基準板
行政記録院から閲覧許可が下りたのは、申請を出してから三日後だった。
エリオはその知らせを中央教会経由で受け取った。老司祭が紹介状を添えてくれていたおかげか、思っていたよりずっと早い。ただし、四百年以上前の街道関係資料は保存状態が悪く、自由に棚を探せるわけではないらしい。事前に申請した「旧北東街道の中継所」「警戒用鳴器」「ラウル・ネイス」という三つの条件に該当しそうな資料だけを、記録院側が先に選んで用意してくれることになっていた。
指定された日の朝、エリオは依頼を入れずに記録院へ向かった。王都の行政区画にある建物は中央教会より新しく、内部もかなり事務的だった。冒険者ギルドのような人の出入りの激しさはなく、広い受付の奥には同じ形の机と書棚が規則正しく並んでいる。
「エリオ・アルディスさんですね」
紹介状を確認した職員が言った。
「はい」
「四百八十年前前後の旧北東街道資料について、三点ご用意しています。ただし原本は一部のみで、残りは保存用の写本です」
「読めます?」
「当時の行政文書なので、現在の文字と多少違います。分からない部分があれば職員を呼んでください」
エリオは頷いた。
古代神殿の文字とは違う。それなら、自分でもある程度は読めるはずだった。
案内された閲覧室には、細長い机が一つあり、その上に三つの資料が並べられていた。最初は旧中継所の備品台帳。二つ目は街道警戒制度についての運用記録。そして最後の一つは、鳴器の整備に関する図面と報告書をまとめたものだった。
エリオは迷わず三つ目から開いた。
◇
最初に出てきたのは、鳴器そのものの簡単な構造図だった。
現在の警報具のように魔術式で音を発生させるものではなく、金属製の筒と複数の薄板を組み合わせた機械式の道具だったらしい。風や衝撃で勝手に鳴るものではなく、人が操作すると内部の部品が薄い金属板を叩き、決められた高さの音を出す。
中継所ごとに同じ構造の鳴器が置かれ、音の高さと回数を組み合わせることで、街道上の異常を離れた場所へ知らせていた。
ここまでは、セドリックからの手紙に書かれていた内容とほぼ同じだった。
ただ、図面にはもっと細かな部分まで残っている。
エリオは内部構造を追っていき、中央付近に描かれた小さな部品で目を止めた。
円形。
一部が欠けた薄い金属板。
表面に複数の細い溝。
「……これ」
中央教会で見たものと、よく似ている。
完全に同じかどうかは、図だけでは分からない。しかし形も大きさも近く、少なくとも偶然似ただけの別物とは考えにくかった。
図の横には部品名が書かれている。
基準板。
エリオはその文字を何度か読み直した。
さらに説明を追う。
基準板は、鳴器そのものが音を出す部品ではない。
鳴器を整備するとき、正しい音の高さを確認するために使うものだった。板そのものを鳴らして基準音を出し、鳴器の音と比較しながら内部の金属部品を調整する。
つまり。
中央教会で見つかった金属板は、少なくとも形と用途の上では、この基準板と一致する。
エリオは椅子へ座り直した。
前回まで分かっていたことが、頭の中で少しずつつながっていく。
ラウル・ネイスは《残響記録》によって基準音を保持し、鳴器調整時に再生音との照合を行っていた。
そして鳴器そのものには、正しい音を示すための基準板があった。
なら、ラウルがしていたことはかなり具体的に想像できる。
基準板を鳴らす。
その音を《残響記録》で覚える。
現地の鳴器を鳴らし、自分が保持している基準音と比較する。
違えば調整する。
「本当に、そのままだ」
エリオは小さく呟いた。
特殊な儀式でも、古代魔法でもない。
音を正確に覚えられる人間が、音の狂いを確認する仕事をしていた。
《残響記録》だからできる。
でも、用途そのものは驚くほど現実的だった。
◇
エリオはさらに資料を読み進めた。
