⑬まるで罪人のように歩き出した。
その瞬間、あらゆる音が遠ざかった。
中庭を満たしていた風のざわめきも、獣の唸り声も、何もかもが一切耳に入らなかった。
ただ、自分の鼓動の音だけがうるさいくらいに響いていた。
アルフレッドの左の肘から先が無くなっている。
目の前で起きたことが理解できなかった。
理解したくなかった。
夥しい量の血が石畳に広がっていく。
それでもアルフレッドは、剣を構えたまま微動だにしない。その視線は、目の前の敵をまっすぐに見据えていた。
その姿に私は息を呑んだ。
目を逸らしたいような光景。でも、目を逸らしてはいけない。そんな気がした。
人狼は、血の匂いに昂っているのか、喉の奥から獰猛な唸り声を上げた。
牙を剥き出しにして笑う。
その金色の瞳には、アルフレッドへの嘲りともとれる余裕が見てとれた。
あれは戦う者の目じゃない。一方的に狩りをする快楽に酔った目だ。
その視線の先には隻腕になったアルフレッドがいる。
もはや対等な勝負ができる状態じゃない。
「やめて……お願い、やめて!」
叫ぼうとしたが、掠れてうまく声が出なかった。
足はすくみ、ただ目の前の光景を見つめることしかできない。身体が言うことを聞かない。恐怖で身体がうまく動かない。
このままじゃ、アルフレッドが殺される!
そう思った瞬間、アルフレッドの雄叫びが中庭に響いた。
彼は残った右手一本で剣を握りなおした。
その剣先は全くぶれることなく人狼を向いている。
一瞬、彼の目がこちらを向いた。
その視線には、死に対する怯えのようなものは無かった。あるのは、騎士としての覚悟だけだった。
「ミュゼッタ!」
名を呼ばれた瞬間、彼が微かに笑ったように見えた。
「俺はお前の『護衛』だ! 責務は必ず果たす!」
たったそれだけの言葉に、彼の生き様が詰まっているような気がした。
人狼が咆哮し、地を蹴る。
巨体が跳躍する。石畳が砕け、砂塵が舞い上がる。
まっすぐにアルフレッドに突進してくる。
その速度は、あまりにも早く、私の目では追い切れない程だった。
迎え撃つアルフレッドの動きは、人狼と比べればずっと緩やかに見えた。
だが、無駄が何一つない洗練された身のこなしだった。
思わず「美しい」と感じてしまうほどに。
自身の勝ちを確信していたのだろう。人狼は、まっすぐにアルフレッドの首を狙って爪を振るった。
しかしアルフレッドは、その動きを読んでいた。
彼は瞬間的に地面に低く身を沈め、人狼の攻撃を紙一重で避ける。
獣の爪は虚しく空を切り裂いた。
次の瞬間、人狼の右脚に光の弧が走り、そこは深々と切り裂かれていた。
バランスを崩した巨体がそのままの勢いで地面を転げる。
中庭に叫びが響き渡った。
それは先程までの勝利の咆哮ではなく、不意の激痛に対する驚愕と怒りの叫びだった。
アルフレッドはかろうじて立っているような状態だった。
呼吸は荒く、顔は血の気が引いている。
だが、それでも彼は笑っていた。守るべきものを守り抜いたことに満足している、子どものような笑みだった。
ふと、空が翳った。
雲が月を覆いはじめたようだった。
同時に、人狼の身体を覆っていた体毛が薄れ、人肌が人間のものへと変わっていった。隆起した筋肉も縮んでいき、巨体が徐々に人の形に戻っていく。
獣の咆哮は、いつしか苦悶に満ちた人間の悲鳴へと変わっていた。
ちょうどそのとき、槍を持った神殿騎士達が中庭に雪崩れ込んできた。
先頭には青い甲冑。シスリィの護衛騎士ディフォーである。
神殿騎士達が、変身の解けかけている人狼を取り囲み、槍を向ける。
侵入者の男は立ち上がり逃げようとするが、動きが鈍い。アルフレッドに斬られた脚がまだ回復していない。もはや人狼としての脅威的な生命力も得られていないようだった。
人狼はそのまま神殿騎士達によって、槍で地に抑え込まれた。
「もう安心です」
ディフォーが言った。
私はうなずくのが精一杯だった。
ディフォーが、拘束した男の顔を確認しながら言う。
「……シスリィ様を襲った賊で間違いないなさそうです」
ディフォーが頷く。そして私の方に向き直って言った。
「あなた方のおかげで無事に捕縛できました。感謝します」
その言葉に、アルフレッドが応じる。
「どうやら、何とかなった……ようだな」
