同じじゃない
翌日は、本当に休みになった。
セドリックがそう決めた以上、朝からギルドへ行く必要はない。エリオも最初はそのつもりだったのだが、いつもの時間に目が覚め、朝食を食べ終えて宿の部屋へ戻ると、することが急になくなったように感じた。遠征へ出ていた五人が戻るまでの十日ほどは、毎日のように何かしら依頼を受けていた。臨時のパーティに入った日もあれば、一人で完結する小さな仕事を選んだ日もある。教会や記録院へ行くことも多く、何もしない日というのはほとんどなかった。
机の上には、昨日セドリックたちが持ち帰った記録が置いてある。ラウル・ネイス、セラ・ネイス、音守。そして古代神殿で聞いた「セラ」という音。考え始めれば、一日くらい簡単に潰せるだけの材料が揃っていたが、今日は休みだ。
「……やめとこう」
声に出してから、紙を裏返した。休むと決めた日にまで古い記録を追い始めれば、結局いつもと同じになる。明日になれば六人で動く予定だし、中央教会にもそのうち情報を持っていけばいい。急ぐ理由はなかった。
◇
王都を目的もなく歩くのは、久しぶりだった。
依頼中なら目的地があり、通る道にも意味がある。荷車の音、店の呼び込み、人の足音、建物の裏から聞こえる作業音まで、必要な情報として聞こうとしてしまう。けれど今日は何かを探す必要がない。それでも耳には、朝の市場で野菜を積んだ木箱が地面へ置かれる音も、鍛冶屋の前から一定の間隔で響く槌の音も、少し離れた路地から聞こえる洗濯物をはたく音も、いつもと変わらず入ってきた。馬車が石畳を通るたび、車輪の振動が建物の壁へ反射して戻ってくる。
前の世界でも、こういう音をよく録っていた。有名な場所へ行くわけでもなく、誰かが欲しがる音でもない。ただ、その日にそこにあった音を残していた。この世界へ来てからは、音を聞くことが仕事になりすぎたのかもしれない。異常を探し、危険を見つけ、誰かの足取りを追い、古い仕掛けを動かす。そんな使い方ばかりになっていた。
エリオは広場の端にある露店で飲み物を買い、空いている長椅子へ座った。何も探さず、ただ聞いてみる。近くでは子どもが二人、木の輪を転がしていて、片方の輪だけが少し歪んでいるらしく、一周するたび小さく跳ねた。その向こうでは犬が鳴き、飼い主らしい老人が何か言っている。噴水の水は一定に落ちているようでいて、風が吹くたびに響き方が少しずつ変わっていた。
前の世界なら録音機を取り出していたかもしれないし、今なら必要と思えば《残響記録》で残すことができる。それでもエリオは何もしなかった。昨日、六人分の足音を聞いたときと同じだった。
聞いているだけでいい音もある。
そう思えるようになったことが、自分でも少し不思議だった。
◇
「休みの日まで一人?」
声をかけられて顔を上げると、フィーナが立っていた。普段の冒険用の服ではなく簡単な外出着で、手には小さな紙袋を持っている。
「フィーナこそ」
「私は買い物」
「何買ったの?」
「紙とインク」
「休みの日に?」
「必要だったから」
「僕と変わらないじゃん」
「違う。私は調べものしてない」
「僕もしてない」
「本当に?」
「部屋に置いてきた」
フィーナは少しだけ意外そうな顔をした。
「珍しい」
「休めって言われたから」
「素直」
「セドリックがうるさいから」
「それは分かる」
フィーナはそう言ってエリオの隣へ座った。普段なら、二人で顔を合わせれば魔術か遺跡か、最近見つかった音の話になることが多い。しかし今日は、どちらもすぐにはその話を始めなかった。広場の音を聞きながら少し黙っていたあと、エリオの方から口を開いた。
「向こう、どうだった?」
「昨日聞いたでしょ」
「任務じゃなくて。五人で」
フィーナは少し考えた。
「普通だった。最初の二日くらいは、ちょっと変だったけど」
「何が?」
「音が少なかった」
エリオは思わず横を見た。
「僕がいないから?」
「そう。エリオって、よく喋るわけじゃないけど、何かあるたびに言うでしょ。右から二匹とか、奥に水があるとか、この床ちょっと変とか」
「仕事中だからね」
「それがないと、思ったより静かだった」
エリオには、自分がそんなふうに認識されているとは思っていなかった。必要な音を拾い、それを必要な相手へ伝えているだけで、一つ一つを会話とすら意識していないことも多い。それでもほかの五人にとっては、その声まで含めていつもの探索だったらしい。
