呼んではいけないもの
森の奥から響いた低い咆哮を聞いた瞬間、エリオは自分が何をしたのか理解した。
黒牙狼の声を再生した。
そして本物の黒牙狼が、それに反応した。
考えてみれば当然だった。魔物の鳴き声には意味がある。威嚇、警戒、求愛、縄張りの主張。前世の動物だって、ただ意味もなく鳴いていたわけではない。
まして黒牙狼のような群れで行動する魔物なら、同族の声に反応しても何も不思議ではなかった。
「……完全に失敗したな」
エリオは小さく呟き、薬草の入った袋を素早く背負い直した。
黒牙狼の咆哮は、もう一度聞こえた。
先ほどより近い。
低い声が森の木々の間を抜け、腹の底まで震わせるように響いてくる。
距離は正確には分からない。
ただし、音量と反響の変化から考えれば、確実にこちらへ近づいている。
エリオは街道の方向を確認した。
来た道を戻るのが最短だ。
戦うという選択肢は最初からなかった。
黒牙狼は、グレイハウンドとは比較にならない。
狩人から聞いた話では、一体でも経験の浅い冒険者が相手にしていい魔物ではない。体格は大型犬を遥かに超え、牙は革鎧程度なら簡単に貫く。群れで現れれば、熟練の冒険者でも苦戦するという。
エリオは走り出した。
森の中では足元が悪い。
木の根や石を避けながら進みつつ、それでも耳だけは周囲の音を拾い続ける。
自分の足音。
枝を踏む音。
荒くなっていく呼吸。
その奥。
別の足音があった。
ドッ、ドッ、と地面を叩く重い音。
一体。
少なくとも今のところ、一体だ。
だが速い。
「まずいな」
思っていた以上に距離が縮まっている。
エリオは走りながら考えた。
このまま街道まで戻れば逃げ切れるか。
難しい。
相手の方が速い。
では、もう一度別の魔物の声を使うか。
それも危険だ。
さらに別の魔物まで呼び寄せれば、状況は悪化するだけだ。
黒牙狼そのものの声を使う方法もある。
だが、先ほど再生した咆哮が何を意味していたのか分からない。
挑発だった可能性すらある。
エリオは前世で音を集めていた頃のことを思い出した。
知らない音を使うときは、その意味を確認する。
効果音なら多少間違えても問題はない。
だが今は違う。
音がそのまま命に関わる。
背後で枝が折れた。
バキッ。
近い。
エリオは反射的に振り返った。
木々の隙間に、黒い影が見えた。
大きい。
グレイハウンドの倍近くある。
黒に近い灰色の毛並み。肩の位置がエリオの腰近くまであり、開いた口からは長い牙が覗いている。
黒牙狼。
実物を見るのは初めてだった。
「聞いてた話よりでかくないか?」
そんなことを言っている場合ではない。
黒牙狼が低く唸った。
グルルルル……。
エリオは、その音を記録した。
恐怖で身体が強張っていても、《残響記録》だけはいつも通り働いている。
狼の足が一歩前へ出る。
エリオは短剣を抜いた。
まともに戦えば勝てない。
それでも、何もしなければ噛み殺される。
黒牙狼が地面を蹴った。
エリオは横へ飛んだ。
巨体がすぐ脇を通り過ぎる。
風圧が頬を撫で、直後に太い前脚が地面を削った。
「っ!」
転がるように距離を取り、すぐに立ち上がる。
心臓が激しく鳴っていた。
怖い。
当然だった。
前世でも今世でも、本気で自分を殺そうとする存在と向き合ったことなど一度もない。
短剣を握る手が震えている。
黒牙狼は再びこちらを向いた。
だが、すぐには飛びかかってこなかった。
低い唸り声を上げながら、エリオの周囲をゆっくり回り始める。
その音を聞きながら、エリオは違和感を覚えた。
さっき森の奥から聞こえた咆哮とは違う。
今の声は低く、途切れず、明らかに威嚇している。
では、先ほどの声は何だったのか。
エリオは記憶の中から二つの音を並べた。
自分が再生した、狩人から記録した黒牙狼の声。
