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⑭『すごいな』じゃないわよ!

 自室に戻ってからの半刻は、私の人生で最も長く重苦しい時間だった。


 もし治癒が間に合わなかったらアルフレッドはどうなるのか。


 例え、治療が上手くいったとしても、彼の左腕が、もう二度と動かなくなってしまったら。


 万が一にもそうなってしまったら、それはもはや償えない、取り返しのつかない罪として私を死ぬまで苛むだろう。


 私の心は、ただひたすら不安に飲まれていった。


 重圧に押し潰されそうになっていたその時だった。

 誰かが控えめにノックする音。

 私は飛び上がるように立ち上がり、扉を開けた。


 そこに立っていたのは、ディフォーだった。疲労の色が濃いが、その眼差しには、かすかな安堵が浮かんでいる。


「アルフレッド殿の治療が終わりました。シスリィ様がお呼びです」


「……アルは……アルフレッドは助かったんですか?」


「一命を取り留めました。今はまだ起き上がれない状態ですが」


 私はディフォーの言葉を最後まで聞く前に、彼の横をすり抜け、廊下へ飛び出した。


ディフォーは「あ、ちょっと待って」と私を追いかけようとしたが、私の足は既に、治療室へ向かって走り出していた。


 私は治療室にたどり着くとノックもせずに中へ入った。


 部屋の中は随分と静かだった。

 シスリィは、疲れたように寝台のすぐ横の椅子にもたれていた。その額には、わずかに汗が滲んでいる。隣には、ビーニィが甲冑姿のまま、彼女の額の汗を拭っていた。


 寝台の上には、アルフレッドが横たわっていた。

 私は、彼の傍に駆け寄った。

 彼の顔は、まだ血の気が少なく、青ざめている。しかし、その呼吸は穏やかで、深い眠りについているようだった。

 私は恐る恐る彼の左腕を見た。


「あ……」


 切り落とされたはずの左腕は、元の場所に戻っていた。

 繋ぎ目には、生々しい薄桃色の傷跡が一直線に走っているが、紛れもなく、左腕はそこにあった。


「奇跡だわ……」


 私は、その接合された腕をじっと見つめた。まさか、失われた腕が元通りにくっつくなんて!


 シスリィの力は、少しくらいは誇張された話だと思っていた。

 何日にもわたる治療でくっつけることができたといった奇跡なのだと思っていた。


 しかし、その力は、私が想像していたよりも、遥かに凄まじいものだったのだ。


 シスリィは、私の驚きの声を聞いて、ゆっくりと目を開けた。


「無事に終わりました」


 その声には、極度の集中を要した後の疲労がにじんでいた。


「シスリィ様……ありがとうございます……本当に……本当にありがとうございます」


 感謝の言葉がひどく陳腐に響く。

 でも、本心からの言葉だった。

 シスリィは静かに微笑んだ。


「失血が多かったため、途中で気を失っていたのでしょう。まだ意識は戻りませんが、命に別状はありません。じきに回復して、意識も戻るでしょう」


 私は安堵で膝が震えるのを感じながら、改めて彼の腕の傷跡に視線を落とした。


「あの……この腕の傷跡は……消えないのでしょうか?」


 私の問いに、シスリィは一瞬だけ表情を曇らせた。


「残念ながら、無理です」


 彼女ははっきりと答えた。

 万能とも思えるような奇跡の治癒魔法だが、やはり限界は存在する。その無情さを告げる言葉だった。


「治癒魔法は時間を巻き戻すようなものではありません。一度身体から完全に離れてしまったものを、何の痕跡も残さずに完璧に元通りに戻すことは不可能です」


 シスリィは立ち上がり、首を振りながら言った。


「ミュゼッタ様。アルフレッド様のそばにいてあげてください。彼が目を覚ました時、あなたが隣にいることが、何よりも彼の救いになることでしょう」


 私は、シスリィからの許可を得て、アルフレッドのそばに座り込んだ。私の心は、まだ罪悪感と安堵の狭間で揺れていたが、彼の鼓動を近くで感じられるという事実が、何よりも私を落ち着かせてくれた。