「困った?」
「困る場面はあった。でも、シリルが見つけたり、私が魔力を探したり、セドリックが止めたりしてた」
「じゃあ大丈夫だったんだ」
「大丈夫だった」
フィーナはそこで少し間を置いた。
「でも、大丈夫なのと、同じなのは違う。リーナがいる前と後でも違うし、バルガスがいないときも違うと思う。セドリックが動けなかった試験のときもそうだったでしょ。一人抜けたら、その人がやってたことを誰かがやる。だから動ける。でも、同じ形ではない」
「ゴードも似たようなこと言ってた」
「誰?」
「臨時で入ったパーティの人」
エリオは、五人がいない間に参加した依頼について簡単に話した。いつもの斥候が怪我で休んでいて、その代わりに自分が入り、森の猪を避けたこと。アニカが足を捻ったときにはリーナはいなかったが、それでも薬と人の手で対処できたこと。
「その人が、いない人の分は誰かがやるって言ってた。そのとき、やっと分かった気がしたんだ。誰かが代わりにできるって、その人がいらないって意味じゃないこと」
フィーナは少しだけ笑った。
「今さら?」
「今さら」
「本当に面倒くさいね、エリオ」
「ひどい」
「でも前よりいい」
フィーナはそう言って立ち上がった。
「行くの?」
「紙買ったから帰る」
「休みなのに何書くの?」
「魔術式の整理」
「調べものじゃん」
「研究は休みじゃなくてもできる」
「それ、僕と変わらないよ」
「違うって」
言いながら歩いていくフィーナの背中を見送り、エリオは少し笑った。
◇
昼を過ぎた頃、今度はシリルに会った。偶然というより、通りの向こうからエリオを見つけたシリルの方が寄ってきたらしい。
「いた」
「何?」
「暇?」
「休み」
「それは知ってる。飯」
シリルはそれだけ言って近くの店を指した。断る理由もなかったので、そのまま一緒に入る。冒険者が多く使う安い食堂で、昼を過ぎてもかなり混んでいたが、奥に小さな席が空いていた。
「向こうで疲れた?」
「疲れた」
「昨日も言ってたね」
「十日以上地面ばっか見てたからな」
「斥候ってそういう仕事じゃないの?」
「毎日あれだけ広い範囲追うのは別だよ。痕跡探して、地図見て、戻って報告して、次の日また別方向。夜は夜で交代」
「夜は兵士がいるって聞いてたけど」
「全部任せるわけじゃない。俺たちも最低限はやる」
届いた料理を食べ始めながら、シリルは今回の任務で自分がどれだけ広い範囲を歩いたか話した。足跡や糞、毛、折れた枝、寝床を追い、それを地図に落とし込んで次の日の進路を決める。エリオが音で周囲を探る方法とは、同じ索敵でもかなり違う。
「でも今回、エリオじゃなくて俺で正解だったと思う」
「僕もそう思う」
「早いな」
「昨日もう考えた」
「落ち込まないの?」
「なんで?」
「前なら少し考えそうだったから」
それを否定できず、エリオは少し考えてから答えた。
「ちょっとは嫌だったよ。五人って決まったとき。でも今回の仕事はシリルの方が合ってた」
「それと嫌なのは別じゃない?」
エリオは手を止めた。
「別か」
「別だよ。選ばれなかったから嫌だ。でも向いてるのは俺。両方でいいだろ」
「そういうもの?」
「知らない。でも俺ならそうする。俺が逆だったら、絶対文句言う」
「言いそう」
「だろ?」
それでシリルはまた食事に戻った。何か深いことを教えようとしたわけではないのだろうが、エリオにはその雑な言い方の方が分かりやすかった。合理的に正しい判断だったとしても、それを嫌だったと思ってはいけないわけではない。どちらか一方へ自分の気持ちを合わせる必要など、最初からなかったのかもしれない。
◇
夕方になって宿へ戻る途中、エリオは六人でよく使う食堂の前を通った。昨日、五人が帰ってきたあとに全員で入った店だ。何となく入口へ目を向けたところで、後ろから声をかけられた。
「エリオ」
振り向くと、今度はセドリックだった。
「今日、みんなに会うんだけど」
「みんな?」
「フィーナとシリル」
「そうなのか」
「王都狭くない?」
「お前が同じところばかり歩いてるだけじゃないか」
「そうかも。セドリックは?」
「散歩」
「本当に?」
「なんだその反応は」
「何か仕事してそうだから」
「休みだ」
「みんな同じこと言う」
