六人分の足音
五人が戻ってきたのは、その翌日の夕方だった。
エリオは昼から王都近郊の倉庫街で、小さな荷運び依頼に同行していた。危険のない仕事だったが、荷車の車軸から普段とは違う擦れ音がしているのに気づき、途中で止めてもらって確認したところ、固定具が少し緩んでいた。壊れる前に締め直せたことで、御者にはずいぶん感謝されたものの、エリオ自身は大したことをしたつもりはなかった。
依頼を終えてギルドへ戻ったときも、いつもどおり受付へ完了報告を出し、そのまま掲示板の更新を眺めるつもりだった。
だから入口の方が急に騒がしくなったときも、最初は新しい遠征隊でも帰ってきたのだと思った。
「おかえりなさい!」
受付の職員が少し大きな声を出した。
その声に反応して振り向く。
先頭にいたのはセドリックだった。
その後ろにフィーナ、バルガス、シリル、リーナがいる。
五人とも出発したときより少し汚れていた。服の裾には乾いた泥がつき、荷物も旅の途中で何度も積み下ろししたらしく、革紐の位置が少しずれている。
けれど、全員いる。
エリオはしばらく、その五人を見た。
誰かが怪我をしていないか。
歩き方に変なところはないか。
呼吸が乱れていないか。
無意識のうちに、いつものように音まで確認していた。
セドリックの足音。
バルガスの重い歩幅。
フィーナの靴底が床を擦る音。
シリルの軽い足取り。
それから、リーナの鞄の中で薬瓶が小さく触れ合う音。
全部、聞き覚えがある。
「……おかえり」
エリオが言うと、セドリックがこちらを見た。
「ただいま」
その一言を聞いた瞬間、エリオはようやく、本当に帰ってきたのだと実感した。
◇
「で?」
報告を終えたあと、六人はギルド近くの食堂に移動した。
まだ夕食には少し早い時間だったが、全員まともに昼を食べていなかったらしく、注文した料理が来る前からパン籠が一つ空になった。
フィーナが二つ目のパンを取りながら、エリオを見る。
「調べたんでしょ」
「うん」
「手紙に書いたあとも?」
「かなり分かった」
「聞きたい」
「食べてからにしない?」
「聞きながら食べる」
「フィーナ、それたぶん何も味分からなくなるよ」
シリルが笑った。
「いいの。あとでまた食べるから」
「そういう問題か?」
バルガスが低い声で言う。
いつもの会話だった。
五人だけで遠征へ行っていたのは十日以上前のことなのに、こうして六人で同じ机に座ると、空いていた時間が急に短く感じる。
リーナが水を飲みながらエリオを見た。
「ちゃんと食べてました?」
「食べてたよ」
「本当に?」
「なんで疑うの」
「手紙の返事がなかったので」
「返事送ったら、たぶん帰る方が早いと思って」
「それはそうですけど」
リーナは少しだけ納得していない顔をした。
セドリックが笑う。
「元気そうならいい」
「そっちは?」
「全員問題ない」
「怪我は?」
「軽いのはいくつか」
「僕がいない間に?」
「いるときでもするだろ」
シリルが言った。
「確かに」
エリオは素直に頷いた。
リーナが正式に入ってから、怪我をしたときの安心感は増えた。それでも怪我そのものがなくなるわけではない。遠征中にフィーナが腕を擦り、シリルが足首を軽く捻り、バルガスが魔物の角を盾で受けたときに肩を痛めたらしい。
どれも任務を続けられないほどではなく、リーナの処置で問題なく動けたという。
「じゃあ、向こうはどうだった?」
エリオが尋ねた。
セドリックは少し考えてから答えた。
「結論から言えば、任務は完了した」
「魔物の移動は?」
「確認できた。けど、古代神殿やラウルとは今のところ関係なさそうだ」
エリオは、その言葉に少し安心した。
手紙を送ったときから、そこを勝手につなげないようにしていた。
北東の山岳地域で魔物の移動が起きている。
四百八十年前、《残響記録》を持つラウルが同じ地域にいた。
それだけを並べれば、いかにも何かありそうに見える。
