㉜あなたは知りたくなかった事実を知ってしまったらどうする?
松明の灯りが仄かに照らす地下通路を進むと、ほどなくして鉄の扉が闇の中に浮かび上がった。
目的の懲罰房だ。
鍵は開け放たれたまま、見張りの姿もない。無防備な程に静まり返っているけれど、それも無理はないだろう。神殿にとって、この事件はすでに「解決した」ものとして扱われているのだから。
石と鉄だけで組み上げられたその空間は、恐ろしいほどに冷たく、物々しかった。
人を閉じ込めるためだけに存在する場所。
この懲罰房という場所が、神官や巫女の恐怖の対象であったことは、疑いようもない。
湿り気を帯びた、夜の匂いが鼻を掠める。
あの夜も、きっと同じ匂いが満ちていたのだろう。
人狼が殺された、あの夜。
この場所が密室と化した、事件の夜だ。
この空間が密室となった理由は、三つある。
鍵が内側から閉ざされていたこと。
遺体が扉を塞ぐように倒れていたこと。
そして、唯一外界と繋がる小窓は、人間の身体が通り抜けられるような大きさではないこと。
私はまず、扉を調べ始めた。
内開きの重い鉄扉だ。こじ開けた形跡も、何か細工を施した痕跡も、どこにも見当たらない。
次に鍵穴に目を落とすが、ここにも異常らしい異常はない。
ぐるり部屋の中を見渡す。
ふと、視線を上げると、小窓が目に入った。細長く切り取られたその開口部から、月光が一筋、静かに差し込んでいる。冷たいはずのその光は、どこか澄んでいて、床には鉄格子の影がくっきりと刻まれていた。
私は思わず一歩、前へと踏み出した。
立ち位置が変われば、月光の当たり方もまた変わる。
牢の奥から差し込む細い光の帯は、扉のすぐ手前の床を照らしていた。
──扉の前。
私はゆっくりとその場所に視線を落とす。
そこは、人狼が倒れていた場所だ。
人狼の倒れていた場所に、月の光が当たっている。
その事実に触れた瞬間、脳裏に当時の情景が、まるで物語を紡いでいるときのように、鮮やかに映し出された。
「……そうか……そういうことだったのね」
思わず、声が漏れる。
人狼が受けていた傷は、確かに致命傷だった。だが、命が完全に尽きるまでには、わずかながら猶予があったはずだ。
月の光。
ライカンスロープにとってそれは、獣性を呼び覚ますきっかけであり、強靭な肉体と再生の力を呼び起こす呼び水に他ならない。
もし彼が、人の姿のまま致命傷を負い、その本能が生存を求めて狼への変化を欲したのだとしたら。
そうだ。
彼は動いたのだ。
少しでも生き延びる可能性のある場所へ。
月光の届く、この一点へ。
人の姿のままでは死を免れないと悟った刹那、なんとか狼へと変じようと足掻いたのだろう。
だが、間に合わなかった。
月を浴び、獣の姿を取り戻した直後、彼は狼のまま、扉の前で力尽きたのだ。
──だから、死体はそこにあった。
そして結果として、密室が生まれてしまった。
私は月光と影の境界に立ち、静かに息を吐く。
──それでも、密室そのものの謎が解けたわけではない。
首を振り、軽く頭をかく。人狼が扉の前で息絶えていたのは偶然ではなく、生き延びようと月光の届く場所まで這い進んだ結果だったのだと、そこまでは理解できた。
だが、それだけだ。
私はゆっくりと懲罰房の内部を見渡す。床、壁、そして小窓の鉄格子。何度目を凝らしても、構造そのものが変わるはずもない。
人狼が扉の前で横たわっていた理由は解けても、肝心の一点は依然として霧の中だ。
鍵はかかっていた。
扉は壊されていない。
鉄格子の隙間は、人が通り抜けられる幅ではない。
そして出口には、人狼の亡骸。
密室は、なお密室のままだ。
外から刺したはずもない。中に踏み込まなければ、人狼を刺すことは不可能だ。