隣を見ると、アルフレッドは剣を杖代わりにして、辛うじて体を支えていた。
アルフレッドと目が合う。
「勝ったのよ、アル」
私が言うと彼は微笑んだ。
そしてそのまま、アルフレッドの体がぐらりと傾いた。
剣が地面に音をたてて転がる。
彼は、糸の切れた人形のように前のめりに倒れた。
「アル!」
私は叫び、駆け寄った。
その体を抱き起こすと、腕の切断面から脈打つように血があふれ出していた。
血が止まらない。まるで彼の命そのものが流れ出ているみたいに。
「ねえ、目を開けて! お願い!」
呼びかけても、彼の瞼はぴくりとも動かない。
ただ、唇がほんのわずかに動いたように見えた。
──無事で良かった。
彼はそんな言葉を呟いた。
それは、私の願いが見せた幻だったのかもしれない。
石畳をゆっくりと踏む足音が聞こえた。
振り返ると、そこにはシスリィが立っていた。
白い法衣が闇の中で淡く輝いているように見える。それはまるで、闇の中において、天から遣わされた救世主のように見えた。
その背後には、神殿騎士ビーニィが厳格な表情で従っている。
「血の匂い……怪我人が出たのですね」
シスリィの声は穏やかだったが、その中に深い悲しみが込められていた。
私は言葉を失ったまま、返事することもできずに立ち尽くしていた。喉が締め付けられたように、声が出ない。
ビーニィが中庭の中央に横たわる青年神官の姿に気づき、シスリィに言う。
「神官が倒れています。出血があるようです」
「すぐに確認して」
ビーニィは無言で頷き、神官のもとへ駆け寄った。膝をついて身を屈め、その手が神官の首筋に触れる。
一瞬の沈黙。
やがてビーニィは小さく、しかし明確に首を振った。
「……残念ながら……すでに息がありません」
その言葉で、何かが壊れたように膝が崩れた。
私はその場に座り込んだ。心臓がぎゅっと握りつぶされるように痛い。呼吸ができない。現実が重くのしかかってくる。
ジーナに「彼のことは任せて」と言った。
何の根拠もなく、そう言い切った。
ジーナの顔が脳裏に浮かぶ。怯えながらも、私の言葉を信じようとしていたあの瞳。
私は、彼女になんと言えば。
浅はかだ。愚かだ。
好奇心に酔って、物語の登場人物になったつもりで、私は彼を助けることができるなどと勘違いしていた。
私はただの歌うことしか能がない、無力な小娘でしかないのに。
なぜ「任せて」なんて言えたのだろう。
なぜ、すぐ誰かに助けを求めに行くということをしなかったのだろう。
結果として、あの青年神官は命を落とした。
アルフレッドも片腕を失った。そして今、彼の命の炎も消えかかっている。
……全部、私のせいだ。
目の奥が熱くなり、涙がとめどなく溢れ出るX嗚咽が漏れた。石畳に涙が落ちる。息が苦しい。胸の奥が締めつけられる。
そのときだった。
誰かの手が、そっと私の肩に触れた。
驚いて顔を上げる。
巫女姫シスリィだった。
「泣かないで」
彼女の声は優しく、私の心の奥底に染み込んでいく。
「彼のことは……残念でした。ですが、アルフレッド様は必ずお助けいたします」
私は顔を上げ、震える唇で尋ねた。
「アルを……救うことができるんですか!」
シスリィはゆっくりと頷いた。
「できます。必ずお救いします」
その言葉だけで、私は縋るように彼女の裾を掴んでいた。
「お願いですシスリィ様。どうか……どうか、彼を助けてください……! 」
シスリィは何も言わずに力強く頷いた。
「私のせいなんです。私が勝手な事をしたから、あの人は——!」
喉の奥から絞り出すように言葉が溢れた。
泣きながら縋る私を、シスリィ様は一言も責めなかった。ただ、静かに微笑んで頷くだけだった。
「ディフォー、アルフレッド様を運び出す準備を。傷の状況を教えてください」
指示されたディフォーはすぐに駆け寄り、腕の断面を確認しようとする。しかし眉を寄せる。
「……暗くてよく見えない! 誰か松明を!」
神殿騎士の一人が走り出そうとする。
シスリィがそれを制した。
「一刻を争います。これで」
シスリィが小さく呪文を呟いた。
彼女の掌の上に、ふっと淡い光が生まれる。
白く透き通る光球が、夜を押しのけるように広がり、闇に沈んだ中庭を明るく照らした。
石畳に散った血の赤が光に照らされる。まるで浄化されていくように見えた。
その様子を見た瞬間、私は涙を拭いもせずに息を呑んだ。
