⑫無理よ、だってもう背中が壁だもの!
さて、夜である。
神殿の灯りはほとんど落とされ、私はあてがわれた部屋の寝台で、天井をぼんやりと眺めていた。
隣の部屋のアルフレッドはもう寝ているのか、物音ひとつしない。
神殿の夜は、息をひそめたような静けさだった。窓の外には無数の星が瞬いている。
「夜の帳は 天鵞絨
星々は散りし 砂糖菓子
女神が傾けし 砂時計
その残光は 今も煌めく」
思いつくままに詩を口ずさむ。
音もなく、世界は凍りついたように静止している。
この静寂の中では、時間のほうが私を観察しているような気さえしてくる。
寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。柔らかな布の洗剤の香りが、昼間に洗濯をしていたジーナとの会話を思い出させる。
神殿内の派閥争い──絵画が破壊された理由はそこにあるのだろうか。
神殿長は、禁忌の絵画を保管していたことが派閥争いに不利に働くと恐れ、破壊に及んだ?
でも、たったそれだけの理由で、窃盗なんて危うい行為に踏み切るだろうか。
思考は絡まり、解こうとすればするほど、さらに結び目を増やしていく。答えの糸口すら見えない。
調査を始めてから五日も経つというのに、核心に近づいている実感がまるでない。物語が完結する気配がまるで見えない。もどかしさだけが胸に溜まる。
私は寝返りをうった。
静かだ。
ベッドの衣擦れの音すら、はっきりと聞こえる。
──異変はすぐに分かった。
突然、遠くで叫び声が聞こえた。
しばらくの沈黙の後に、複数の足音が石畳を蹴る音。耳を澄ませる。聞こえる怒号。
「曲者はまだ中にいるはずだ!」
「追え! シスリィ様を守れ!」
私は跳ね起きた。
慌てて靴を履き、急いで外套を羽織る。
廊下に顔を出すと、すでに松明の光が行き交い、神殿騎士や神官たちが右往左往していた。
隣の部屋のアルフレッドにひとことも声をかけずに出てきてしまった。
(なんで、部屋でじっとしていなかった!)
こんな風にアルフレッドに後で怒られるんだろうな。
そんなことを考えながらも、胸の奥の何かがうずいた。
何かがこの神殿で起こっている。
好奇心が抑えられない。
また遠くで怒号が響いた。今度はさらに近い。
廊下に出ると、空気が異常に張り詰めていた。
神官たちが慌ただしくどこかへと駆け抜けていく。その表情は皆、恐怖と困惑に歪んでいる。
廊下の向こうから、甲冑の音を響かせながら神殿騎士たちが走ってくる。その中の一人に声をかける。
「すいません! 何があったんですか?」
私が呼びかけると、彼は一瞬だけ立ち止まり、険しい表情で振り返った。
「部屋に戻ってください。危険です」
「でも、一体何が——」
「シスリィ様が襲われました」
「襲われた⁉︎」
「幸い、シスリィ様はご無事です。偶然ビーニィ様がシスリィ様の私室を訪問していたため撃退されました。しかし侵入者はまだ捕えられていません。我々は侵入者の捜索中です。危険ですので、すぐに部屋に戻ってください!」
そう言い残し、神殿騎士は再び走り去ってしまった。
混乱の渦の中に、見知った顔を見つけた。寝巻き姿のジーナが、真っ青な顔で廊下の隅に立ちすくんでいる。
「ジーナ!」
呼び止めると、彼女は怯えた目で振り返り、小さく震えながら囁いた。
「ミュゼッタ様……彼が……ジェイトが中庭に……私……どうしたら……」
ジーナの声は震えていた。かなり混乱しているようだった。
「ジェイトというのは、あの青年神官のことね。中庭に何があるの?」
「わかりません……だけど、彼は『侵入者を見つけた』と言って中庭の方に走っていったんです」
「……中庭ね! わかったわ!」
私は彼女を落ち着かせると部屋に戻るように言った。
「彼の事は私に任せて!」
そして、そのまま、中庭へと歩みを進める。
自分でも呆れるほど迷いがなかった。
頭の片隅では、アルフレッドの警告が響いている。「危険なことには首を突っ込むな」「勝手な行動は取るな」——彼がいつも言う言葉だ。
けれど、好奇心と、青年神官を助けるという無謀な正義感で、私はもう止まることはできない。
そして私は、灯りの消えかけた廊下を、そっと駆け出した。
足音を殺しながら、北の中庭へと続く通路を進む。心臓の鼓動が耳に響く。冷たい汗が背中を伝う。でも、足は止まらない。
廊下の角を曲がるたび、何かが飛び出してくるのではないかと身構える。
でも、そこにあるのは静寂だけだった。
私は好奇心に突き動かされて暗闇の中を進んでいた。
回廊を抜けた途端、夜風が肌に刺さった。
神殿の中庭は静まり返っていた。月は厚い雲に隠れ、光のない世界は、まるで誰かが息をひそめて見ているような薄気味悪さがある。
それでも、引き返すという考えは浮かばなかった。
私はそっと壁に身を寄せ、星明りを頼りに足を進めた。
どこか遠くで神殿騎士たちの声が響いていた。
「北側の扉を閉めろ!」
「外には出すな!」
どうやら侵入者を追いつめているようだ。
……だが、おかしい。怒号は建物の『中』から聞こえている。ジーナの話では、青年神官が『侵入者を見つけた』と言って走ったのは、この中庭だ。
いったい、これはどういうこと?