けれど、似た場所に二つの出来事があるからといって、同じ原因とは限らない。
「原因は?」
「餌場の変化と、山側の崩落」
シリルが答えた。
「奥の谷が一部潰れてた。大型の魔物が通る道が変わって、その下にいた群れまで押し出されてる」
「自然に?」
「たぶん」
フィーナが補足する。
「魔力の異常は見つからなかったし、崩落跡も普通。古い術式とか、妙な装置とかもなし」
「そうなんだ」
「残念そう」
「ちょっとだけ」
「分かる」
フィーナも少し笑った。
しかし、エリオは本当に残念だったわけではない。古代の謎とつながっていなかったことで、現地の問題はむしろ単純になった。原因が分かれば対処できる。
「ルートはどうしたの?」
「二本に分けた」
セドリックが説明した。
山から押し出されてきた魔物の群れが街道側へ流れないように、現地の冒険者や兵士と一緒に通り道を調整したらしい。完全に追い払うのではなく、人が使っていない谷側へ誘導し、餌になる獣の分布も確認しながら少しずつ移動させた。
大規模な討伐ではない。
けれど、数日単位で動きを追い続けなければならない仕事だった。
「シリル、忙しかった?」
「忙しいなんてもんじゃない」
シリルが机へ肘をついた。
「足跡、糞、毛、折れた枝、寝床。毎日そればっか」
「向いてた?」
「向いてるけど、好きかどうかは別」
その言い方に、エリオは少し笑った。
今回の任務で、五人のうち誰を出すか決めたとき、最後まで比較されたのはエリオとシリルだった。
広域で魔物の移動ルートを追う。
地面に残った痕跡を読み、山の地形まで見ながら進路を考える。
その仕事なら、シリルの方が適している。
実際、その判断は正しかったのだろう。
それを確認しても、不思議と嫌な感じはしなかった。
自分がいなければ五人は困る。
そういう答えを期待していたわけではない。
むしろ、五人だけでもちゃんと任務を終えたことの方が安心した。
「エリオ」
セドリックに呼ばれる。
「なに?」
「今、何考えてた?」
「今回、シリルでよかったんだなって」
「それだけ?」
「うん」
セドリックは少しだけエリオを見たあと、頷いた。
「俺もそう思う」
「セドリック」
フィーナが少し眉を寄せる。
「いや、変な意味じゃない」
セドリックはすぐに続けた。
「今回の任務なら、シリルが必要だった。その判断は合ってた。でも、それとエリオが必要かどうかは別の話だ」
「分かってる」
エリオは答えた。
前なら、その二つを自分の中でうまく分けられなかったかもしれない。
自分がいない方が適している任務がある。
自分が休んでも誰かが役目を補える。
五人だけでも任務は成功する。
それは、自分が必要ないという意味ではない。
ゴードたちと仕事をしたとき、ようやくそれが少し分かった。
「僕もこっちで普通に仕事してたし」
「聞いた」
リーナが言う。
「何を?」
「ギルドで」
「なんて?」
「倉庫の匙を見つけたって」
「そこ?」
エリオは思わず笑った。
「もっと他にもやったよ」
「じゃああとで全部聞きます」
「全部?」
「十日分」
「長いよ」
「こっちも十日分あります」
「じゃあお互い様か」
リーナが満足そうに頷いた。
◇
料理が届いてから、エリオはラウルについて分かったことを順番に説明した。
十七歳で旧中継所に勤めていたこと。
《残響記録》で警戒用鳴器の基準音を保持し、調整時の照合に使っていたこと。
中央教会で見つかった金属板が、その鳴器の「基準板」である可能性が極めて高いこと。
旧中継所の廃止時、基準板が「恩恵鑑定資料」として中央教会へ移管された記録が残っていたこと。
話している途中から、フィーナは食事の手をほとんど止めていた。
「待って」
「まだ途中」
「今のでかなり大きい」
「うん」
「つまり、金属板の正体はほぼ分かったのね」
「基準板でほぼ間違いないと思う」
「古代装置じゃなくて?」
「少なくとも四百八十年前の用途は普通の鳴器調整用」
「普通って言うには精密だけど」
「まあね」