——綺麗。
あまりにも神聖で、あまりにも優しい光。
彼女は、ただ単に光源を創り出す魔法を使ったにすぎない。
だが、その光に、私は救いを見た気がした。
アルフレッドはきっと助かる。
そんな予感がした。
そのとき初めて、私は理解した。
なぜ人々がシスリィを巫女姫と呼び、崇めるのか。なぜ彼女を『奇跡』と呼ぶのか。
アルフレッドが救われる。その奇跡を信じるしかできない私に、目の前に広がった光は、確かな希望を与えてくれた。
光の中で、ディフォーが患部を確認する。出血部分をきつく布で縛りながら彼は言った。
「患部は鋭利な爪で切断された状態です。小石などの異物は入っていません。切れてから間もないようです」
その報告に、シスリィは静かに頷いた。
「その状態なら、まだ十分間に合います」
そしてシスリィの表情はすぐに引き締まる。
「ですが、これだけ血が流れているのです。悠長にしている時間はありません」
「血止めが完了し次第、すぐに運び出します」
「急いで」
ディフォーは頷き、アルフレッドを担架に移す。その動きは素早く、丁寧だった。
そこでふと、何かが頭の中でひっかかった。
それがなんなのかはわからなかった。
だが、今はそんなことはどうでも良かった。
私は地に膝をついたまま、手を合わせて祈った。
正式な祈り方も、口にすべき神への言葉も分からない。
ただただ心の底から生まれる思いを口に出す事しかできない。
助けてください。どうか彼を。
どうか——お願い、神様!
後悔と願いが溶け込んだ涙が、石畳を濡らした。
そして周囲は随分と静かになった。
さきほどまでの喧騒が嘘のように消えた。
シスリィによる簡易的な止血の魔法を受けたアルフレッドは、神殿騎士たちに担がれ、慎重に運ばれていった。
列の先頭にシスリィが静かに歩んでいる。私はただ無言でその背を追った。
アルフレッドが運び込まれたのは、大きな寝台がある一室だった。
そこがシスリィが魔法で治療を行うための特別な部屋であることを、私はすぐに理解した。
痛みを和らげる効果があるとされる香木の煙が漂い、床に刻まれた聖紋が淡く輝いている。魔法を使う際の補助的な意味のあるものだろう。
中央の寝台の上に、アルフレッドが横たえられる。彼のすぐ横には、千切れて血濡れた腕が置かれている。
彼の顔は血の気がない。
今にもその命の灯火が消えてしまいそうに見えた。
私は反射的に駆け寄ろうとした。
だが、その前に遮られた。
「ミュゼッタ殿」
ビーニィが、私とアルフレッドの間に立ち塞がる。
「ここからは、治療に入ります」
「でも──」
「シスリィ様の治癒魔法は極度の集中を要します」
ビーニィの声が事務的に冷たく響く。
「わずかな雑念が、失敗に繋がる恐れもあります。ご理解の程を」
彼女にとって、私はただのシスリィの治療の邪魔になる存在でしかないのだ。治療行為を乱す雑音にすぎないのだろう。ぎゅっと唇を噛み締める。
「自室でお待ちください」
「……わかりました」
私はそう小さく呟くと、アルフレッドの顔を覗き込んだ。
閉ざされた瞼の下で、彼の呼吸が浅く震えているのがわかる。
それでも、確かに生きている。アルフレッドは、生きようとしている。
「どうか、彼を……」
かすれた声は途中で途切れたが、ビーニィは無言のまま、深く頷いた。
そして、重い扉が静かに閉ざされる。
残されたのは、廊下の冷気と、遠くで響く祈りの声だけだった。
私はまるで罪人のように歩き出した。
長い回廊の先、月明かりの届かぬ石段を上がり、自室へ戻る。
灯りをつけても、部屋はどこか冷たかった。
椅子に座ることもできず、窓際と扉の間を何度も往復する。
「私のせいだ……」
その言葉が、呪いのように喉を締めつける。
もし、アルフレッドが命を落としてしまったら。そうなったら、私はもう二度と自らを詩人だと名乗れなくなる気がする。
くだらない好奇心を満たすために誰かの命を捧げた者が胸を張って『詩人』だなんて名乗れるものか。
窓の外を見る。夜空は厚い雲に覆われ、月はその姿を隠している。
今は私には、何もできない。
「アルフレッド……どうか、生きていて」
その声は誰に届くこともなく、静寂に吸い込まれていった。
私は床に膝をつき、うずくまった。
それが私にできる唯一の行為だった。