鳴器は、一種類の音だけを出すわけではなかった。内部には複数の発音部があり、三段階の高さを使い分ける。さらに短く鳴らすか長く鳴らすかによって意味を変え、異常の種類や程度を伝えていた。
この仕組みを見たとき、エリオは監視塔で調べた古い信号を思い出した。
短音。
長音。
了解。
確認中。
異常あり。
応援要請。
あの監視塔は約百年前のものだった。
今回の街道鳴器は四百年以上前。
時代も地域も違う。
だから、すぐに同じ仕組みだとは考えなかった。
人間が遠くへ情報を伝えるために、短い音と長い音を使い分けること自体は、それほど不思議な発想ではない。前の世界にだって似たような方法はあった。
ただ、この世界では昔から「音を情報として保存し、正確に伝える」という考え方が何度も使われてきたのだろう。
エリオにとっては、そのことの方が興味深かった。
次のページには、鳴器の点検手順が記されていた。
まず基準板を鳴らす。
次に鳴器を作動させる。
差異がある場合は内部調整。
一定以上の差がある場合は部品交換。
そして最後に、点検担当者による確認。
その欄の横に、小さく追記があった。
恩恵保持者がいる場合、再生音による二重確認を推奨。
エリオはそこで止まった。
「恩恵保持者」
《残響記録》とは書かれていない。
けれど、ラウルが実際にその役割を担っていたことは別の記録で分かっている。
つまり、《残響記録》は鳴器のために作られた恩恵ではないにしても、少なくとも当時の人間はその能力をこの仕組みへ利用していた。
ここまでは、もうかなり確かだった。
エリオは手元の紙へ簡単に整理した。
ラウルが《残響記録》を持っていた。
ラウルが鳴器の基準音を保持し、照合に使っていた。
旧中継所には基準音を出すための金属板が存在した。
中央教会で見つかった金属板は、その図面と極めて似ている。
ただし、教会の板が実際にラウルの使った基準板だったかどうかは、まだ分からない。
そこまで書いてから、エリオは少し満足した。
分かることと、まだ分からないことが、ようやく綺麗に分かれた。
◇
「この記号について聞いてもいいですか?」
エリオは近くにいた記録院の職員を呼んだ。
基準板の図面の端に、小さな印が描かれている。
円の中に一本の線。
中央教会の古い分類表で、《残響記録》を含む十一の恩恵名に付けられていたものと同じ記号だった。
「これ、何の印か分かります?」
職員は図面を覗き込み、しばらく考えた。
「この資料だけでは分かりませんね」
「製造者の印とか?」
「可能性はあります。ただ、行政資料でこの記号を分類した索引は見たことがありません」
「鳴器全部についてた?」
「少しお待ちください」
職員は別の資料を持ってきた。
ほかの中継所の備品台帳らしい。
いくつかページを確認したが、記号そのものについての説明はない。
「少なくとも、鳴器の管理記号として統一されていたものではなさそうです」
「どうして?」
「同時期の別製造所の鳴器には記載がありません」
エリオは少しだけ残念に思った。
ここまで来たなら、記号の意味も一緒に分かるかもしれないと思っていた。
ただ、それは欲張りなのだろう。
一つ答えが出たからといって、全部が同時に解ける必要はない。
「じゃあ、これはまだ分からない」
「そうですね」
「分かりました」
職員は少し不思議そうな顔をした。
「もっと残念がるかと思いました」
「前はたぶん残念だった」
「今は?」
「一個分かったからいいです」
エリオが答えると、職員は小さく笑った。
◇
最後に備品台帳を確認した。
そこには旧中継所ごとの鳴器数と、基準板の保管数が並んでいた。
ラウルが働いていた中継所にも、基準板が一枚。
その記録を見たとき、エリオは少し期待した。
廃止時にどこへ移されたのか分かれば、中央教会の板とのつながりを確認できるかもしれない。
ところが、廃止時の欄には予想とは違う記述が残っていた。