そして今、目の前の個体が出している声。
同じ黒牙狼でも、音の形がまるで違う。
自分が使ったのは、長く大きな咆哮だった。
あれが縄張りを示す声だとしたら。
この個体は、自分の縄張りに別の黒牙狼が入ったと思って確認しに来たのかもしれない。
ならば。
「……逆にできるか?」
エリオは考えた。
威嚇ではなく、退くときの声。
服従。
警戒解除。
そういう音があれば、戦わずに済む可能性がある。
だが、知らない。
黒牙狼の声について、エリオが記録しているのは狩人が持ち帰った個体の咆哮だけだった。
知識が足りない。
その事実を、これほど悔しいと思ったのは初めてだった。
黒牙狼が再び姿勢を低くした。
来る。
エリオは短剣を構えた。
そのときだった。
森の別方向から、何かが飛んできた。
風を切る音。
直後。
矢が黒牙狼の足元へ突き刺さった。
黒牙狼が横へ跳ぶ。
「伏せろ!」
聞き覚えのない男の声が飛んできた。
エリオは反射的に身を低くした。
その頭上を、二本目の矢が通過する。
黒牙狼が大きく身を捻った。
矢は肩へ刺さったが、致命傷にはならない。
怒りの咆哮が響いた。
同時に、木々の間から二人の冒険者が飛び出してきた。
一人は弓を持った若い男。
もう一人は大きな盾と剣を持つ女だった。
「こっち!」
女がエリオの前へ出る。
黒牙狼が突進してきた。
女は盾を地面へ固定し、真正面から受け止める。
鈍い衝撃音が響いた。
その音を、エリオは無意識に記録した。
「今!」
女が叫ぶ。
弓使いが横へ回り込み、至近距離から矢を放った。
一本。
二本。
二本目が黒牙狼の首元へ深く刺さる。
黒牙狼が暴れ、盾を押し込む。
女が歯を食いしばる。
このままでは押し切られる。
エリオは周囲を見た。
何かできることはないか。
戦う力はない。
だが、音なら。
そのとき、黒牙狼が再び大きく口を開いた。
咆哮する。
エリオはその声を聞いた。
今までで一番大きい。
怒り。
痛み。
威嚇。
そして。
遠くから、何かが返した。
小さな咆哮。
エリオだけが気づいた。
もう一体いる。
いや、一体ではない。
左右から異なる足音が近づいている。
「二体来る!」
エリオが叫んだ。
女が振り返る。
「何?」
「右と左から一体ずつ!」
「見えるのか?」
「聞こえる!」
弓使いが周囲へ視線を走らせる。
まだ姿はない。
「どれくらい?」
エリオは耳を澄ませた。
右。
枝を踏む音。
左。
地面を蹴る音。
速さが違う。
「右が先! 十秒くらい!」
「十秒?」
「たぶん!」
女は一瞬だけ迷ったあと、叫んだ。
「ルーク、右!」
「分かった!」
弓使いが方向を変える。
エリオは左を向いた。
「左はもう少し遅い! 二十……いや、十五秒!」
「分かった!」
女が目の前の黒牙狼を押し返した。
弓使いが右側の茂みへ矢を構える。
八秒。
九秒。
エリオの耳には足音がはっきり近づいている。
「来る!」
茂みが揺れた瞬間、矢が放たれた。
飛び出してきた黒牙狼の胸へ突き刺さる。
「本当に来た!」
弓使いが驚いた声を上げた。
「次、左!」
エリオは叫ぶ。
女が剣を振り抜き、最初の黒牙狼の側面を切りつけた。
弓使いはすぐに次の矢をつがえる。
左から来た個体が姿を現す。
今度は事前に分かっていた。
二人は慌てなかった。
数分後。
三体の黒牙狼はすべて地面に倒れていた。
◇
「助かった……」
エリオは木にもたれながら、その場へ座り込んだ。
戦闘が終わった途端、脚から力が抜けた。
短剣はほとんど使っていない。
それでも全身から汗が噴き出している。
「それ、こっちの台詞なんだけど」
盾を持っていた女が笑った。
年齢は二十歳前後だろうか。短い茶色の髪を額へ張りつかせながら、血の付いた剣を布で拭いている。
「二体目と三体目、あんたが言わなかったら危なかった」
弓使いの男も頷いた。