思わず立ち止まって、中庭を見渡そうとした次の瞬間、背後から足音が迫ってきた。重く、速く、まるで獲物を追う獣のような──。
振り向くより早く、腕をぐいと引かれた。
「何をしているんだ! ミュゼッタ!」
アルフレッドだった。鎧の肩口に灯りの反射がちらつく。
「こっちに侵入者がいるって聞いたから」
「侵入者に会いに行くバカがどこにいる!」
言い争っている間に、中庭の中央あたりからうめき声がした。
私たちは同時にそちらを見た。
中庭の奥──洗濯場の石畳の陰に、黒い影があった。
そして、その足元には、倒れた青年神官の姿。
人影は黒い装束を纏った長身の人物だった。右手には、血濡れたダガー。明らかにシスリィを襲った侵入者だとわかる。
「止まれ!」
アルフレッドの低く鋭い声が響く。
しかし、返事はない。
影はすっと身を翻し、石畳を蹴った。
その速度に私は息を呑んだ。
──速い!
アルフレッドがすぐに剣を抜いた。闇にふたつの光が閃く。
暗殺者の刃とアルフレッドの剣が交差する。
金属音が響く。
「下がっていろ!」
アルフレッドの声が響く。
私は言われるがまま、入り口の方へ退いた。
冷たい石壁に背中に感じながら、暗闇の中で二人の影がぶつかり合うのを見守る。
甲冑のきしむ音。剣戟の火花。
影の動きは異様に軽かった。まるで軽業師のように、するりと斬撃をかわしていく。
それでもアルフレッドは全く怯まなかった。
淡々と攻撃を繰り返す。
じわじわと侵入者を追い詰めていく。
彼の剣捌きは正確で力強い。
「──っ!」
剣が何かを捉えた音がした。
影の肩口から黒い布が裂け落ちる。
「やった!」と思わず声が出た。
だが、「まだ終わっていない!」と返される。
相手はただの侵入者ではなかった。
斬られたはずの肩から血はほんの少ししか出ていない。代わりに、ざらりとした毛のようなものが広がっているのが見えた。侵入者は手に持ったダガーを邪魔だとばかりに投げ捨てる。
月が雲の切れ間から顔を出すと、影の姿が人の形から、獣へと変化していく。
牙、爪が伸びる。皮膚の下をうねるように筋肉が隆起する。
「あれは……ライカンスロープ!」
言葉が喉の奥で詰まる。獣人族と似ているが、その性質は全く異なる特殊な種族だ。彼らは普段は人間と同じ姿をしているが、満月の光を浴びると獣人化する。
獣人化した彼らの膂力は人間をはるかに凌駕する。そして並外れた生命力を得る。
最悪のタイミングで月が出てしまったということになる。
アルフレッドは迷わず構え直した。
「下がれといってるだろ! ミュゼッタ!」
「下がれって……これ以上は無理よ、だってもう背中が壁だもの!」
「そういう意味じゃない!」
自分でも何を言ってるのかわからなかった。
ただ、アルフレッドの戦いから目を離せなかった。
だから、この場に留まりたかった。
闇の中で、再び二つの影がぶつかる。
金属と硬質な爪のぶつかる鈍い音。アルフレッドの動きは鋭く、鍛え上げられた体が剣と一体になっていた。蹴りが暗殺者の鳩尾を捉えている。
暗殺者はたまらず距離をおく。
アルフレッドの剣技と体術は、人狼が相手でも全く見劣りしていない。それどころか明らかに彼の方が優勢だ。
怪物は防戦一方で、足取りも乱れている。
けれど、私には嫌な予感があった。
夜風が何かを告げるようにざわめく。
ライカンスロープは満月で力を得る。だが、まだ月の端に雲がかかっている。
あの月が、完全に出てしまったら……!
そして、その予感は的中した。
頭上の雲が静かに切れ、白い光が中庭を照らす。
獣が咆哮した。
あまりに人間離れしたその叫びに、私は思わず小さく悲鳴をあげる。
アルフレッドがそんな私に気を取られる。
その一瞬を完全な人狼となった侵入者は見逃さなかった。
私とアルフレッドの関係を見抜いたのだろう。
怪物は、一瞬で獲物を『切り替え』た。
身体を深く地に伏せ、その後、信じられない速度で私に向かって突進してくる。
「ミュゼッタ!」
アルフレッドが叫んだ。
しかし、もう遅い。
人狼の動きは先ほどまでとは比較にならないほど速かった。
(避けられない……!)
私の体は全く動かなかった。まるで世界中の全ての時が止まったような奇妙な感覚。
そこで、頭の中をよぎったのは「あ、私の物語って、ここで終わるんだ……」という、詩人の最後にしては、あまりに平凡な台詞だった。
鋭利な爪が、私の首を狙う。肌が凍り付き、全身の血が引いていく。
死を覚悟したその瞬間、私の視界を分厚い壁のような何かが覆い尽くした。
私は突き飛ばされ、石畳の上に倒れ込んだ。目を見開き、その光景を目撃する。
何かが引きちぎれるような音。
「ぐっ!」
アルフレッドの口から、短い、しかし痛みに耐えかねた呻きが漏れる。
彼の左腕が肘の少し上から、鮮血を噴き上げながら宙を舞っていた。
「アルッ!!」
私の悲鳴は、自身の耳には届かなかった。周囲の喧騒も一気に遠のいた。視界がアルフレッドの腕から噴き出す真っ赤な血の色で染まる。抑えきれない動揺で思考が真っ白になってしまう。
彼は、切り落とされた左腕の断面を左手で押さえ、痛みに耐えるために奥歯を噛み締めていた。顔は蒼白だが、その瞳には、私を守り抜いたという騎士としての意地だけが、炎のように燃え盛っていた。
私は、自分の愚かさ、好奇心、そして無謀な行動がもたらしたあまりに重い代償を理解した。