フィーナは考え込む。
「じゃあ、あの板を鳴らしたときの『キン』も、基準音だった可能性が高い」
「そう」
「エリオがその音を再生したら板が震えたのも?」
「そこはまだ分からない」
「基準板なら、共鳴してもおかしくない」
「僕もそう思った。でも、普通の金属板がどこまで反応するのかは調べてない」
「試したくなる」
「しないよ」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てる」
シリルが笑う。
「フィーナ、やめとけ。こいつ今かなり慎重になってる」
「いいことじゃない」
「俺もそう思う」
フィーナは少し不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
「それで」
バルガスが口を開く。
「まだ分からないのは何だ」
エリオは少し考えた。
「円に一本線の記号」
「あの古い分類についてたやつ?」
「うん。基準板の図面にもあった。でも、鳴器全部についてる印じゃなかった」
「製造者の印では?」
セドリックが聞く。
「可能性はあるけど、まだ分からないって」
「ほかは?」
「基準板の『キン』が、神殿とか前の世界で聞いた音に少し似てる理由」
そこで、五人の表情が少し変わった。
これは単なる街道設備の話とは違う。
「完全に同じではないんだな?」
セドリックが確認する。
「違う。音の高さも余韻も違う。でも、鳴り始めの感じと響き方が似てる」
「エリオがそう聞こえるだけ?」
「それもありえる」
「記録できてる?」
「全部ある」
フィーナがすぐに顔を上げた。
「比較したい」
「安全な方法なら」
「何もしない。聞くだけ」
「それならいい」
ここでも、以前とは違う。
何か似たものが見つかると、すぐに試したくなっていた頃があった。
今は違う。
似ている。
でも同じではない。
関係があるかもしれない。
でもまだ分からない。
その状態のまま置いておける。
それは少しだけ、前より進んだということなのかもしれない。
◇
「こっちからも一つある」
セドリックが言ったのは、全員がある程度食べ終わったあとだった。
「ラウルについて?」
「直接じゃない」
セドリックは荷物の横に置いていた薄い書類袋を取り出した。
「現地で確認した古い記録の写しだ」
「何の?」
「旧中継所の人員記録」
エリオは手を止めた。
「ラウルがいたところ?」
「ああ」
「それ、手紙にはなかった」
「帰る直前に見つかった」
セドリックは一枚の紙を取り出した。
そこには古い文書を現代文字へ書き直した写しがある。
「ラウルの名前は?」
「ある」
エリオが受け取る。
前に見つかった記録と同じように、ラウル・ネイスの名があった。
記録補助。
十七歳。
その横に、担当業務が簡単に書かれている。
警戒音照合。
鳴器調整補助。
ここまでは、すでに知っている。
「その下」
セドリックが言った。
エリオは視線を落とした。
人員記録には、同じ中継所で働いていた人間が十人ほど並んでいる。
所長。
街道監視。
輸送管理。
修繕。
調理。
荷馬車担当。
その中に、一人だけ少し違う役目があった。
音守。
エリオは眉を寄せた。
「……これ、何?」
「俺たちも分からなかった」
フィーナが答える。
「名前じゃなくて役職?」
「たぶん」
「誰?」
記録には一人の女性の名前があった。
セラ・ネイス。
二十四歳。
音守。
エリオはそこで止まった。
「ネイス」
「ラウルと同じ姓だ」
セドリックが言う。
「家族?」
「そこまでは記録にない」
「姉とか?」
「年齢だけならあり得る」
「でも分からない」
「そう」
エリオは紙を見たまま考えた。
同じ中継所。
同じ姓。
七歳差。
関係がある可能性は高い。
ただ、それより気になるのは役職の方だった。
「音守って、何をする人?」
「現地の古い用語らしい」
フィーナが説明する。
「ほかの時代の記録にはほとんど出てこない。ただ、同じ頃の北東街道資料で二件だけ確認できた」