「姿が見える前に場所まで分かるの、何なんだ?」
「《残響記録》っていう恩恵です」
二人が同時に首を傾げた。
「聞いたことないな」
「音を記録して再生できます」
「それで?」
「音を聞き分けられるんです。正確には、過去に聞いた音と比べられるから」
説明しながら、エリオ自身も気づいた。
自分はいつの間にか《残響記録》を、単なる保存と再生以上のものとして使い始めている。
足音から数を判断する。
距離を推測する。
過去に聞いた音と比較して異常を見つける。
能力そのものが教えてくれるわけではない。
エリオが記録した音を、自分で判断している。
「それ、普通に便利じゃない?」
女が言った。
エリオは少し驚いた。
「便利?」
「少なくとも森ではね」
女は当然のように答えた。
「敵が見える前に場所と数が分かるなら、斥候みたいなことできるじゃない」
斥候。
その言葉は、エリオには妙に新鮮だった。
町ではずっと、珍しいだけの《恩恵》だと言われてきた。
教会でも、戦闘には向かないと判断された。
冒険者ギルドでも非戦闘系として登録された。
それを、この二人は初めて実戦的に評価した。
「名前は?」
弓使いが聞いた。
「エリオ」
「俺はルーク」
男が自分を指差し、それから隣の女を見る。
「こっちはミラ」
「よろしく、エリオ」
ミラが手を差し出した。
エリオはその手を握った。
「よろしく」
「で、エリオ」
「はい」
ミラは倒れた黒牙狼を指した。
「なんで一人でこんなの三体も呼んだの?」
エリオは黙った。
ルークもこちらを見る。
「……呼んだ?」
「たぶん」
「どうやって?」
エリオは少し迷ったあと、《残響記録》で黒牙狼の咆哮を小さく再生した。
グォォォ……。
二人が固まった。
「……お前」
ルークが口を開く。
「それ、森でやったの?」
「はい」
「黒牙狼の縄張りで?」
「知らなかったので」
「馬鹿なの?」
エリオは否定できなかった。
ミラが耐えきれず吹き出した。
「まあ、生きてたんだからいいじゃない」
「俺たちが来なかったら死んでたぞ」
「それはそう」
エリオも認めるしかない。
冒険者になって初日。
初めての依頼。
そして初めての失敗。
だが、得たものもあった。
音は、ただ再生すればいいわけではない。
何の音なのか。
なぜ鳴るのか。
どんな意味を持っているのか。
そこまで理解しなければ、使いこなしたことにはならない。
前世で音を集めていた頃には、考えたこともない使い方だった。
ミラが倒れた黒牙狼を確認しながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえばエリオ、パーティは?」
「まだ入ってないです」
「今日登録したばかりなので」
「今日?」
ルークが呆れた顔をする。
「初日に黒牙狼三体って、運がいいのか悪いのか分からんな」
「悪いと思う」
「俺もそう思う」
ミラは少し考えてから、エリオを見る。
「じゃあさ」
「はい」
「しばらく私たちと一緒に来る?」
エリオは目を瞬いた。
突然の誘いだった。
「いいんですか?」
「少なくとも、音を聞く能力は役に立ちそう。それに」
ミラは少し笑った。
「一人にしておくと、また何か呼びそうだから」
「……気をつけます」
「信用できないなあ」
ルークが笑った。
こうしてエリオは、冒険者になった初日に初めての仲間を得た。
後になって振り返れば、この出会いは決して無駄ではなかった。
森の歩き方も、魔物との戦い方も、冒険者として生きるための基本も、エリオは彼らから多くを学ぶことになる。
そして同時に。
《残響記録》が仲間を助ける力になるということも。
その便利さが、いつしか「いて当然のもの」として扱われるようになるということも。
このときのエリオは、まだ知らなかった。