答えへと至る道筋が、どうしても見えてこない。人狼が確かにこの中で殺されたことだけは間違いないのに、そこに立つ犯人の姿を、私はどうしても思い描くことができなかった。
どうやって、この中へ入ったというのだろう。
まるで物語のたった一行だけが、何者かの手によって意図的に削り取られているかのようだった。
──わからない。
私は冷たい石壁に、そっと背を預ける。
そのときだった。
耳の奥に、微かな音が届いた。
ほとんど無音と言っていいほど静まり返った懲罰房の中だからこそ気づけた、ごくかすかな音。衣の内側、革紐に下げた小袋の中から漏れた、金属のこすれる音。
胸元に手をやり、小さな革袋に触れる。中を探ると、指先に触れたのは冷たい二つの金属片だった。取り出してみれば、それは真っ二つに割れた銀貨。
私はその銀貨を見つめながら、独り言のように呟いた。
「……ねえ、アルフレッド」
「ん?」
「この神殿へ来る途中、船の上で船頭さんが出した謎かけ、覚えてる?」
「また急だな」
一瞬の沈黙。
それから、彼は小さく笑った。
「ああ。銀貨を小さな穴に通すっていう……」
「そう、それよ」
私は再び、小窓に嵌った鉄格子へと視線を戻す。
格子の間隔は、頭ならば通り抜けられる。だが、肩までは通らない。華奢な女性でも、子どもでも、肩が引っかかってしまう以上、人間が通り抜けるのは不可能だと、私たちは結論づけていた。だからこそ、これは完全な密室のはずだった。
だが、手のひらの上で二つに分かれた銀貨の重みが、まったく別の可能性を私に囁きかけてくる。
あのとき、彼がとった行動は?
あのとき、彼は何と言っていた?
彼は銀貨を真っ二つにしてこう言ったのだ。
『こうやって銀貨を切ってしまえば、通せるだろう』
あの時のアルフレッドの勝ち誇ったような顔を思い出しつつ、私は、息を呑んだ。
「──そういうこと」
私は月光の差す床へと視線を落とす。光と影が織りなす境界線が、鉄格子の間隔を、あまりにも正確に映し出していた。
背筋に、冷たいものが走る。
「アル、あなたのお手柄よ」
不思議そうな顔で、アルフレッドが私を見つめている。
「なんだ? 何かわかったっていうのか?」
私は頷く。
一つのどうしても解けなかった謎が明らかになったことで、様々な謎が連続的に解き明かされていく。
そう、今まで起こった事件のすべてに意味があった。そして、それらはすべて繋がっていた。
物語の欠片は、すべて集まった。
神殿を舞台とした、一編の物語が完成した。
「……全部、繋がったわ」
私は胸元から、二つに割れた銀貨を取り出し、指先でそっと転がした。月光を受けて、それは鈍く、しかし確かな光を放つ。
でも、私の考えが正しいとしたら、なんて──救いようのない結末だろう。
私は本当にこの物語を光の元に晒しても良いの?
私は深く息を吸い込み、銀貨を強く握りしめた。
手のひらに軽い痛みが走る。
その痛みだけが、今の私を現実に繋ぎ止めていた。
今まで、何のために真実という扉を開けようとしていたのだろう。
正義のためか、それともただ自分の知的好奇心を満たすための傲慢か。
答えは出ない。わからない。
「ねえ、アルフレッド。聞いて良い?」
「なんだ?」
「……あなたは知りたくなかった事実を知ってしまったらどうする?」
アルフレッドはしばらく眉間に皺を寄せていたが、軽く笑うと言った。
「知ってしまったんならどうしようもないだろう。受け入れるしか無い」
簡単に言ってくれるわね。そう心の中で呟きながら、私は小さく笑った。
「そうよね」
私はぎゅっと銀貨を握る。
手のひらに軽い痛みが走った。
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