⑪桶もびっくりして水をこぼしちゃってるじゃない
さてさて、情報収集である。
私は手始めに神殿の東翼を調べる事にした。
神殿来訪初日に見た、ステンドグラスの嵌った大窓がある場所だ。
地図を片手に、光で満たされた回廊をゆっくりと歩く。
石壁に反響する靴音が、やけに大きく聞こえる。
早朝の少し冷ややかな空気が心地いい。
目に入る様々な事柄が少しだけ輝いて見える。
神殿長と絵画盗難事件の関わりを調べるつもりだったのだが、いつの間にか詩作のヒントになりそうな題材を探すことに意識が向いていた。目は自然と、そうした美を求めて彷徨っている。
角を曲がると、光の精霊が前方から近づいてきた。いや、よく見ればシスリィである。
彼女の後ろには、影のようにビーニィが付き従っていた。
「もしかして、そこにいらっしゃるのは、ミュゼッタ様ですか?」
「よく私だとお分かりになりましたね」
「足音です。あなたの軽やかな足運びは印象的ですから」
シスリィはにっこりと微笑んだ。
「こんなところで何をなさっているの?」
「詩の参考になるものがないかな〜と散策していたところです」
私が笑顔で答えると、シスリィは安心したように頷き、隣に歩み寄ってきた。
ビーニィは控えめに、けれど何か気にかけるような目でこちらを見ていた。
そのときだった。
廊下の奥から、複数の足音がこちらへ向かってくるのが聞こえた。数名の神官たちが列を成して進んでくる。
その中心に、赤い法衣のエイワン神殿長。
廊下の空気が一瞬にして引き締まる。
「……おや、シスリィ殿。それに、ミュゼッタ殿も」
神殿長は歩みを止め、シスリィを見つめた。
「ご機嫌ようございます、神殿長様」
シスリィは礼を取る。私も倣って腰を屈めて挨拶をする。
神殿長の目が彼女の姿を捉えたままゆっくりと細くなる。
上から睨みつけるようでもあり、その顔に何か思いを巡らせているようでもあった。
「今日もシスリィ殿はお美しい。思わず見惚れてしまいました」
「……ありがとうございます」
シスリィは少し困惑したようだったが、すぐに微笑むと会釈をし、感謝を述べた。
神殿長は何故か目を伏せた。あえて視線を外したように見えた。
そして次に顔を上げたとき、神殿長の視線はビーニィに移っていた。
「騎士ビーニィ」
その声音には、微妙な響きがあった。どこか嫌味めいた何かを感じさせる。
「何でしょうか」
彼女の対応は冷ややかだった。頭を下げることすらしない。それどころか、神殿長を睨みつけていた。明らかに礼を欠いている。神殿の最上位の人物に向けるべき態度ではないと思われた。
実際に取り巻きの神官がビーニィを責めるような視線を送る。
だが、神殿長はビーニィの態度を気にする様子はなかった。
「シスリィ殿の護衛、よくやっている」
賛辞の言葉だった。だが素直に労いの言葉をかけているようには感じられなかった。それはビーニィも同じようだった。
「それは──」
ビーニィの唇が微かに震えた。怒りとも悔しさともとれない表情を浮かべる。
「お前ほど、シスリィ殿のことを知る者は居るまい。これからも、その役目を全うなさい。……できるならば、ずっと、傍に寄り添っていられるよう祈っている」
「……お言葉、痛み入ります」
睨むような視線を神殿長に向けながらも、ビーニィは形式的に答えた。
神殿長は小さく頷くとシスリィに視線を戻した。
彼は、しばらく彼女の顔を見つめていた。
そして、聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で呟いた。
おそらくその場の誰にも聞こえていなかっただろう。
しかし、私は耳の良さには自信がある。
私だけに聞こえた、微かな呟き。
「……いまだ影がちらつく、か」
どういう意味だろう。気にはなったが、それを問いかけることができるような雰囲気ではなかった。
しばらくの後、取り巻きの神官の一人が、神殿長の肩に控えめに触れながら言った。
「……エイワン様、会議のお時間が迫っております」
神殿長は神官に対して、鷹揚に頷いてみせる。
「ふむ……もうそんな時間か。では失礼」
神殿長と上級神官たちは静かに去っていった。特殊な訓練でも積んでいるのか、彼らの足音は聞こえなかった。ただ、さらさらという法衣の衣擦れの残響だけが、廊下の奥に消えていった。
私たちは、その場に取り残された。
シスリィは困惑したまま息をついた。ビーニィは今にも噛みつきそうな形相で、歩き去っていく神殿長を睨みつけていた。
私は、ただ静かに二人を見ていた。
シスリィに対する神殿長の言葉が妙に引っかかる。
心の中で神殿長の態度を反芻する。
シスリィを見るあの目。
そしてビーニィの態度。
彼女と神殿長の間に何かしらの不和が存在しているのは間違いない。
「ミュゼッタ様?」
シスリィが私の名を呼んだ。
「すみません。急に詩の一節が思い浮かんだのでぼんやりとしてしまいました」