 やがて、朝が来た。

 カーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいる。治療室の空気はまだ少し冷たい。

 私は寝台の傍らで、ひとりでずっと椅子に座ったまま、彼の手を握っていた。

 夜明けとともに、ふと彼の指が微かに動いたのを感じた。


「……アルフレッド?」


 その名を呼ぶと、アルフレッドのまぶたがゆっくりと開いた。

 ぼんやりとした視線が私を捉える。

 彼と目が合う。

 その瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出た。


「よかった……本当に良かった……あなた、生きてるのよ? わかる?」


 嗚咽が混じり、言葉が続かない。

 彼はしばらくのあいだ、ぼうっと天井を見つめていたが、やがて弱々しく息を吐いた。


「……ここは……神殿か? 俺は……助かったのか?」


 掠れた声だが、しっかりとした口調だった。

 私は首を縦に振りながら、その手を強く握りしめた。無骨な手が、力なく握り返してくる。


「アル……ごめんなさい。全部、私のせい……。ごめんなさい……」


 彼は私の懺悔をただ静かに聞いていた。

 その瞳に怒りも恨みもなかった。

 代わりに穏やかな微笑みを浮かべる。


「お前のせいじゃない。俺は職務を全うした。それだけのことだ」


 その一言で、胸の奥に溜まっていたものが一気に噴き出す。

 私は俯き、嗚咽を抑えきれずに涙を落とした。

 彼はゆっくりと体を起こそうとしたが、まだ力が入らないのか、枕の上で少し呻いた。

 私は慌てて支える。


「無理しないで……まだ、安静にしなきゃ」


「……大丈夫だ」


 そう言いながら、アルフレッドはゆっくりと左手を上げた。

 そして、私の髪にそっと触れた。


「俺はお前の『護衛』だからな。お前を守るのは当然のことだろう」


 髪の毛越しに感じる手のひらの温かさが心地良かった。

 私はただ、涙の粒を零しながら、言葉もなく頷いた。

 ふと、アルフレッドの表情にわずかな違和感が走った。

 彼は、自分の左腕を見つめている。


「……そういえば」


 少し眉を寄せながら、彼は呟いた。


「俺は、左腕を引き裂かれた気がするんだが」


 私は息を呑み、そして微笑んだ。


「ええ。確かにあなたは一度左腕を失ったわ」


 彼の視線の先、包帯の下から覗く肌は、血の通った人間の腕だった。

 指も動いている。


「でも、シスリィ様が、治してくださったのよ」


 アルフレッドは驚いたように瞬きをした。


「……あの巫女姫が?」


「ええ。盲目の巫女姫の力は本物だったって事」


 彼はしばし黙り、再び左手を見つめた。

 指を折り曲げ、開き、確かめるように何度も繰り返す。


「すごいな……」


 ああ、いつものアルフレッドだ。

 涙を拭いながら、笑って返す。


「『すごいな』じゃないわよ! まさに奇跡よ。あなた、出血多量で死んでてもおかしくなかったんだから」


 アルフレッドもかすかに笑った。

 その笑顔を見て、ようやく私は心から安堵した。


「……奇跡、か」


「そうよ」


 私は小さく息を吸い、窓から射し込む朝の光を見た。

 その光は、夜の苦しみを溶かすように、静かに部屋を照らしていた。

 アルフレッドは少し目を細めて、私を見た。


「なんにせよ、お前が無事でよかった」


 彼はそれ以上は何も言わなかった。そして眼を閉じた。


 アルフレッドはそのまますぐに、また深い眠りに落ちてしまった。

 しばらく無音の部屋の中で、私はアルフレッドの寝顔を見つめていた。


 そろそろ一度自室に戻ろうかと思った頃、治療室の扉が開いた。

 入ってきたのはシスリィの護衛騎士、ビーニィだった。

 反射的に身構えた私を前に、彼女は一礼し、扉を閉める。その仕草にいつもの隙のなさはある。だが、整ったその顔の奥に、隠しきれない疲れが見える。


「アルフレッド殿の容体はいかがですか」


 低く落ち着いた声。でも以前のような冷たさは感じなかった。


「一度目を覚ましましたが……また眠ってしまいました」


「……あなたは、夜通し付き添っていたのですね」


 その声には、ほんの少しだけ、彼女なりの優しさが混じっているような気がした。

 ビーニィは寝台へ近づき、静かにアルフレッドの顔を覗き込んだ。


「顔に血の気が戻ってきています。じきに動けるようになるでしょう」


「……そうですか……良かった」


 その言葉に、胸の奥から力が抜けた。

 張りつめていた気持ちがわずかに和らぐ。

 私は深く息を吐いた。

 だが、ビーニィはそのまま立ち去らなかった。

 彼女は一呼吸置いて、こちらに向き直ると言った。


「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」


 その声色には、どこか切羽詰まったような切実さが感じられた。


「ええ」頷いてみせる。


「実は──昨晩の件について、あなたの意見を伺いたいのです」


 意外だった。

 巫女姫の護衛騎士が外部の人間に意見を求めるということがあるのだろうか。私は戸惑いながらも頷いた。


「昨晩の襲撃には、どうにも腑に落ちない点があります」


 彼女は眉間に深い皺を寄せる。


「神殿内では昼夜を問わず、神官や巫女が行き交い、要所要所を神殿騎士が守っています。特にシスリィ様がおられる上層の居住区は、中央大聖堂を経て、いくつもの階段をのぼらなければ辿り着けません。各階層には常に複数の騎士が詰めており、武器を隠し持った暗殺者が素通りし、特定の部屋に忍び込むことなど、本来はあり得ないことです」


