなら、何でもします」
その言葉が、部屋の空気を凍らせた。
誰もが、それが単なる決意表明ではないと悟った瞬間だった。
ビーニィが一歩踏み出す。
鞘を鳴らす音もなく、剣が抜き放たれていた。