シスリィが首を傾げる。
私は笑って誤魔化すと、その場を後にした。
神殿に滞在するようになって、五日が経った。
例の盗難事件については何の進展もない。しかし、歌を作るための資料集めは順調だった。
神官たちは詩人の来訪を珍しがり、ずいぶんと協力的だった。聞けば様々なことを教えてくれる。おかげで、この神殿に伝わる聖歌の旋律や古代語の詩形など、王都では到底得られない知識を手に入れることができた。
「なるほどなるほど。神殿の外壁に刻まれていた変わった模様は特定の魔法以外の発動を阻害する聖句なのね。神殿の守りに使われている、と……」
私はメモに神官達から聞いた話を記録していく。
思わぬ収穫。詩のための資料集めだけは順調だ。
もちろん、神殿長の動向も探っているし、英雄譚の題材としてのシスリィ様の情報集めも、しっかりと行っている。
……断じて趣味で神殿内の面白そうな話を聞いて回っていたわけではない。断じて。
私は朝食の後に中庭へ足を運ぶのが日課になっていた。洗濯物が並ぶ場所——厳格で清廉とした神殿の中で、人間らしさが一番顔を覗かせるところだ。
洗いざらしの布が風に揺れている。白い法衣の袖が風を孕み、ひらひらと手招きするように見える。
その向こうで、巫女見習いのジーナが桶を抱えてしゃがみ込んでいた。十四、五歳くらいの歳。栗色の髪を三つ編みにして、額の汗を手の甲で拭いながら、黙々と濡れた布を絞っている。
彼女と仲良くなったのは、神殿に滞在し始めて二日目の夜だった。
神殿の広間でリュートを片手に「女神の詩」を披露したとき、聴衆の中で一番最初に、そして一番大きな拍手を送ってくれたのが彼女だった。白い巫女服の袖をばたばたと鳴らして、涙目で「なんて素敵な歌!」とか大声で叫ぶものだから、歌い手の私よりも目立っていた。
それから、顔を合わせるたびに言葉を交わすようになった。
洗濯をしている時も、庭を掃いている時も、廊下で桶を抱えて走っている時も。いつも元気で、少しおっちょこちょいで、かなり愛らしい巫女見習いの少女である。
今日も私は、彼女の姿を探しに中庭へ出た。
朝露を吸い込んだ風が、干された法衣を揺らしている。その向こうで、ジーナが桶の中に腕を突っ込みながら、濡れた布をぎゅうぎゅうと絞っていた。
私はジーナに声をかけようと近づいた。
声をかけようとしたところで、彼女が絞る手を止めて、中庭の向こうにある回廊の一点をぼんやりと見つめはじめている事に気がついた。その視線は、まるで遠い星に願いをかけるように、なんだか熱を帯びているように見える。
視線の先を追うと、そこにはかつて私とアルフレッドを巫女姫の応接室に案内してくれた青年神官の姿があった。
ははーん、なるほど。
私は思わず口元に笑みを浮かべた。
恋の詩を歌い慣れている私には、すぐにピーンときた。
これは恋の香り。
しかも片想いの。
うん、間違いない。
あの真面目そうな青年神官も、まさか自分がこんなふうに見つめられているとは夢にも思っていないだろう。
私は英雄譚も好きだけど、こういう青臭い物語も大好物なのだ。
ジーナの頬はほんのり紅潮し、手に持った濡れた布からぽたぽたと水が滴り落ちているのにも気づいていない様子。
青年神官は何か書類を抱えて歩いており、やがて回廊の向こうへと消えていった。
その姿が見えなくなった瞬間、ジーナは小さくため息をついて、再び布を絞り始めるが、その動作はどこか上の空。
私はそっと彼女の背後に回り込んだ。
「……おはよう、ジーナ。今日も働き者ね」
「えっっっあっっっ、ミュゼッタ様! おっ、おはようございます!」
彼女はぱっと顔を上げ、慌てて立ち上がる。その拍子に勢い余って桶の水が足元に跳ねた。
「そんなにかしこまらなくてもいいのよ。ほら、桶もびっくりして水をこぼしちゃってるじゃない」
私の冗談にジーナも笑い、けれどすぐにまた真面目な顔つきに戻ってしまう。
「あっ……でも、やっぱりミュゼッタ様は、王家の詩人様ですので! 失礼の無いように礼儀を持って接しなければなりませんっ!」
「王家御用達の宮廷詩人なのはそうなんだけど、今はただの旅の吟遊詩人なんだから。気にしないで」
照れ笑いをしながら、私は干してあった布を一枚取り上げる。冷たい水滴が指を伝う。
ジーナはあわあわと手を振った。
「そ、そんな、ミュゼッタ様にそんなことをさせるわけには……! それに、もし神殿長派の神官様に見られたら変な噂を——」
「神殿長派?」
何だか少しだけ不穏な響きである。私は、手にしていた法衣の袖から水を滴らせながら、軽く首をかしげた。
「まるでこの神殿に派閥でもあるみたいな言い方ね」
ジーナは「しまった」という顔をした。が、すぐに周囲を見渡し、小声で私の耳に囁いた。
「……実は……あるんです」
そして声をさらに潜めて続けた。