 ここ数日の滞在で、神殿の構造はだいたい頭に入っている。ビーニィが言っていることは間違いないだろう。


「あの侵入者は、誰にも見咎められず、シスリィ様の部屋に辿り着いた。私があの部屋を毎夜護衛していなければ……おそらく、今ごろシスリィ様は……」


 言葉が途切れた。彼女は唇を噛みしめ、わずかに目を伏せる。


「警備に不備があったとは思えません。だからこそ、どうやって侵入したのか、その手段がわからない。このままでは、また同じ事が起こる可能性がある。シスリィ様の安全を確保したとは言えない状態です」


 確かにそうだ。どうやって侵入者は神殿内部の、それも最奥とも言えるような場所に入り込んだのだろうか。

 アルフレッドの怪我に気を取られ、そこまで考えてはいなかったが、実に奇妙なことだ。

 例のライカンスロープは、警備の目をどうやって掻い潜ったというのだろう。


「侵入者は捕らえました。ですが、この件はまだ何も解決していない。いつまたシスリィ様が狙われるか、わかったものではない」


 そう言って、ビーニィは短く沈黙した。

 思考の底で何かを選び取るような間。

 やがて、まっすぐに私を見据える。


「ミュゼッタ殿。ひとつお願いがございます」


「……お願い?」


「暗殺者がどうやって侵入したのか、その手口を調べていただきたいのです」


 ビーニィはまっすぐに私を見つめる。真剣なまなざし。しかしどこか焦りが見える。


「今、シスリィ様の命が狙われている以上、あの方から無闇に護衛を遠ざけることはできません。私かディフォーのどちらかが常にあの方をお守りせねばなりません。そこで、信頼できる方に、我々に代わってこの件を調査してもらうほかないと考えました」


 信頼できる。そう言ってもらえるのは素直に嬉しい。だが、疑問もある。


「なぜ私なんですか?」


 ビーニィは短く息を整え、言葉を選ぶように答えた。


「この神殿でのシスリィ様のお立場は、少々込み入っております。私やディフォーが表立って動く事を快く思わない連中もおります」


 以前に聞いた『派閥』というやつか。

 彼女の口調が淡々としているぶん、妙な説得力があった。


「つまり、神殿に対して私に密偵のようなことをしろと?」


 ビーニィは苦々しげに頷く。


「あなたは王家付きの宮廷詩人、アルフレッド殿は王家の護衛。身元は明らかで、神殿のしがらみにも無縁。本件の調査を託すに値する人物だと考えます」


「私たちがわざと危険にあった演技をしている可能性もありますよ?」


 そういった私にビーニィは眼を細める。


「アルフレッド殿は生死の境を彷徨いました。演技でそこまでするとは思えません」


 確かにその通りだ。実際に暗殺者とは全く接点がない、というのは、私自身がよくわかっているのだけれど。


「それは、シスリィ様も承知の事ですか?」


「ええ」


 私はしばらく返事をできずにいた。ビーニィが再び口をひらく。


「あなたはあの夜の当事者です。誰が、何のために暗殺者を差し向けたのか──その真実を明らかにすることは、シスリィ様を守るということだけでなく、あなた自身が知りたいことではないのですか?」


 ビーニィの言葉で私の心は大きく揺らぐ。

 

 私の行動が、アルフレッドの命を危険に晒した。

 軽率な好奇心が招いた結果だ。

 だから私は、もう危険なことには首を突っ込まないと決めたはずだった。


 だが、目の前のビーニィは言う。


「真実を明かすことが、シスリィ様を守ることになる」と。


 正直に言えば、アルフレッドが回復したら、この神殿を去るつもりでいた。

 一度、命の危険にさらされたのだ。誰も私を責めはしないだろう。

 アルフレッドも、きっと同意してくれる。

 事件から目を逸らし、逃げ出してしまえばいい。

 知らぬふりをして、二度と関わらなければ、もう、誰も傷つかない。


 ……本当に、そうだろうか。


 誰も傷つかないのは、『私の目の届く範囲だけ』のことではないか。

 事件が終わっていないのなら、この先も、誰かが血を流す。

 あの命を落とした青年神官のように。


 寝台の上で、アルフレッドが穏やかな寝息を立てている。

 顔色はまだ青白く、一歩間違えば、彼も命を落としていた。

 それでも私は、今ここに生きている。

 彼が、身を投げ出して守ってくれたからだ。

 彼がいなければ、私も死んでいた。


『護衛なんだから、守るのは当然だ』


 あのとき、目を開けて彼が言った言葉が、胸によみがえる。

 彼は、私を守った。

 ならば今度は、私が『誰か』を守る番なのではないだろうか。


 気づけば、唇が勝手に動いていた。


「……わかりました」


 まだ、正直悩んでいる。

 だが、確かに自分の中に小さな決意が芽生えるのを感じていた。


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