鳴器本体――解体。
金属部品――再利用。
基準板――中央教会へ移管。
エリオは、その一行を黙って見た。
何度か確認したが、読み間違いではない。
「これ」
さっきの職員をもう一度呼ぶ。
「中央教会って書いてありますよね」
「はい」
「理由は?」
職員が横の注記を読む。
「恩恵鑑定資料として保存、とあります」
そこまで分かれば、もうほとんど答えだった。
旧中継所が廃止された際、ラウルが使っていた可能性のある基準板は、金属として再利用されず、中央教会へ送られた。
しかも理由は、恩恵鑑定資料としての保存。
そして現代、その板はラウル・ネイスの鑑定記録と同じ保管束から見つかった。
「じゃあ、あれ」
エリオは思わず言った。
「ラウルのところの板だ」
「現物を確認していないので、記録上は、としか言えませんが」
「でもかなり高いですよね」
「可能性は高いでしょう」
今度は、推測を重ねすぎているわけではない。
保管先まで記録に残っている。
中央教会にある金属板が、旧中継所から移された基準板である可能性は非常に高い。
そして、その板はラウルの《残響記録》と一緒に保存された。
エリオはしばらく、資料の一行を見ていた。
これでまた一つ、答えが出た。
◇
記録院を出たあと、エリオは中央教会へ向かった。
急ぐ必要はなかったが、今回の資料は老司祭にも知らせておいた方がいい。
老司祭は話を聞くと、すぐに前回の金属板を保管庫から出してきた。もちろんエリオには触れさせず、布の上へ置いて図面の写しと並べる。
「ほぼ同じですね」
老司祭が言った。
「うん」
形。
欠けている部分。
表面の細い溝。
図面だけでは細部まで完全には比較できないが、少なくとも構造上は一致している。
「では、これは古代の未知の装置ではなく」
「四百八十年前の街道鳴器の基準板」
「その可能性が極めて高いでしょう」
エリオは少しだけ複雑な気分になった。
「なんですか?」
老司祭が気づく。
「いや。もっとすごいものかと思ってた」
「残念ですか?」
「ちょっとだけ」
正直に言うと、老司祭が笑った。
「でも、こっちの方がいいかも」
「なぜ?」
「一個分かったから」
この板が何なのか分からないまま、古代神殿の円盤と似ている、前世の音と似ている、分類記号が同じだと謎ばかり増やすより、四百八十年前に実際に使われていた基準板だと分かった方がいい。
ただし、一つだけ残る。
この板が出す「キン」が、古代神殿や前世で聞いた音と似ている理由。
そして、円に一本の線という記号。
そこは、まだ何も分かっていない。
エリオは板を見ながら、その二つを無理につなげるのをやめた。
◇
宿へ戻った頃には、外はもう暗くなり始めていた。
部屋に入ったエリオは、机の上へ今日のメモを置いた。
ラウルの仕事が分かった。
金属板の用途もほぼ分かった。
教会に残っていた理由まで分かった。
数日前まで三つとも謎だったものが、今はかなり具体的になっている。
その一方で、円に一本線の記号の意味は分からない。
基準板の音が、なぜ古代神殿の「キン」と似ているのかも分からない。
それでいい。
全部を一度に解く必要はない。
エリオはメモを折り、セドリックから届いた手紙の横へ置いた。
五人が戻ってきたら、今日分かったことを話せばいい。
あと数日。
そう考えたところで、エリオはふと派遣日数を数えた。
五人が王都を出てから、もう九日が経っている。
予定は十日から二週間。
早ければ、そろそろ帰ってくる。
そのことに気づくと、古い記録のことより先に、久しぶりに六人で食事をする場面が頭に浮かんだ。
エリオは少し笑い、明日の依頼を決めるためにギルドへ行く時間を考えた。
戻ってくる日が分からない以上、待っている必要はない。
自分は自分の仕事をしていればいい。
帰ってきたときに、話すことはもう十分に増えていた。