「神殿長様の側につく人たちと、シスリィ様の側につく人たちです。あの、見習いの身でこういうこと言うの、本当はよくないんですけど……」
「大丈夫よ。誰にも話さないから」
干してあった白布を並べ直すふりをしながら、続きを促す。
「神殿長様の方は、年配の上級神官様たちが多いです。古くからこの神殿を支えてきた人たちです。厳しくて、決まりごとを何より大切にしていて……。逆に、シスリィ様を慕う人たちは、若い神官や巫女、神殿騎士の方々です。皆、シスリィ様の優しさと癒しの力の凄さに憧れているんです」
ジーナは声をさらに小さくして囁く。
「特に神殿騎士の方々は、怪我を治してもらった人も多くて……神殿長をシスリィ様に代わってほしいなんて言う人も……」
「ふうん、権威にしがみつく老人たちと、奇跡に恋する若者たちってところかしら?」
ジーナは小さく笑って、けれど少し困ったように眉を寄せた。
「えっと……難しいことは分かりませんけど、たぶんそんな感じだと思います」
なるほど。
神殿というのは清らかで平等な場所であるはずなのに。結局のところ、人が集まればどこにでも派閥はできてしまう、ということらしい。古い教義を守ろうとする者と、新しい奇跡を信じようとする者。どちらが正しいかなんて、私には分からない。ただ、そこに明確な「温度差」があることだけは感じ取れた。
「ジーナはどっち派なの?」
そう聞くと、彼女は戸惑ってはいたが、少しだけ口元を緩めた。
「私はシスリィ様の方が好きです」
その声には、迷いが欠片もなかった。
「だって、あの方、とっても優しいんですよ」
ジーナは胸に手を当て、目を細めた。
「これは私、誰にも言ったことがないんですけど」
ジーナは内緒話をするように身を寄せてきた。
「この前、庭の掃除をしていた時に、偶然見てしまったんです。シスリィ様が、裏庭の茂みのところにしゃがみこんで、何かをしていらして」
「シスリィ様が? 何をされていたのかしら」
「『大丈夫よ、もう痛くないわ』って、本当に小さな声で、迷い込んできた野良猫に話しかけていたんです。そうして、すぐに癒しの魔法を使われて……」
「誰も見ていないところで、猫を助けていたのね」
「その時思ったんです。誰も見ていないところでも、人間だけじゃなく動物にも分け隔てなく癒しの魔法を使ってあげる。シスリィ様は、本当に優しい方なんだなって」
ジーナの表情は、まるでお日様みたいに輝いている。
私も思わず頷く。
そういえば、昨日もシスリィの姿を見かけた。白い外套の裾を引き、杖を手にゆっくりと歩く姿。その隣には、常に護衛騎士ビーニィが寄り添っていた。彼女がシスリィの腕を支える仕草は、驚くほど自然だった。
初めて会った時には、冷徹で恐ろしい印象を受けた彼女だが、この時の姿は、忠義に厚い護衛というよりも献身的な侍女のようだった。
あの狂犬のようなビーニィが、これほどまでに忠義を尽くす。
きっとそれは、シスリィという人物の人となりがあちぇこそ成せる業なのだろう。
「……そういえば」
私は干した布のしずくを指先で払って言った。
「シスリィ様って、いつからこの神殿に?」
それは自然な流れで出た疑問だった。派閥の話を聞いていて、ふと気になった。
ジーナは首をかしげ、少し考えるように視線を泳がせる。
「えっと……この神殿に赴任なさったのは一年ほど前です。それまでは、西方の小さな神殿にいらっしゃったそうですよ」
「一年……」
私は小さく繰り返した。
「たったそれだけの期間で、古参の神官たちを差し置いて、神殿の多くの人々から、これほどまでに強い信頼を得た、ということね」
一年でこれだけの勢力を築いたとなれば、神殿長とその派閥の人たちが気を揉むのも当然だ。それだけの人を惹きつけるカリスマ性が、シスリィにはあるということだ。
私は濡れた法衣の裾を軽く絞った。
「やはりシスリィ様は英雄と呼ぶに相応しいお方みたいね」
ジーナはぱっと顔を明るくした。
「やっぱりミュゼッタ様もそう思いますか!」
「ええ。……実は彼女を題材にした英雄譚を作りたいって思っているのよ」
「ええっ」とジーナは目を丸くする。
「絶対に、作った方が良いですよ! 完成したら、私、毎日お洗濯しながら歌います!」
「でも、シスリィ様ご自身が、歌にはしてほしくないって」
それを聞いて、ジーナはがっかりした表情を浮かべた。
「……まあ、このまま神殿で過ごしているうちに、いつかシスリィ様の『心の宝物殿』が開くかもしれないけどね」
私が言うと、ジーナは目を輝かせて言った。
「私、シスリィ様のお許しが出るように、女神様へのお祈りをいつもの二倍に増やします!」
私はジーナのその言葉ににっこりと微笑んだ。
風が吹いて、干された白布が、戦女神が掲げる戦旗のように力強く舞う。朝の光を透かしたその影が、私の足元をゆらゆらと撫でていく。
私は指先に残った水滴を払い、空を見上げた。