セドリックが笑い、そのまま二人で並んで歩き始めた。
「明日から六人で動くんだよね」
「ああ」
「依頼決めた?」
「候補はある」
「また五人指定じゃない?」
エリオは冗談半分で聞いたのだが、セドリックはすぐには答えなかった。その間が思ったより長かったため、エリオは歩きながら横を見る。
「何?」
「明日の依頼は六人で行ける」
「じゃあいいじゃん」
「それとは別に、ギルドから話がある。今日、管理担当から連絡が来た」
「休みなのに?」
「急ぎではない。明後日でもよかった」
「でも見たんだ」
「見た」
セドリックは少し考えながら歩いていたが、やがて言った。
「今回の北東任務の評価が正式に上がってきた」
「良かったんでしょ?」
「ああ。任務完了。現地側の評価も高い。ただ、今回の五人編成について、管理側が『長期派遣任務に適した標準編成』として記録した」
エリオはその言葉を頭の中で一度置き直した。
「標準編成?」
「俺、フィーナ、バルガス、シリル、リーナの五人」
「……ああ」
少しずつ意味が分かってくる。今回だけの事情で選んだはずの五人が、実際に任務へ行って結果を出した。その結果、書類の上では「この五人なら同種の長期任務へ出せる」という実績ができたということだ。
「僕が外れたってこと?」
「違う。パーティ登録は六人のまま。通常依頼も六人で動ける。お前の所属が変わったわけじゃない」
「じゃあ何が変わるの?」
「今後、同じ種別の五人制任務が来た場合、管理側は今回の編成を優先して提示する可能性が高い」
エリオは前を向いたまま歩いた。
今回の判断が間違っていなかったからこそ起きたことだ。広域の追跡に向いているシリルを選び、五人で任務を成功させ、現地からも高い評価を得た。管理する側からすれば、次の似た仕事でも同じ五人を使おうと考えるのは当然で、そこに悪意はない。
「断れる?」
「依頼ごとになら」
「ずっと?」
「それは分からない。推薦任務を受け続けるなら、安定した編成を求められることはある」
セドリックはそこでエリオの方を見た。
「まだ何も決まってない。今回の評価だけで、お前を外せと言われたわけでもない」
「うん」
「だから勝手に先まで決めるなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てる」
昨日、自分がフィーナへ言ったのと同じだったので、エリオは思わず笑った。
「みんな僕の顔分かりすぎじゃない?」
「長く一緒にいるからな」
その言葉に少しだけ気持ちは軽くなったが、問題そのものがなくなったわけではない。六人でいることはできる。しかし、より上位の仕事へ進もうとすると、五人で成功した実績が一つずつ「正しい編成」として積み上がっていく可能性がある。
「明日、みんなに話す?」
「そのつもりだ」
「リーナたちもまだ知らない?」
「知らない」
「そっか」
「エリオ」
「なに?」
「俺はまだ、六人のままでいいと思ってる。でも、推薦任務を続けるなら、今回みたいな話はたぶんまた出る」
「うん」
「そのときは、六人で考える」
エリオは少しだけ間を置いてから頷いた。
「分かった」
◇
宿へ戻ると、朝に裏返した紙がそのまま机の上にあった。
ラウルとセラの記録、古代神殿の言葉、音守。朝ならすぐにでも続きを考え始めただろうが、今は別のことが頭に残っていた。
今回の任務で自分が選ばれなかったことには、もう納得している。シリルの方が適していて、五人はきちんと仕事を終えた。その間、自分も王都で別の仕事をしていた。しかし、その一度の成功が次の判断の基準になることは、「今回だけ適任者を選ぶ」のとは少し違う。
昼間、フィーナは「大丈夫なのと、同じなのは違う」と言った。シリルは「正しい判断でも、嫌なら嫌でいい」と言った。どちらも今の状況に当てはまるような気がした。
五人で仕事はできる。六人でいる必要がないわけではない。
その二つは同じではない。
エリオは机の上の紙へ何かを書き足そうとして、結局ペンを置いた。古い記録なら、分かったことと分からないことを分ければ少しずつ答えへ近づける。けれどこれは、事実と推測を整理するだけで答えが出る問題ではなかった。
六人でいることも本当で、五人で動けることも本当だった。
これまでは同じ場所に並んでいたはずの二つが、初めて少しだけ、別の方向を向き始めていた。