「何してた?」
「それが、よく分からない」
「また?」
「でも少しだけ書いてある」
フィーナは別の紙を出した。
そこには短い記述が二つだけ抜き出されていた。
音守――警戒音の規定を管理する者。
音守――鳴器および伝達音の変更には、音守の承認を要する。
エリオは読む。
もう一度読む。
「調整する人じゃない?」
「違うみたい」
フィーナが言う。
「ラウルたちが鳴器を点検して、基準音と合わせる。でも、そもそも何の音を基準にするかを決めたり、変更を管理したりするのが音守だったんじゃないかと思う」
「音そのものの管理者?」
「今のところは、そう読むのが自然」
エリオはセラ・ネイスの名前を見る。
ラウルが音を覚え、再生する。
セラが、その基準となる音を管理する。
同じ姓の二人。
まだ家族とは限らない。
でも、もし関係があるなら、《残響記録》を持つラウルがその仕事をしていた理由にも少しつながる。
「これ、教会に知らせた?」
「まだ」
「明日持っていこう」
「そのつもりだった」
セドリックが答えた。
エリオは紙を返そうとして、ふと止まった。
「セラって」
「どうした?」
フィーナが聞く。
「前にも聞いた気がする」
頭の中で音を探す。
神殿。
声。
古い言葉。
十二の椅子。
発音の違う「ア・リエ」。
その中で、最も強く反応した九番目。
そして、そのあとに聞いた言葉。
「……セラ」
エリオが呟く。
フィーナの表情が変わった。
「第五の部屋」
「うん」
「あのときの?」
「たぶん」
「同じ発音?」
エリオはすぐには答えなかった。
記憶の中にある音を、そのまま呼び出す。
神殿で聞いた古い声。
セラ。
そして、目の前の紙に書かれた名前。
文字から推測する現在の発音。
「……近い」
「同じ?」
「分からない」
エリオははっきり言った。
「名前のセラと、古代語の『セラ』が同じ意味とは限らない。音が似てるだけかもしれない」
「そうね」
フィーナもすぐに頷いた。
誰も、そこで答えを決めなかった。
それが少しだけ安心だった。
ただ一つ、新しく確認できた事実がある。
四百八十年前、ラウル・ネイスが働いていた中継所には、セラ・ネイスという女性がいた。
彼女の役職は、音守。
警戒音そのものの規定を管理する仕事だったらしい。
そしてその名前と同じ音を、エリオは古代神殿で一度聞いている。
そこから先は、まだ分からない。
◇
食堂を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
六人はギルド前で一度立ち止まった。
「明日は休みにする」
セドリックが言う。
「全員?」
「ああ。報告も終わったし、今日はもう十分だ」
「僕も?」
「なんでお前だけ働く前提なんだ」
「十日ずっと遠征してたわけじゃないから」
「その間ずっと仕事してただろ」
「まあ」
「じゃあ休め」
セドリックの言い方に、エリオは少し笑った。
「分かった」
「明後日から六人で通常依頼に戻す」
その言葉を聞いて、エリオは一瞬だけ考えた。
六人で。
そこに迷いはない。
五人で任務へ行った。
五人で成功した。
自分は王都で別の仕事をした。
それでも戻れば、また六人になる。
「うん」
エリオは答えた。
リーナの薬瓶が、小さく鳴る。
シリルが欠伸をしながら歩き出し、バルガスがその後ろへ続く。フィーナはまだセラ・ネイスのことを考えているらしく、ぶつぶつ何か言っていた。
セドリックも少し遅れて歩き出す。
エリオはその音を聞きながら、自然に隣へ並んだ。
六人分の足音が、王都の夜道へ重なる。
十日前と同じ音ではない。
リーナが正式に加わってからの時間はまだ短く、遠征で五人に分かれ、その間にエリオも別の人間と仕事をした。
少しずつ変わっている。
それでも、今は六つある。
エリオはその音を記録しようとは思わなかった。
覚えようとしなくても、もう十分に聞き慣れていた。




